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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第30話 彼女ではなかった

■水野駅東口ロータリー前


 昌志は、全力で走った。


 人の流れを押し分ける。


 鞄が誰かの腕にぶつかった。


 誰かが何かを言った。


 けれど、謝る余裕はなかった。


 目の前には、私服の小さな背中がある。


 セミショートくらいの髪。


 小柄な体。


 横顔は、人の肩と車の影に隠れてよく見えない。


 でも、昌志にはそれが瑞美遥に見えていた。


 黒い本に書かれていた彼女。


 水野駅東口ロータリー前。


 午後四時十二分。


 二台の車。


 私服の小さな背中。


 その全部が、目の前の少女に重なっていた。


よう!」


 昌志は、もう一度叫んだ。


 その声に反応したのか。


 あるいは、周囲のざわめきに気づいたのか。


 少女が振り向いた。


 その顔を見た瞬間、昌志の頭が一瞬だけ止まった。


 瑞美みつみ(よう)ではなかった。


 ただ、見覚えのある顔だった。


 でも、すぐには名前が出てこなかった。


 最近、ちゃんと会っていなかったからだ。


 小さい頃の記憶と、今の姿が、うまく重ならない。少女は、目を丸くした。


「お兄ちゃん……?」


 そう言いかけて、すぐに違うと気づいたように瞬きをする。


「え、昌志先輩?」


 相沢美月。


 圭佑の妹だった。


 同じ学校の一年生。


 小さい頃、圭佑の後ろにくっついていた子。


 でも、今はそれどころではなかった。


 ロータリーの方で、車体がきしむような音を立てる。


 二台の車が、くの字に折れるようにぶつかっていた。


 後ろの車に押し出された前の車が、歩道側へ滑ってくる。


 白い線の内側。


 美月が立っている場所へ。


 黒い本の文章が、頭の中で冷たく響いた。


 声だけでは、間に合わない。


 手を伸ばさなければ、彼女は車の前に残る。


 いや、このままでは、車の影に消える。


「伏せろ!」


 叫んだ。


 けれど、美月はまだ状況を理解できていない。


 目を丸くしたまま、昌志を見ていた。


 当初は背中から引き倒すつもりだった。けれど、美月がこちらを向いたせいで、昌志は正面から飛び込む形になった。


 肩から、美月の正面へ飛び込む。


 美月が短い悲鳴を上げた。


 昌志はそのまま、両腕で美月の体を抱え込むようにして倒れた。


 地面に背中と肩がぶつかる。


 痛みが走る。


 美月の体を庇うように、昌志は腕に力を込めた。


 直後。


 すさまじい音がした。


 金属が潰れる音。


 ガラスが割れる音。


 誰かの悲鳴。


 道路に響くブレーキ音。


 それらが一度に重なった。


 昌志は、息を止めた。


 目の前に、車体の影があった。


 一台の車が歩道側に乗り上げかけている。


 もう一台が、その後ろから押し込むように斜めになっていた。


 二台はくの字に折れたまま、微妙な角度で止まっている。


 まるで、二人の上に覆いかぶさる寸前で、ぎりぎり踏みとどまっているようだった。


 少しでもバランスが崩れれば、こちらへ倒れてくるかもしれない。


 昌志は、息を吸うことも忘れていた。


 よく生きている。

 そう思った。


 よく、無事で済んでいる。

 いや、無事かどうかは、まだ分からない。


「美月ちゃん」


 昌志は、腕の中の少女を見た。


「大丈夫か?」


 美月は、目を見開いたまま固まっていた。


 何が起きたのか、まだ分かっていない顔だった。


 それでも、美月の目には、昌志の姿が見えていた。


 制服の肩が汚れている。


 袖も擦れている。


 手の甲に、赤いものがにじんでいた。


 肘のあたりにも、血が出ているように見えた。


 それなのに、昌志は自分の手も、腕も見ていなかった。


 美月だけを見ていた。


「怪我は?」


「え……」


「痛いところあるか」


 昌志の声は、少し息が乱れていた。


 でも、真っ先に出てきたのは、美月を心配する言葉だった。


 美月は、昌志に抱えられたまま、うまく返事ができなかった。


 自分を助けるために飛び込んできた。


 自分を抱え込むようにして倒れた。


 手も、腕も、血が出ているのに。


 それでも、この人は、自分の心配をしている。


 そう分かった瞬間、美月の胸が、変なふうに跳ねた。


「分かんない……え、何、これ……」


 声が震えている。

 当然だった。


 目の前で車が潰れ、すぐ近くに止まっている。ほんの少し前まで、自分がそこに立っていたことも、まだ理解できていないのだろう。


 昌志は周囲を見た。


 二台の車は、まだ不安定な形で止まっている。


 いつ崩れるか分からない。


 ここにいてはいけない。


「立てる?」


「え、あ、はい……たぶん」


 美月は起き上がろうとしたが、足に力が入っていない。


 昌志は迷わず、美月の体を支えた。


 小柄な体を半ば抱えるようにして、車から離れる。


「ちょ、昌志先輩」


「ここ危ない。離れるぞ」


 美月は何か言おうとしたが、すぐに黙った。


 昌志に支えられながら、歩道の奥へ移動する。


 周囲には人だかりができていた。


 誰かが叫んでいる。


 誰かがスマホを耳に当てている。


「救急車! 警察も!」


「呼んでます!」


「下がってください!」


 駅員らしい人も走ってくる。


 昌志は、美月をロータリーから少し離れた場所に座らせた。


 自分もその場に膝をつく。


 ようやく、肩と背中が痛むことに気づいた。


 地面にぶつかったせいだ。


 手も擦れている。


 肘にも痛みがある。


 でも、動けないほどではない。


 美月の方を見る。


「本当に大丈夫か。痛いところない?」


「えっと……手、ちょっと痛いかも」


 美月は自分の手を見た。


 手のひらが少し擦りむけている。


 膝にも、薄く汚れがついていた。


 大きな出血はない。


 昌志は、少しだけ息を吐いた。


「よかった」


「よかったって……」


 美月は、そこでようやく車の方を見た。


 二台の車が、歩道に乗り上げかけたまま止まっている。


 もし、自分があの場に立ったままだったら。


 そう考えたのだろう。


 美月の顔から、血の気が引いていった。


「私……」


 声が震える。


「私、あそこにいたんですか?」


「そう」


「昌志先輩が……助けてくれたんですか?」


 昌志は、すぐには答えられなかった。


 本当は、遥だと思った。


 遥を助けるつもりで走った。

 美月だとは分かっていなかった。


 けれど、今さらそんなことを言えるわけがない。


 助けるつもりがなかった、などと言えるはずがない。


「車が迫ってるのが見えたから」


 昌志は、できるだけ普通に言った。


「危ないと思って、美月ちゃんを助けようと思った」


 それを聞いた美月の顔が、少し変わった。


 まだ震えている。


 怖がっている。


 でも、それだけではない目で、昌志を見ていた。


「……私を?」


「ああ」


 短く答える。


 美月は、何か言いかけて、口を閉じた。


 それから、昌志の手を見た。


 赤く擦れた手の甲。


 袖の汚れ。


 肩の土。


 自分を抱え込んだ時についたものだ。


「昌志先輩」


「何?」


「手……血、出てます」


「ああ。これくらい大丈夫」


「大丈夫って」


「美月ちゃんの方が大事だろ」


 当たり前のように言われて、美月は言葉を失った。


 それは、何かを狙った言い方ではなかった。


 恩を着せるような口調でもない。

 本当に、そう思っているだけの声だった。


 美月は、うつむいた。


 胸がまだどきどきしている。


 怖かったからだ。


 そう思おうとした。


 でも、それだけではない気がした。


 その時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。


 誰かが「救急車来た」と言った。


 続けて、警察車両らしい音も近づいてくる。


 周囲の人たちが道を空け始めた。


 美月は、震える手でスマホを取り出した。


「お兄ちゃんに、電話しなきゃ」


「圭佑に?」


「はい。たぶん、怒られるけど」


「怒る前に心配するだろ」


「それは……そうかも」


 美月は、うまく動かない指で電話をかけた。


 昌志は、その横で救急隊員が来るのを待った。


 *   *   *


 圭佑が来たのは、それから少し後だった。


 救急隊員に簡単に状態を確認され、警察に名前を聞かれ、現場の騒ぎが少しだけ落ち着き始めた頃だった。


「美月!」


 聞き慣れた声がした。


 昌志が振り向くと、圭佑が人混みをかき分けるように走ってきた。


 顔色が悪い。


 息も切れている。


 いつもの軽さは、どこにもなかった。


「お兄ちゃん」


 美月が声を出した瞬間、圭佑はその肩をつかんだ。


「怪我は? どこ打った? 頭は?」


「大丈夫。手、ちょっと擦っただけ」


「ちょっとって何だよ。ちゃんと見てもらえよ」


「見てもらうって」


「当たり前だろ!」


 圭佑の声が大きくなる。


 美月が少し驚いた顔をする。


 それから、圭佑はようやく昌志を見た。


「昌志」


「ああ」


「お前が、助けてくれたって」


「たまたま見えただけだよ」


「たまたまって」


「本当に。美月ちゃんがいて、車が向かってくのが見えたから」


 昌志は、できるだけ軽く言った。


 助けられてよかった。


 それ以上のことは言いたくなかった。


 けれど、圭佑は黙らなかった。


 突然、両手で昌志の手をつかんだ。


「ありがとう」


 声が震えていた。


 昌志は目を見開いた。


「圭佑?」


「ありがとう。マジで、ありがとう」


 圭佑の目が赤くなっている。


 涙がにじんでいた。


 小学校からの腐れ縁だった。


 ふざけて、からかって、笑っている圭佑なら何度も見ている。


 怒ったところも見たことはある。


 でも、こんな顔は初めてだった。


「お前がいなかったら、美月は……」


「圭佑」


「本当に、ありがとう」


 圭佑は泣き始めた。


 人前で。


 昌志の手を握ったまま。


 美月が、少し困ったように兄を見ている。


 昌志も、どう返せばいいのか分からなかった。


「いいって、大したことじゃないって」


 それだけ言うのが精一杯だった。


「無事だったんだからさ」


「それが一番でかいんだよ」


 圭佑は鼻をすすった。


「お前、本当に……」


 その先は言葉にならなかった。


 昌志は、握られた手を見た。


 黒い本のことを言えないまま、圭佑にここまで礼を言われている。


 胸の奥が、少し痛んだ。


 でも、今は何も言えなかった。


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