第29話 彼女のいる場所
六月九日。
昌志は、朝からずっと落ち着かなかった。
昨日も落ち着かなかった。
けれど、今日はそれ以上だった。
黒い本に浮かんだ文章が、頭の中で何度も繰り返される。
午後四時十二分。
水野駅東口ロータリー前。
二台の車。
私服の小さな背中。
声だけでは間に合わない。
手を伸ばさなければ、彼女は車の前に残る。
その言葉が、頭から離れない。
昌志は、朝食の味もよく分からないまま箸を動かした。
母に「具合悪いの?」と聞かれた。
司にもちらりと見られた。
昌志は「寝不足」とまた答えた。
最近、そればかり言っている気がした。
嘘ではない。
実際、眠れてはいない。
でも、本当の理由ではなかった。
学校へ向かう道でも、昌志はずっと考えていた。
場所も時間も当てにならない。
それは、自分でノートに書いたばかりだ。
なのに、今回は場所も時間もはっきり出ている。
水野駅東口ロータリー前。
午後四時十二分。
ここまで具体的なら、信じていいのか。
それとも、またズレるのか。
もしズレたら。
もし、自分が水野駅に張り付いている間に、別の場所で遥が事故に巻き込まれたら。
そう考えると、足元が少し浮くような感覚がした。
でも、何もしないわけにはいかない。
黒い本は書いていた。
手を伸ばさなければ、彼女は車の前に残る。
それだけは、どうしても無視できなかった。
* * *
学校に着いても、昌志はほとんど授業に集中できなかった。
教師の声が聞こえているのに、内容が頭に入ってこない。ノートを取ろうとして、同じ単語を二回書いた。
英語の小テストでは、いつもなら間違えない単語を書き間違えた。
数学では、問題文を読み飛ばして、最初から間違えた。それに気づいても、直す気力が出なかった。
今日の午後四時十二分。
それ以外のことを考える余裕がなかった。
休み時間、圭佑が机の横に来た。
「お前、今日ほんとにやばいぞ」
「何が」
「何がじゃねえよ。消しゴム落としてんのに気づいてなかっただろ」
そう言われて、昌志は足元を見た。
消しゴムが椅子の脚の近くに落ちていた。
「ああ」
「ああ、じゃない。さっきからずっとそんな感じじゃん」
「寝不足」
「もうその言い訳、聞き飽きた」
圭佑は眉を寄せた。
軽い口調だったが、目は真面目だった。
「何かあっただろ」
「何もない」
「何もないやつは、そんな顔しないんだって」
昌志は消しゴムを拾い、机の上に置いた。
「大丈夫だから」
「大丈夫じゃないやつほど、それ言うんだよな」
「本当に大丈夫」
「じゃあ、放課後ちょっと話せ」
昌志は反射的に首を横に振った。
「今日は無理」
「またかよ」
「用事がある」
「最近そればっかだな」
圭佑の声が少し低くなった。
「何の用事だよ」
「ちょっと」
「ちょっとじゃ分かんねえよ」
昌志は答えられなかった。
午後四時十二分に、水野駅東口ロータリー前で誰かが事故に巻き込まれるかもしれない。
たぶん、瑞美遥だと思う。
でも、違うかもしれない。
そんなことを言えるわけがない。
「悪い」
それだけ言った。
圭佑は、しばらく昌志を見ていた。
それから、ため息をついた。
「お前さ」
「うん」
「本当に危ないことなら、言えよ」
前にも言われた言葉だった。
何度も言わせている。
そのことが、胸に少し刺さった。
「分かってる」
「分かってねえ顔してるけどな」
圭佑はそう言って、軽く昌志の机を指で叩いた。
「今日の放課後、終わったら連絡しろ」
「え?」
「用事があるんだろ。終わったらでいい。連絡しろ」
「……分かった」
「絶対だぞ」
「分かったって」
そう答えたけれど、連絡できるかどうかは分からなかった。
午後四時十二分に何が起きるのか。
そのあと、自分がどうなっているのか。
昌志には想像できなかった。
* *
放課後。
チャイムが鳴ると、昌志はすぐに席を立った。圭佑が何か言いかけたが、昌志は鞄を持って教室を足早に出た。
「昌志!」
後ろから声が飛んできた。
振り向く。
圭佑が教室の入り口に立っていた。
「終わったら連絡しろよ」
「ああ」
「絶対だからな」
「分かった」
それだけ返して、昌志は廊下を走らない程度の速さで進んだ。
学校を出ると、まっすぐ家には帰らなかった。
水野駅の方へ向かう。
時刻はまだ三時を少し過ぎたところだった。
予告の時間までは、まだ一時間以上ある。
早すぎる、けど、家で時間まで待っていることはできなかった。
もし途中で何かがズレたら。もし、四時十二分より前に似たようなことが起きたら。
そう考えると、体が勝手に駅の方へ向かっていた。
水野駅東口ロータリー前に着くと、昌志は周囲を見回した。
バス停。
タクシー乗り場。
横断歩道。
車道と歩道を分ける白い線。
人の流れ。
黒い本に書かれていたものが、少しずつ現実の景色に重なっていく。
まだ事故は起きていない。
当然だ。
時間ではない。
でも、昌志の胸は落ち着かなかった。
ここなのか。
本当にここで起きるのか。
もしここではなかったら。
もし、この場所に張り付いている間に、別の場所で遥が危ない目に遭ったら。
昌志はスマホを取り出した。
昨日交換したばかりの連絡先。
瑞美遥。
その名前を見て、少しだけ息を吸う。
電話をかける。
呼び出し音が鳴った。
一回。
二回。
三回目で、通話がつながった。
『はい。瑞美です』
いつもの丁寧な声だった。
昌志は少しだけ安心した。
「今、どこにいる?」
『岐阜さん?』
「ああ」
『今ですか』
「今」
『学校を出て、帰っている途中です』
帰っている途中。
その言葉だけで、胸の奥が嫌な音を立てた。
「駅の方?」
少し間があった。
『……どうして分かるんですか?』
昌志は唇を噛んだ。
やっぱり。
やっぱり、駅の近くにいる。
「水野駅?」
『はい。でも、寄り道ではありません。帰る途中です』
「ロータリー側には行くな」
『え?』
「東口のロータリー側。そっちには行かないでくれ」
『岐阜さん、何が?』
「頼む。そこから動かないで」
『今、人が多くて……少し聞こえにくいです』
電話の向こうで、ざわめきが聞こえた。
駅前の音だ。
人の声。
車の音。
アナウンスのようなもの。
昌志は、心臓が早くなるのを感じた。
「瑞美、今どこだ」
『東口の方です。でも、ロータリーには――』
そこで、声が途切れた。
電波が悪くなったのか、人混みの音に紛れたのか分からない。
「瑞美?」
返事は聞こえなかった。
通話は切れていない。
でも、声が遠い。
「瑞美、そこにいろ。動くな」
言いながら、昌志はロータリーの横断歩道側に走り出した。
まだ三時五十分を過ぎたばかりだった。
事故の時間までは少しある。
でも、もう待っていられなかった。
場所も時間も当たっているのかもしれない。
水野駅東口。
ロータリー前。
帰っている途中の遥。
黒い本の文章と、現実が重なり始めている。
昌志は人の流れを避けながら、ロータリーの見える方へ向かった。
* * *
午後四時十分。
昌志は、水野駅東口ロータリー前にいた。
息が切れていた。
スマホを握った手に、汗が滲んでいる。
遥との通話は、少し前に切れていた。
何度かかけ直したが、つながらなかった。
メッセージも送った。
東口のロータリー側に行くな。
そこから動くな。
短い文を送った。
既読はついていない。
「くそ……」
昌志は小さく吐き捨てた。
ロータリー前は、人の流れが途切れなかった。
バスを待つ人。
駅へ向かう人。
車道の向こうへ渡ろうとする人。
黒い本にあった景色が、目の前にある。
ここなのか。
本当に、ここなのか。
時間は近い。
場所も合っている。
もしかして、今回は本当に場所も時間も当たっているのか。
昌志は、歩道の端に立って周囲を見回した。
その時だった。
ロータリーの向こう側。
横断歩道の近く。
白い線の内側に、小柄な少女が立っていた。
私服だった。
制服ではない。
だから、遠目にはどこの学校の生徒か分からない。
顔もよく見えなかった。
横を向いている。
人の肩と車の影で、輪郭しか見えない。
けれど、背格好が似ていた。
髪の長さも似ていた。
セミショートくらいの髪が、夕方の風で少し揺れている。
私服の小さな背中。
その一文が、頭の中で重なった。
「……瑞美?」
声が漏れた。
昨日、駅前は避けると約束した。
まっすぐ帰ると言った。
さっきの電話でも、帰っている途中だと言っていた。
なのに、そこにいる。
そう思ってしまった。
顔をちゃんと見たわけではない。
確かめたわけでもない。
けれど、最近の昌志にとって、黒い本の「彼女」は遥だった。
だから、その背中を見た瞬間、遥だと思った。
昌志は一歩踏み出した。
「瑞美!」
声を上げた。
少女は反応しなかった。
人の声と車の音に消えたのかもしれない。
それとも、聞こえなかったのかもしれない。
昌志は、もう一度叫んだ。
「遥!」
やはり、少女は振り向かなかった。
もしかして、その名前は、彼女の名前ではないかもしれない。けれど、その時の昌志は、それに気づけなかった。
あれは遥だ。
そう思い込んでいた。
ロータリーの方で、甲高いブレーキ音が鳴った。
昌志は顔を上げた。
一台の車が大きく揺れる。
その後ろの車が止まりきれず、続けてぶつかった。
音が遅れて響く。
人の流れが、一瞬止まった。
後ろの車に押し出されるようにして、前の車が歩道の方へ滑った。
車体が斜めに流れる。
白い線の方へ。
小柄な少女のいる方へ。
黒い本の文章が、頭の中で音を立てて重なった。
二台の車が、続けてぶつかる。
後ろの車は止まりきれず、前の車を押し出す。
押し出された一台は、歩道の方へ滑る。
彼女は、白い線の内側に立っている。
声だけでは、間に合わない。
少女は、まだ気づいていなかった。
横を向いたまま、動かない。
周囲の誰かが叫んだ。
別の誰かが足を止めた。
でも、それだけでは間に合わない。
昌志は走り出した。
「瑞美!」
名前を叫んだつもりだった。
けれど、自分の声が届いたかどうかは分からなかった。
もう、考えている時間はなかった。
人の流れを押し分ける。
鞄が誰かにぶつかった。
謝る余裕もない。
目の前には、私服の小さな背中。
その向こうから、滑るように車が迫ってくる。
昌志は、考えるより先に足を踏み出していた。
声だけでは間に合わない。
手を伸ばさなければ、彼女は車の影に消える。
黒い本に書かれていた一文が、頭の奥で焼けるように浮かんだ。
だから昌志は、その小さな背中へ向かって飛び出した。




