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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第26話 まだ確定していないルール

 六月七日。


 朝起きてすぐ、昌志は黒い本を開いた。


 ページはまだ黒いままだった。


 昨夜、午前零時を過ぎても何も文字が浮かばなかった。それでも朝になれば、何か出ているかもしれないと思った。


 けれど、何も変わっていなかった。


「……何もなしか」


 声に出しても、安心はできなかった。


 何も書かれていない。

 だから何も起きない。


 そう思えれば楽だった。

 でも、もうそうは思えない。


 六月三日もそうだった。


 黒い本には何も出ていなかった。

 それでも、昌志は一万円を渡しに行った。


 黒い本に書かれていない出来事も、日々の生活に侵入してくる。


 書かれていないから安全。

 そんな単純な話ではなかった。


 昌志は机の引き出しを開けた。


 そこから、使いかけのノートを取り出す。


 数学の途中式や、古文単語のメモが残っているノートだった。空いているページを開き、シャープペンを握る。


 黒い本のことを、書き出してみるしかない。


 そう思った。


 頭の中だけで考えていると、全部が曖昧になる。何が分かっていて、何が分かっていないのか。


 それすら分からなくなる。


 昌志は、ページの一番上にこう書いた。


 黒い本について。


 その下に、少し迷ってから、もう一行足す。全部まだ仮説、と。


 書いた文字を見て、昌志は小さく息を吐いた。


 仮説。


 そう書いておかないと、安心しすぎてしまう気がした。


 まず、五月のことを書く。


 五月までは、もっと先まで見えた。数日先の予定もあった。日付と出来事名が、目次みたいに並んでいた。


 だから昌志は、それを見て、得になりそうなことだけ拾おうとした。


 面倒そうなこと。

 危なそうなこと。


 損をしそうなこと。

 そういうものは避けた。


 小テストの範囲。


 雨。

 怪我。

 スクラッチ。


 使えるものだけを使っていた。


 昌志は手を止めた。


 その時は、それが賢いやり方だと思っていた。黒い本を予定表や未来日記みたいに使っていた。


 でも、違った。


 昌志は、警告文を思い出す。


 これは予定表ではない。


 これは、まだ書かれていない自叙伝である。選ばなかったものは、消えたとは限らない。


 その言葉を思い出すと、背中が少し冷えた。


 昌志はノートに書き続けた。


 六月から変わったこと。


 午前零時を過ぎるまで、次の日のことは読めない。そう思っていた。


 でも、それもまだ確定ではない。


 少なくとも六月に入ってからは、五月みたいに何日も先の出来事が並ばなくなった。


 当日になるまで読めないことが多い。

 何も出ない日さえある。


 ここまで書いて、昌志は少し迷った。


 多い、そう書いた。


 必ず、とは書けなかった。

 必ずと書くのが怖かった。


 六月以降は、固有名詞が出にくい。

 人物の名前は、出にくくなっている。


 五月までは、もう少し分かりやすかった。


 けれど六月に入ってからは、圭佑、瑞美、母、司、そういう名前がそのまま出ることが少ない。


 代わりに、


『いつもの相手』


『彼』


『彼女』


『家の中』


『母』


 そういう書き方をされる。


 今のところ、『いつもの相手』や『彼』は、たぶん圭佑のことだと思う。


 『彼女』は、たぶん瑞美遥のことだと思う。


 でも、これもまだ確定ではない。


 黒い本が、誰を何と呼んでいるのか。


 俺が勝手にそう読んでいるだけかもしれない。


 圭佑とは書かれない。

 瑞美とも書かれない。


 いつもの相手。


 彼女。

 家の中。

 母。


 そういう曖昧な言葉になる。


 読めるけど、分かるとは限らない。


 次に、時間のことを書く。


 時間はあまり当てにならない。


 午後と書いてあっても、朝に起きることがある。


 細かい時刻までは分からない。書いてある時間は、出来事の中心に近いだけかもしれない。


 場所も当てにならない。駅前の店で落とすはずだった小さなものは、家の中で写真立てになった。


 人の多い場所で見られるはずだった隠し事は、家の中で司に見られかけた。


 外に出なければ安全、ではない。


 ここで、昌志は一度ペンを置いた。


 昨日のことを思い出す。

 家にいればいい。


 外の出来事なら、家にいれば避けられる。


 そう思った。


 けれど、黒い本はそうではなかった。


 場所を避けても、出来事の核だけが形を変えて追ってくる。


 小さなものを落とす。

 隠したかった言葉を見られる。


 嘘をつく。


 心配事を聞かれる。


 笑ってごまかす。


 黒い本が当てているのは、場所ではないのかもしれない。


 時間でもないのかもしれない。


 出来事の種類や意味。


 そういう現象だけなのかもしれない。


 昌志は、そのままノートに書いた。


 場所ではなく、時間でもなく、事象のみを当てている可能性。


 書いてから、自分で首を横に振る。


 可能性、これも、ただの仮説だ。


 次に、候補のことを書く。


 二つ出たら、片方だけ選ぶとは限らない。


 両方起きることがある。最初は同時間に発生して、片方だけ選ぶのかと考えた。しかし、違った。


 三つ出たら、そのうち一つだけ選ぶとも限らない。複数起きることがある。


 全部起きる可能性さえある。


 一つも起きない可能性があるのかは、まだ分からない。起きなかったものが、本当に消えたのかも分からない。


 昌志は、そこで手を止めた。


 書けば書くほど、分からないことの方が増えていく。それでも、書かずにはいられなかった。


 次に、文章化のタイミング、と書いた。


 今日経験したことは、夜には文章になっていることが多い。ただし、いつ文章化されるのかは分からない。


 出来事が終わった瞬間なのか。


 夜なのか。

 日付が変わる前なのか。


 次の日なのか。


 少なくとも翌日には、前の日の出来事が文章になっている。


 でも、正確なタイミングはまだ不明。


 昌志はその一文に線を引いた。


 ここは大事だと思った。


 黒い本は、未来だけを書くものではない。

 終わったことも書く。


 その日を生きた結果を、勝手に文章へ変える。でも、その切り替わりがいつなのか。


 昌志は、まだ知らない。


 そして、読める人間と読めない人間。


 母と圭佑は黒い本を見ても何も読めなかった。真っ白に見えていた。


 少なくとも、昌志に見えているものは、母には見えていない。


 なぜ自分には読めるのか。

 なぜ母には読めないのか。


 理由は分からない。


 他にも読める人がいるのか。


 それとも、自分だけなのか。


 それも分からない。


 昌志は、そこまで書いて、ノートを見下ろした。


 ページは文字で埋まっていた。


 黒い本について書いているのに、黒い本よりも頼りない文字だった。自分で書いた文字なのに、どれも確信がない。


 全部、まだ仮説。


 最初に書いた一文が、やけに目についた。


 * *


 学校に着いても、黒い本のページは黒いままだった。最近はこの本をよく携帯するようになった。


 そして休み時間になるたび、昌志は鞄の中を気にした。開けば何か出ているかもしれない。そう思ってしまう。


 でも、開いても何もないことは分かっている。何もないのを確認するために開く。


 それが自分でもおかしかった。


「今日もぼーっとしてんな」


 昼休み、圭佑が隣の席に腰を下ろした。


 昌志は慌てて鞄から目を離す。


「そうか?」


「そうか、じゃねえよ。最近ずっとそんな感じだろ」


「昨日のこと、別に責めてるわけじゃないからな」


「昨日?」


「瑞美さんのこと」


 昌志は少しだけ肩を固くした。


 圭佑は、それに気づいたようだった。


「彼女じゃないっていうのは分かった」


「だから、最初からそう言ってるだろ」


「でも、何か隠してるのはまだ分かってる」


 昌志は黙った。


 圭佑は、いつもの調子で笑おうとしていた。でも、その奥にあるものは軽くなかった。


「別に、言いたくないなら今すぐ言えとは言わないけどさ」


「……うん」


「本当に危ないことなら、言えよ」


 昌志は、すぐに返事ができなかった。


 ノートに書いたルールのどこにも、圭佑にどう話すべきかは書けなかった。


 遥に何を話すべきか。

 母や司に何を隠すべきか。


 それも、書けなかった。


 黒い本の仕様をいくら整理しても、人間関係の答えにはならない。何も話せないし、誰にも相談できなかった。


「分かってる」


 結局、またそう答えるしかなかった。


 圭佑は少しだけ昌志を見て、それ以上は聞かなかった。


「ならいいけど」


 軽く言って、圭佑は立ち上がる。


 その背中を見ながら、昌志はまた鞄の中を意識した。


 黒い本は、そこにある。

 何も書かれていない黒いページのまま。


 なのに、見ないでいることができない。

 本が身近にないと心配でならない。


 *    *


 放課後になっても、黒い本には何も浮かばなかった。


 昌志はまっすぐ家に帰った。帰る途中、何かが起きるのではないかと思った。


 でも、何も起きなかった。

 何も起きないことが、逆に不安だった。


 夕飯の時、母に「今日は早いのね」と言われ、昌志は「たまたま」と答えた。


 司はテレビを見ながら、ちらりとこちらを見た。何か言いたそうだったが、言わなかった。


 誰も怒らない。

 誰も問い詰めない。


 その代わり、見ないふりが増えていく。


 黒い本にあった文章を思い出して、昌志は箸を止めかけた。


 食後、部屋に戻ると、昌志はノートを開いた。朝書いた文字の下に、一行足す。


 何も出ない日は、何も起きない日とは限らない。


 書いてから、しばらくその文字を見ていた。


 それはルールではなかった。

 ただの不安だった。


 それでも、書かずにはいられなかった。


 午後十一時四十八分。


 昌志は机の前に座っていた。


 黒い本は開いてある。


 ノートも、その横に置いてある。


 もうすぐ日付が変わる。


 六月八日のページが読めるようになるかもしれない。


 読めないかもしれない。もし何も出なければ、明日も何も分からないまま過ごすことになる。


 それが怖かった。不安だった。

 でも、何か出ることも怖かった。


 時計の針が十二時に近づく。


 昌志は、ノートに書いたばかりの文字を見た。


 六月以降は、当日になるまで読めないことが多い。


 多い、でも必ずではない。


 時計の針が重なる。


 午前零時。

 昌志は、黒い本を見た。


 ページは黒いままだった。


 何も浮かばない。


「……明日も、何もなしか」


 そうつぶやいた直後だった。


 黒いページの奥から、文字が滲むように浮かび上がった。


 昌志は息を止めた。


 文字は一つだけだった。


 でも、日付を見た瞬間、昌志の手が止まった。


 六月八日ではなかった。


 ━━━━━━━━━━━━━━

 ――六月九日、午後四時十二分。


 水野駅東口ロータリー前。


 二台の車が、

 続けてぶつかる。


 後ろの車は止まりきれず、

 前の車を押し出す。


 押し出された一台は、

 歩道の方へ滑る。


 彼女は、

 白い線の内側に立っている。


 私服の小さな背中は、

 人の流れに紛れている。


 声だけでは、

 間に合わない。


 手を伸ばせば、

 彼女は倒れる。


 手を伸ばさなければ、

 彼女は倒れない。


 ただし、

 立ったまま、

 車の前に残る。


 そのあと、

 白い線の内側に残るものは、

 小さな背中だけではない。

 ━━━━━━━━━━━━━━


「……九日?」


 昌志は、思わず声を出した。


 明日のことではない。


 六月九日。


 二日後だ。


 さっきまで、ノートに書いていた。


 六月以降は、当日になるまで読めないことが多い。


 午前零時を過ぎるまで、次の日のことは読めない。そう書いたばかりだった。


 なのに、今見えているのは、明日の六月八日ではない。


 二日後の六月九日だった。


 昌志はノートを見る。


 全部、まだ仮説。


 その文字が、さっきよりも頼りなく見えた。


「もう違うのかよ……」


 声が掠れた。


 場所が書かれている。


 水野駅東口ロータリー前。


 時間も書かれている。


 午後四時十二分。


 ここまで具体的に出るのは、六月に入ってからは珍しい。


 でも、それが安心にはならなかった。

 むしろ、具体的だからこそ怖かった。


 二台の車がぶつかる。


 押し出された一台が、歩道の方へ滑る。


 彼女は、白い線の内側に立っている。


 つまり、彼女が飛び出すわけではない。


 歩道にいる。


 それでも車が迫ってくる。


 声だけでは、間に合わない。


 手を伸ばせば、彼女は倒れる。


 手を伸ばさなければ、彼女は倒れない。


 ただし、立ったまま、車の前に残る。


 その意味を考えた瞬間、昌志は息を呑んだ。


 倒れる方が、まだいい。


 誰かに引き倒される方が、まだ助かる。


 手を伸ばさなければ。


 立ったまま、車の前に残る。


 そして、そのあと白い線の内側に残るものは、小さな背中だけではない。


「……これ、大怪我じゃ、済まないかもしれない」


 つぶやいた声は、自分でも驚くほど低かった。


 彼女。


 昌志は、その言葉を見つめた。


 最近、黒い本に出てくる彼女といえば、瑞美遥のことだと思っていた。


 財布。

 図書カード。


 昨日の続き。

 心配事。


 そういう文章の中に出てきた彼女は、たぶん遥だった。


 なら、これも遥なのか。


 遥が、水野駅東口ロータリー前で、事故に巻き込まれるのか。


 午後四時十二分。


 学校が終わったあとなら、私服でそこにいてもおかしくない。


 近くの女子校に通っている遥が、帰りに駅前を通ることもあるかもしれない。


 私服の小さな背中。


 その一文が、妙に胸に引っかかった。


 遥は、制服姿しかほとんど見ていない。


 もし私服で、人の流れに紛れていたら。


 すぐに分かるだろうか?


 分からないかもしれない。


 でも、分からなかったでは済まない。


 声だけでは間に合わない。


 手を伸ばさなければならない。


 つまり、気づいた時にはもう遅いくらい近くにいなければならない。


 昌志は、黒い本を握る手に力を込めた。


 助けられるなら、助けなければならない。


 今度は、場所も時間も書かれている。


 それが本当に当たるのかは分からない。


 場所も時間も、今まで何度もズレてきた。


 でも、無視はできない。


 もしこれが遥なら。


 もし本当に、午後四時十二分に水野駅東口ロータリー前で、遥が車の前に残るなら。


 行かないという選択肢はなかった。


 昌志は、もう一度ノートを見た。


 固有名詞が出にくい。


 彼女と書かれていても、誰のことか分からない。


 読める。


 でも、分かるとは限らない。


 自分で書いたその文字が、今度は胸をざわつかせた。


 彼女。


 それが本当に遥なのか。


 それとも、別の誰かなのか。


 今の昌志には、分からなかった。


 けれど、誰であっても同じだった。


 手を伸ばさなければ、その彼女は車の前に残る。


 黒い本は、そう書いている。


 昌志は、六月九日という文字を何度も見返した。


 明日ではない。


 それなのに、もう見えている。


 読めば読むほど、分かることが増えるはずだった。


 でも、違った。


 読めば読むほど、分からないことだけが増えていく気がした。

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