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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第31話 大したことではない

その後は、落ち着く暇もなかった。


 救急車が来て、美月と昌志はその場で簡単な確認を受けた。


 二人とも大きな怪我はなさそうだった。


 けれど、地面に倒れていたこともあり、念のため病院で診てもらうことになった。


 圭佑も付き添うと言って聞かなかった。


 警察官にも、現場で簡単に話を聞かれた。


 名前。


 学校名。


 連絡先。


 事故の時、どこにいたのか。


 事故に気づいたのはいつか。


 どうやって美月を助けたのか。


 昌志は、聞かれたことにできるだけ短く答えた。


 事故を起こした車の運転手たちも怪我をしているらしく、現場はまだ騒がしかった。


 警察官は、最後にこう言った。


「今日はまず、病院で診てもらってください。詳しい話は、後日あらためて伺うことになると思います」


「後日、ですか?」


「はい。目撃された状況や、助けた時の位置関係を確認したいので」


「……分かりました」


「未成年ですので、保護者の方にも連絡をお願いします。こちらからも確認する場合があります」


 昌志はうなずいた。


 面倒なことになった。


 そう思った。


 でも、美月が助かったことに比べれば、そんなものはどうでもよかった。


 *  *


 病院では、手の擦り傷や打撲を見てもらった。


 昌志は肩と背中を打っていたが、骨に異常はないらしい。


 手の甲と肘には擦り傷があった。

 膝も少し打っている。


 血は出ていたが、深い傷ではなかった。


 美月も、擦り傷と軽い打撲だけだった。


 本当に、よくその程度で済んだと思う。


 警察からは、病院でも少しだけ確認を受けた。


 事故を起こした運転手二人は怪我をしたが、命に別状はないらしい。


 死者は出なかった。


 そのことを聞いて、昌志はようやく少しだけ息を吐いた。


「周囲の方のお話では、君が彼女を助けたようですね。ただ、君自身も巻き込まれていた可能性があります。今後、同じような場面に遭っても、無理はしないでください」


「……はい」


 警察官の言うことは正しい。

 今回は、本当に運がよかっただけだ。


 そう言われても、昌志は反論できなかった。


 黒い本に書かれていたから走った。


 でも、もし少しでも遅れていたら。


 もし車の動きが少し違っていたら。


 美月だけではなく、自分も無事では済まなかったかもしれない。


「詳しいお話は、また後日伺います。今日は診察を受けて、家で休んでください」


 警察官はそう言った。


 病院からは、母にも連絡を入れた。電話の向こうで、母はしばらく言葉を失っていた。


 昌志は、大きな怪我はないこと、病院で診てもらっていること、帰ったら説明することだけを伝えた。


 母は何度も確認してから、最後に「今日はまっすぐ帰ってきなさい」と言った。


 まっすぐ帰る。

 その言葉が、妙に重く聞こえた。


 圭佑は、その後も何度も礼を言った。


 美月も、何度か「ありがとうございました」と言った。


 ただ、美月は途中からずっと黙りがちだった。


 昌志の方をじっと見ている。


 手当てを受けた昌志の手。


 肘に貼られたガーゼ。


 汚れた制服。


 自分を抱え込むように倒れた時の感触が、まだ体に残っている。


 助けられた。


 あの車の前から。


 そのうえ、あの人は最初に自分の心配をした。


 手も、腕も、血が出ていたのに。


 大丈夫か、と。


 怪我はないか、と。


 そう思うと、なぜか顔が熱くなった。


 怖かったから。


 驚いたから。


 助かったばかりだから。


 いくらでも理由はつけられた。


 でも、美月は自分でも分かっていた。


 それだけではない。


「あの、昌志先輩」


 美月は、小さな声で言った。


「助けてくれて、ありがとうございます」


 昌志は少しだけ目を瞬かせた。


 それから、困ったように笑った。


「大したことしてないよ」


「大したことって……」


 美月は思わず言い返しそうになった。


 大したことではないはずがない。


 車が迫ってきていた。

 自分は動けなかった。


 昌志は飛び込んできた。


 地面に倒れて、怪我をして、それでも自分を庇った。


 それを、大したことではないと言う。


 自慢するわけでもない。

 恩を着せるわけでもない。


 助けられるなら助ける。

 ただ、それだけのことだと言うみたいに。


 美月は、言葉を失った。


 胸の奥が、また変なふうに跳ねた。


「でも、私は……本当に、助かりました」


「なら、よかった」


 昌志はそう言った。


 それだけだった。


 美月はうつむいた。


 顔が熱い。

 さっきよりも、ずっと。


 圭佑がそれに気づいて、少しだけ笑った。


「美月にとっては、お前、命の恩人だからな。照れてんだろ」


「照れてないし」


 美月は小さく反論した。


 でも、声に力はなかった。


 昌志は何も言えなかった。


 美月の視線が、妙にまっすぐだったからだ。


 その目を受け止めるには、昌志の中にはまだ、言えないことが多すぎた。


 *      *


 家に帰った時には、もう夜になっていた。


 母は玄関まで出てきた。

 司も、リビングから顔を出している。


「昌志」


 母の声は、怒っているというより、震えていた。


「大丈夫なの?」


「大丈夫。病院でも見てもらった」


「本当に?」


「本当」


 母は、昌志の肩や腕を見た。


 制服は少し汚れている。

 手には小さな擦り傷がある。


 肘にはガーゼも貼られている。


 それだけでも、母の顔はさらに不安そうになった。


「今日はもう休みなさい。詳しい話は明日でいいから」


「うん」


 司は、いつものように軽口を言わなかった。


 ただ、昌志の手を見ていた。


「兄ちゃん、ほんとに大丈夫?」


「大丈夫」


「……ならいいけど」


 そう言って、司は目を逸らした。


 昌志は部屋に上がった。


 肩と背中が痛い。

 手にも少し擦り傷がある。


 制服も汚れていた。


 それでも、大きな怪我はなかった。


 美月も無事だった。


 圭佑も、泣きながら礼を言っていた。


 全部、終わった。


 そう思いたかった。


 でも、まだ確認しなければならないことがあった。


 昌志はスマホを取り出した。


 瑞美遥の名前を開く。

 昨日交換したばかりの連絡先。


 少し迷ってから、電話をかけた。


 呼び出し音が鳴る。


 すぐに、遥が出た。


『岐阜さん?』


「瑞美。大丈夫だったか」


『それは、こちらの台詞です』


 声が少し硬かった。


『メッセージを見ました。事故があったんですよね。大丈夫なんですか』


「ああ。俺は大丈夫」


『怪我は』


「ちょっと打っただけ。病院でも見てもらった」


『本当に大丈夫なんですか?』


「本当に」


 そう言うと、電話の向こうで遥が小さく息を吐いた。


 安心したような、まだ納得していないような息だった。


『私は大丈夫です。駅前には近づきませんでした』


「そうか」


『約束しましたから』


 昌志は、そこでようやく気づいた。


 遥は、駅前に行かなかった。


 約束を守った。


 今日助けた少女は、遥ではなかった。


 美月だった。


 分かっていたはずなのに、改めてその事実が胸に落ちてきた。


「……そうか」


『どうしましたか』


「いや。何でもない」


『何でもない声ではありません』


「瑞美が無事ならいい」


『岐阜さん』


「本当に、それだけ確認したかった」


 電話の向こうで、遥が黙った。


 少しの沈黙のあと、静かな声が返ってきた。


『分かりました』


「じゃあ、また」


『はい。無理はしないでください』


「うん」


『それと』


「何?」


『何かあったなら、次はもう少し早く連絡してください』


 昌志は少しだけ苦笑した。


「分かった」


『本当に分かっていますか?』


「分かってる」


『ならいいです』


 通話が切れた。

 昌志は、しばらくスマホを見つめていた。


 遥は無事だった。


 美月も助かった。


 圭佑も、泣きながら礼を言っていた。


 全部、終わった。

 そう思いたかった。


 でも、黒い本はまだ見ていない。


 昌志は机の前に座った。


 鞄から黒い本を取り出す。


 いつもなら、日付が変わる頃に見る。


 午前零時を過ぎれば、次の文章が浮かぶ。


 そう思っていた。


 けれど、今日はまだ日付が変わっていない。それでも、何気なくページを開いた。


 六月九日のページ。


 そこには、もう文字があった。


「……え」


 昌志は、息を止めた。


 まだ午前零時ではない。


 それなのに、黒い本の文章はすでに完成していた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――六月九日。


 午後四時十二分。


 水野駅東口ロータリー前で、


 二台の車が続けてぶつかった。


 押し出された一台は、


 歩道の方へ滑った。


 彼女は、


 白い線の内側に立っていた。


 僕は、


 彼女の名前を間違えて呼んだ。


 振り向いた顔は、


 彼女ではなかった。


 それでも、


 車は止まらなかった。


 声だけでは、


 間に合わなかった。


 だから僕は、


 手を伸ばした。


 彼女は倒れた。


 倒れたことで、


 車の前には残らなかった。


 救われた小さな背中は、


 いつもの相手の妹だった。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、文字を見つめた。


 もう、文章になっている。


 夜の終わりを待たずに。

 日付が変わるのを待たずに。


 今日の出来事は、もう黒い本の中で終わったことになっている。


「……いつからだよ」


 声が漏れた。


 文章化されるタイミングは、まだ分からない。昨日、ノートにそう書いたばかりだった。


 その通りだった。


 昌志は何も分かっていなかった。


 黒い本がいつ未来を出すのか。

 いつ出来事を文章に変えるのか。


 何を彼女と呼ぶのか。

 何を選んだことにするのか。


 分かっているつもりで、何も分かっていない。


 黒い本は、机の上で静かに開いている。


 昌志は、完成した文章をもう一度見た。


 彼女の名前を間違えて呼んだ。


 振り向いた顔は、彼女ではなかった。


 その一文だけが、いつまでも目から離れなかった。

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