第28話 言えない理由
六月八日
ファミレスに入ると、二人は窓際の席に向かい合って座った。
遥は水を一口飲んでから、まっすぐ昌志を見る。
「何かありましたか?」
いきなり核心を突かれた。
昌志は言葉に詰まる。
「いや、その」
「何もなければ、女子校の前までは来ないと思います」
「それは、まあ」
「顔色も悪いです」
「またそれか」
「見えます」
遥は真面目に言った。
昌志は、テーブルの上に視線を落とした。
黒い本のことは言えない。
言ったところで、信じてもらえるはずがない。でも、明日のことを黙っているわけにもいかない。
「明日さ」
「はい」
「できれば、あまり外に出ないでほしい」
遥は瞬きをした。
「明日、ですか」
「ああ」
「なぜですか?」
「危ないかもしれないから」
「何がですか」
「分からない」
自分で言っていて、無茶苦茶だと思った。
遥も少し困った顔をした。
「分からないのに、危ないんですか?」
「そう」
「どこが危ないんですか」
「それも、はっきりとは言えない」
「はっきりしませんね」
「ごめん」
昌志は頭を下げた。
遥はしばらく黙っていた。
怒るでもなく、笑うでもなく、ただ考えている。
「岐阜さんは、理由を言わないことが多いですね」
「悪い」
「でも、嘘をついている顔ではありません」
昌志は、顔を上げた。
遥は真面目な顔で続ける。
「だから、困ります」
「困る?」
「はい。理由は分からないのに、軽く流してはいけない気がします」
その言葉に、昌志は少しだけ救われた気がした。
「明日、どうしても出かける用事ある?」
「学校はあります」
「それはそうだな」
「それ以外は、特に決まっていません」
「じゃあ、学校が終わったら、できればまっすぐ帰ってほしい」
「岐阜さんは、明日の放課後に何かあると思っているんですか」
鋭い。
昌志は、また言葉に詰まった。
「……あるかもしれない」
「どこでですか?」
「分からない」
本当は、本に水野駅東口ロータリー前と書かれている。
でも、それを言えば、なぜ知っているのか聞かれる。
それに、外れるかもしれない。
下手なことを言って、遥の行動を変えたせいで、かえって危ない場所へ向かわせる可能性だってある。
それが怖かった。
「とにかく、明日は危ない場所に行かないでほしい」
「危ない場所というのが、どこか分からないのですが」
「人が多いところとか、車が多いところとか」
「それは、かなり広いですね」
「分かってる」
「駅前も、ですか」
昌志は一瞬だけ黙った。
遥はそれを見逃さなかった。
「駅前なんですね」
「……かもしれない」
「水野駅ですか」
昌志は答えなかった。
答えなかったことが、答えになった。
遥は小さく息を吐いた。
「分かりました。明日は、できるだけ寄り道しません」
「できるだけじゃなくて」
「まっすぐ帰ります」
「本当に?」
「はい」
遥はうなずいた。
「約束します」
約束。
その言葉に、昌志は少しだけ安心した。
けれど、完全には安心できなかった。
黒い本は、場所を変える。
時間を変える。
相手を変える。
約束だけで避けられるなら、こんなに苦労していない。
「岐阜さん」
「何?」
「今、少し安心した顔をしました」
「そうか?」
「はい。でも、まだ安心しきれていない顔です」
「本当に細かいな」
「几帳面なので」
遥は当然のように答えた。
そのやり取りに、昌志は少しだけ笑った。
笑えた自分に、少し驚いた。
* *
しばらくして、さっきの友人がファミレスに入ってきた。
遥が気づいて、少しだけ眉を寄せる。
「加藤さん」
「偶然、偶然。ほんとに偶然」
加藤はまったく悪びれずに笑った。
肩までの髪を揺らしながら、二人の席の横に立つ。
「せっかくだから、私も座っていい?」
「今、大事な話をしていたんですが」
「もう終わった?」
「終わっていません」
「じゃあ、邪魔しないから」
「座る時点で邪魔です」
遥がはっきり言った。
でも加藤は慣れているのか、笑って隣の席に座った。
「はじめまして。加藤愛です。ようの友達です」
「あ、岐阜昌志です」
「岐阜さん。珍しい名字ですね」
「よく言われます」
席に着いてからも、加藤はメニューに手を伸ばさなかった。水の入ったグラスを前に置いたまま、どこか落ち着かなさそうにしている。
昌志は自分の前のメニューを開きながら、少し迷ってから声をかけた。
「加藤さんも、何か頼んだ方がいいんじゃないか?」
加藤が顔を上げる。
「え、私は別に……」
「いや、ここファミレスだし。何も頼まないで座ってる方が、たぶん気まずいと思う」
言ってから、少し偉そうだったかもしれないと思った。
初対面の相手だ。
しかも、遥の友人。
変に強く言うつもりはなかった。
「ドリンクバーとか、軽いものでもいいと思う」
昌志がそう付け足すと、加藤は少しだけメニューを見た。
「じゃあ……ドリンクバーだけにします」
「うん。それでいいと思う」
加藤は小さく頷いた。
それから、ちらりと遥の方を見る。
遥は何も言わなかったが、加藤が注文を決めたことに少し安心したようだった。
店員が来るまでの短い沈黙の間、昌志はメニューを見ているふりをした。
本当は、何を頼むかよりも、これから何を話せばいいのかの方がずっと問題だった。
「ようから少し聞いてます」
昌志は思わず遥を見た。
遥は目を逸らした。
「少しだけです」
「どんなふうに?」
「財布を探すのを手伝ってくれた人。本の話をした人。いつも顔色が悪い人」
「最後いらなくないか」
「事実なので」
遥は真面目に答えた。
加藤は二人のやり取りを見て、にやにやしている。
「仲いいじゃん」
「普通です」
「ようの普通はあてにならないんだよね」
「加藤さん」
「そういえばさ」
加藤は、遥の髪を見た。
「よう、最近ちょっと髪伸ばしてるよね」
遥の動きが止まった。
「そうですかね」
「伸ばしてるでしょ。前ならすぐ切ってた長さじゃん」
「たまたまです」
「たまたま?」
加藤はわざとらしく昌志を見る。
「もしかして、この人のため?」
「違います」
遥は即答した。
でも、少しだけ声が硬かった。
昌志は、ようやく遥の髪を見る。
たしかに、少し伸びた気がする。
前はもっと短かった。
今は、耳のあたりから少しだけ流れる髪が増えている。
「言われてみれば、少し伸びた?」
昌志が言うと、遥はほんのわずかに肩を揺らした。
「気のせいです」
「そうか?」
「気のせいです」
二回言った。
加藤は楽しそうに笑う。
「ほら、怪しい」
「怪しくありません」
「でも、前に言ってたじゃん。長い髪も悪くないかもしれないって」
「言っていません」
「言ったよ」
「言っていません」
遥は頑なだった。
昌志は首をかしげる。
長い髪。
どこかで、その話をしただろうか。
少し考えたが、思い出せなかった。
たぶん、本か映画の話の時に何か言ったのだろう。昌志にとっては、それくらいの記憶だった。
遥にとっては、そうではなかったのかもしれない。
けれど、昌志はそこまで考えられなかった。
今は、明日の事故のことで頭がいっぱいだった。
「で、岐阜さん」
加藤が身を乗り出す。
「ように何の大切な用事だったんですか」
「ちょっと心配事があって」
「心配事?」
「明日、あまり危ないところに行かないでほしいって話を」
加藤は目を丸くした。
「なにそれ。過保護?」
「いや、そういうわけじゃ」
「よう、めちゃくちゃ心配されてるじゃん」
「そういう話ではありません」
遥が否定する。
でも、耳が少し赤かった。
加藤はそれを見て、さらに笑った。
「いいなあ、よう」
「加藤さん」
「はいはい」
昌志は、二人のやり取りを見ながら、少しだけ肩の力が抜けた。
遥には友達がいる。
こうやって冷やかしてくる相手がいる。
それは当たり前のことなのに、少しだけ安心した。遥は一人で危ない場所に立っているわけではない。
そう思いたかった。
でも、黒い本の文章は消えない。
私服の小さな背中。
人の流れに紛れている。
声だけでは間に合わない。
手を伸ばさなければ、彼女は車の前に残る。
昌志は、また表情を曇らせた。
遥がそれに気づく。
「岐阜さん?」
「いや。何でもない」
「何でもない顔ではありません」
「本当に大丈夫?」
そう言ってから、昌志は伝票に手を伸ばした。
「今日は俺が払う」
「え?」
遥が目を瞬かせる。
「急に呼び出したし、付き合ってもらったから」
「そこまでしなくていいです」
「いいよ。加藤さんの分も」
「え、私も?」
加藤が驚いた顔をする。
「途中からだけど、付き合ってもらったので」
「岐阜さん、太っ腹」
「高いもの頼んでないから」
「そういう問題ではありません」
遥は少し困った顔をした。
「借りが増えます」
「これは借りじゃない」
「でも」
「俺が勝手に来た分」
昌志はそれだけ言って立ち上がった。
遥は何か言いたそうだったが、結局、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「うん」
加藤が横から小声で言う。
「よう、いい人じゃん」
「聞こえています」
「聞こえるように言った」
「加藤さん」
そのやり取りを背中で聞きながら、昌志は会計へ向かった。
*
店を出ると、空は少し暗くなり始めていた。
昌志は、二人と店の前で別れようとして、足を止めた。
「あのさ」
遥が顔を上げる。
「はい」
「連絡先、教えてもらっていいか」
言ってから、少し遅れて恥ずかしくなった。
今まで聞いていなかった。聞く機会は何度もあったはずなのに、聞いていなかった。
だから今日、女子校の前で待つしかなかった。明日のことを考えれば、連絡できないのはまずい。何かあった時に、すぐ伝えられない。
そう思っただけだった。
でも、遥は少しだけ目を瞬かせた。
「私の、ですか」
「他に誰がいるんだよ」
「知りたいんですか」
いつもより少しだけ声が小さかった。
昌志は、すぐにうなずいた。
「知りたい!」
自分でも思ったより強い声になった。
遥の頬が、ほんの少し赤くなる。
横で加藤が口元を押さえた。
「きゃー」
「加藤さん」
「いや、今のは無理。今のは言うでしょ」
「言わなくていいです」
「知りたいって。強めに。よう、聞いた?」
「聞こえています」
遥は少しだけ視線を落とした。
それから、スマホを取り出す。
「では、連絡先を交換しましょう」
「ああ」
「必要な連絡のためです」
「うん」
「必要な連絡のためです」
「二回言わなくていい」
「大事なので」
遥は真面目な顔で言った。
加藤は隣で肩を震わせている。
昌志はスマホを出し、遥と連絡先を交換した。
画面に、瑞美遥の名前が表示される。それを見た瞬間、昌志は少しだけ息を吐いた。
これで、何かあった時に連絡できる。
明日、もし水野駅の場所や時間がズレても。遥にすぐ連絡できる。
それだけで、少しだけ安心した。
「明日、本当に気をつけて」
昌志は、もう一度言った。
遥は真面目な顔でうなずく。
「分かりました。まっすぐ帰ります」
「駅前も、できれば避けて」
「……はい」
「できればじゃなくて」
「避けます」
「約束な」
「はい。約束します」
加藤が横でまたにやにやしていたが、今度は何も言わなかった。
昌志は二人に軽く頭を下げて、先に歩き出した。
帰り道、黒い本の文章の一部がまた頭に浮かぶ。
水野駅東口ロータリー前。
午後四時十二分。
私服の小さな背中。
彼女。
遥には、できるだけ外に出ないように言った。
駅前も避けるように言った。
約束もした。
連絡先も聞いた。
それでも、本当に避けられるのかは分からない。
場所も時間も当てにならない。
そう書いたのは、自分自身だった。
もし遥が水野駅に来なかったとしても、別の場所で同じことが起きるかもしれない。
もし時間がズレれば、昌志が水野駅にいても意味がないかもしれない。
それでも、明日。
昌志は水野駅東口ロータリー前へ行くしかなかった。
午後四時十二分。
その時間に、そこにいるしかなかった。
黒い本に従っている。
そう思うと、嫌だった。
けれど、従わなければ、彼女が車の前に残るかもしれない。
それだけは、もっと嫌だった。
昌志は足を速めた。
明日に備えなければならない。
黒い本を何度も読み返して。
水野駅までの道を確認して。
午後四時十二分に、どこに立つべきかを考える。
助けられるかどうかは、分からない。
相手が本当に遥なのかも、分からない。
それでも、手を伸ばさなければならない。
そう書かれている以上、昌志にはもう、見ないふりはできなかった。




