第27話 彼女の明日
六月八日。
昌志は、ほとんど眠れなかった。
昨夜、黒い本に浮かんだ文章が、頭から離れない。
六月九日、午後四時十二分。
水野駅東口ロータリー前。
二台の車がぶつかり、押し出された一台が歩道の方へ滑る。
そこに、私服の小さな背中がある。
声だけでは間に合わない。
手を伸ばせば、彼女は倒れる。
手を伸ばさなければ、彼女は車の前に残る。
そういう内容だった。
昌志は、机の上のノートを見た。昨日、自分で黒い本のルールを書き出したばかりだ。
場所は当てにならない。
時間も当てにならない。
固有名詞が出ない時は、誰のことか分からない。
読めるが、分かるとは限らない。
そう書いた。
なのに、今回は場所も時間もはっきりしている。
水野駅東口ロータリー前。
午後四時十二分。
そこまで具体的なら、信じていいのか。
それとも、また外れるのか。
分からなかった。
ただ、「彼女」という言葉だけが、胸に引っかかっている。
最近、黒い本に出てくる彼女といえば、瑞美遥のことだった。
財布。
図書カード。
昨日の続き。
心配事。
そういう文章の中に出てきた彼女は、たぶん遥だった。
なら、今回も遥なのか。
遥が事故に巻き込まれるのか。
考えれば考えるほど、息が詰まった。
* *
学校に行っても、昌志はずっとそのことを考えていた。
黒板の文字を見ても、頭に入ってこない。
午後四時十二分。
水野駅東口ロータリー前。
私服の小さな背中。
彼女。
その言葉だけが、何度も浮かぶ。
水野駅に張り付けば助けられるのか。
でも、場所がズレていたらどうする。
時間がズレたらどうする。
事故そのものが、別の形で起きたらどうする。
そもそも「彼女」が遥ではなかったらどうする。
答えは出ない。
ただ、もし遥だったら。
もし、自分が読み違えたせいで、遥が大怪我をしたら。それだけは、考えたくなかった。
「お前、今日も顔が死んでるぞ」
昼休み、圭佑が前の席に腰を下ろした。
「寝不足」
「便利だな、それ」
「便利じゃない」
「じゃあ、ちゃんと寝ろよ」
圭佑は軽く言った。
けれど、目は少し真面目だった。
「放課後、ちょっと付き合えよ」
「悪い。今日は無理」
「まだ何も言ってないんだけど」
「用事がある」
「また?」
圭佑の声が、少し引っかかった。
「最近、用事多くないか?」
「そうでもない」
「そうでもあるだろ」
昌志は答えなかった。
圭佑には言えない。
明日、誰かが事故に巻き込まれるかもしれない。
たぶん遥かもしれない。
でも違うかもしれない。
そんなことを言えるわけがない。
「本当に危ないことなら言えよ」
圭佑が、前にも言った言葉をもう一度言った。
昌志は、少しだけ顔を上げた。
「分かってる」
「分かってるやつの顔じゃないんだよな」
「大丈夫だって」
「大丈夫って言うやつほど、大丈夫じゃねえんだけど」
圭佑はため息をついた。
「まあ、今日のところは見逃してやる」
「別に何もしてない」
「そういうことにしとく」
圭佑は椅子から立ち上がった。
「でも、明日か明後日、ちゃんと話せよ」
「……うん」
曖昧に返した。
明日。
その言葉が、胸に刺さった。
明日の午後四時十二分。
それまでに、何をすればいいのか。
水野駅にいればいいのか。
遥に警告すればいいのか。
家にいてもらえば避けられるのか。
分からない。
ただ一つだけ、今できそうなことがある。
遥に会って、明日は危ない場所へ行かないように言うこと。それくらいしか、昌志には思いつかなかった。
*
放課後になると、昌志はほとんど逃げるように教室を出た。
「おい、昌志」
圭佑の声が後ろから飛んできた。
昌志は振り向く。
「悪い。ほんとに用事」
「何の用事だよ」
「あとで話す」
「それ、絶対話さないやつだろ」
「ごめん」
それだけ言って、昌志は廊下を進んだ。
圭佑が何か言いかけた気配があった。
けれど、追ってはこなかった。
昌志は校門を出ると、遥の通う女子校へ向かった。
校門の前で待つのは気が引けた。
だから、少し離れた通りの向こう側に立つ。
それでも、自分が十分怪しいことは分かっていた。
女子校の前で男子高校生が一人、誰かを待っている。
どう見ても不自然だ。でも、帰るわけにはいかなかった。
しばらくすると、校門から生徒たちが出てきた。昌志は、その中から遥を探した。
短い髪。
きちんとした制服。
少し真面目すぎるくらいの表情。
数人の女子と一緒に歩いてくる遥を見つけて、昌志は思わず一歩踏み出した。
「瑞美」
声をかけると、遥が立ち止まった。
目を丸くする。
「岐阜さん?」
「ちょっと話せるか」
「えっと……今ですか」
「できれば」
遥は、横にいた友人たちを見る。
そのうち一人が、すぐに目を輝かせた。
「え、よう、誰?」
「知り合いです」
「知り合い?」
「はい」
遥は落ち着いて答えたつもりだったのだろう。
でも、友人の目はさらに輝いた。
「もしかして、彼氏?」
「違います」
遥は即答した。
昌志も慌てて首を横に振る。
「違います」
「二人して否定早いんだけど」
友人が笑う。
遥の頬が少しだけ赤くなった。
「加藤さん、そういう話はやめてください」
「えー。でも、女子校の前まで迎えに来る男子って、だいぶ彼氏じゃない?」
「迎えではありません」
「じゃあ何?」
昌志は、少し迷ってから言った。
「大切な用事があって」
言った瞬間、友人たちが小さく声を上げた。
「大切な用事!」
「それ、彼氏じゃん」
「違います」
遥の声が少し強くなった。
昌志も慌てる。
「本当に違う。ただ、少し話したいことがあるだけで」
「二人きりで?」
「できれば」
「やっぱり、もう彼氏じゃん」
「加藤さん」
遥が友人をにらむ。
加藤と呼ばれた少女は、楽しそうに笑った。
「はいはい。分かりました。二人の邪魔はしません」
そう言いながらも、まったく分かっていない顔だった。
遥は小さく息を吐いてから、昌志を見た。
「近くのファミレスでいいですか?」
「ああ」
「では、少しだけ」
昌志は遥と近くのファミレスへ歩き出す。
だが、昌志の胸は大きな不安で満たされていた。




