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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第32話 助けたあとのこと

 六月十日。


 朝起きた時、昌志はまず肩の痛みを感じた。


 昨日、地面に倒れた時に打った場所だ。


 背中も痛い。


 手のひらには、小さな擦り傷が残っている。


 大きな怪我ではない。


 病院でもそう言われた。


 けれど、体を動かすたびに、昨日のことを思い出す。


 水野駅東口ロータリー前。


 二台の車。


 私服の小さな背中。


 瑞美だと思って呼んだ名前。


 振り向いた顔。


 相沢美月。


 昌志は、机の上の黒い本を見た。


 昨日の出来事は、午前零時を待たずに、すでに文章になっていた。


 これまで昌志は、その日の出来事は夜が終わり、日付が変わる頃に自叙伝の文章として完成するのだと思っていた。


 でも、そうとは限らない。


 黒い本がいつ出来事を文章に変えるのか。

 そのタイミングも、まだ分からない。


 昌志は黒い本を開いた。


 六月十日のページを見る。


 何も出ていない。


 今日は、今のところ何も書かれていなかった。


「……何もなしか」


 それでも、安心はできなかった。


 何も書かれていない日にも、出来事は起きる。それはもう、分かっている。


 *


 母は学校を休めと言った。

 けれど、昌志は学校へ行くことにした。


 家にいても、落ち着かない。


 病院にも、警察にも、あとで行かなければならない。


 その前に学校を休むと、余計に大げさなことになりそうだった。


「本当に行くの?」


 朝食の時、母が聞いた。


「大丈夫。病院でも大したことないって言われたし」


「でも、昨日の今日よ」


「授業だけ出る。あとで病院行くし」


「無理はしないで」


「分かってる」


 そう答えると、司が横からじっと昌志を見た。


「兄ちゃん」


「何」


「昨日、本当に車に突っ込みかけたの?」


「突っ込みかけたわけじゃない」


「でも、女の子助けたんでしょ」


「まあ」


「……もう、そんな危ないことしないでよ」


 司はそれだけ言って、目を逸らした。


 いつもなら、もっと茶化してくる。

 でも今日は、それ以上何も言わなかった。


 母も、静かに昌志を見ていた。


「立派なことをしたのかもしれないけど」


「うん」


「あなたが大怪我をしてもおかしくなかったのよ」


「分かってる」


「本当に、危ないことはしないで」


 昌志は、すぐには返事ができなかった。


 昨日、走らなければ美月は助からなかったかもしれない。


 でも、母の言っていることも分かる。


「……気をつける」


 結局、そう答えるしかなかった。


 *      *


 学校に着くと、すでに何人かが事故のことを知っていた。


 誰かが駅前の事故を見ていたらしい。


 SNSにも、少しだけ話が流れていたようだった。


「岐阜、お前、昨日の事故現場にいたって本当?」


「車に轢かれかけた、うちの一年生を助けたって聞いたけど?」


「一年の子、命懸けで助けたんだろ?」


「マジ?」


 教室に入るなり、何人かに囲まれた。


 昌志は、大袈裟になっていると思いつつも、できるだけ短く答えた。


「たまたま近くにいただけ」


「でも助けたんだろ?」


「車が来てたから、引っ張っただけ」


「それ普通にすごくない?」


「すごくない。運がよかっただけ」


 そう言っても、周りはなかなか引かなかった。


 中には、妙に興奮した顔で手を差し出してくる生徒までいた。


「岐阜、よくやった」


「いや、別に」


「いいから」


 押し切られるように握手した。


 周りから、軽く拍手のようなものまで起きる。


 昌志は困った。


 褒められても、落ち着かない。


 助けたのは事実だ。


 でも本当は、遥だと思って走った。


 美月を助けようと正しく判断したわけではない。


 黒い本に書かれていたから、あの場所へ行った。


 黒い本に書かれていたから、手を伸ばした。


 それを言えないまま褒められるのは、妙に苦しかった。


 それでも、悪い気分だけではなかった。


 誰かに「よくやった」と言われる。


 握手される。

 助けたことを認められる。


 そのこと自体は、ほんの少しだけ気分がよかった。


 そう感じてしまう自分が、また嫌だった。


 そこへ圭佑が教室へ入ってきた。


 いつもより少し遅い。


 顔を見るなり、昌志の方へ歩いてくる。


「昌志」


「ああ」


「体、大丈夫か」


「大丈夫。そっちは?」


「美月も大丈夫。手と膝をちょっと擦っただけ」


「よかった」


 昌志がそう言うと、圭佑は一瞬、言葉を詰まらせた。


 昨日、泣きながら礼を言ったことを思い出したのかもしれない。


 周りに人がいるせいか、圭佑はいつもの軽口に戻そうとした。


「まあ、お前は昔から変なところで無茶するからな」


「そんなことないだろ」


「あるだろ。小学校の時も、川に落ちたボール取ろうとして靴びしょびしょにしてたし」


「あれはお前のボールだろ」


「そうだっけ?」


「そうだよ」


 少しだけ、いつものやり取りに戻った。


 周りの空気も軽くなる。


 けれど、圭佑の目はまだ赤かった。


 昌志はそれに気づいたが、何も言わなかった。


 *


 授業は、ほとんど頭に入らなかった。


 昨日ほどではない。


 けれど、体が痛むたびに、事故の音が戻ってくる。


 金属が潰れる音。

 美月の短い悲鳴。


 圭佑が泣きながら握った手。


 それから、黒い本の文章。


 彼女の名前を間違えて呼んだ。


 振り向いた顔は、彼女ではなかった。


 本のその一文だけが、何度も頭に浮かんだ。


 昼休み、圭佑がまたやって来た。


「今日、病院行くんだろ?」


「ああ。放課後」


「警察も?」


「たぶん。もう一回話聞きたいって」


「俺らも行く。美月も、親も」


「そうか」


「めんどくさいことになったな」


「まあ」


「でも、必要なことなんだろ」


「分かってる」


 昌志は頷いた。


 圭佑は少し黙ってから、低い声で言った。


「昨日は、ほんと悪かった」


「何が」


「俺、取り乱した」


「妹があんな目に遭ったら普通だろ」


「そうだけど」


 圭佑は髪をかいた。


「お前の前で泣くとは思わなかった」


「別にいいだろ」


「よくねえよ。恥ずいわ」


「今さら?」


「今さらだよ」


 圭佑は少し笑った。


 それから、真面目な顔に戻る。


「でも、助かった。マジで」


「もういいって」


「何回でも言う。お前が嫌がっても言う」


「嫌がるっていうか、落ち着かない」


「落ち着かなくても聞け」


 圭佑は、いつもの調子で言った。


 けれど、声の奥は軽くなかった。


「ありがとうな」


 昌志は返事に困った。


 結局、小さく頷くだけだった。


 圭佑は、少しだけ目を伏せた。


「お前が友達でよかったよ」


 その言葉は、軽口ではなかった。


 昌志は、ますます返事に困った。


「……大げさだろ」


「大げさじゃねえよ」


 圭佑は、短く言った。


「俺にとっては、大げさじゃない」


 昌志は何も言えなかった。


 ただ、胸の奥が少し重くなった。


 圭佑にそう言われることは、嬉しかった。


 でも、その言葉を受け取るには、まだ隠していることが多すぎた。


 *


 放課後、昌志は母と合流して病院へ向かった。


 母は、思ったよりも静かだった。

 けれど、それが逆に怖かった。


 待合室で、何度も昌志の肩や手を確認する。


「痛む?」


「少し」


「先生にちゃんと言いなさい」


「言うって」


「昨日、電話で聞いた時は大丈夫って言ってたけど、こうして見ると全然大丈夫じゃないじゃない」


「大丈夫だよ」


「簡単に大丈夫って言わないの!あなたの悪い癖よ!」


 母の声が少し強くなった。


 昌志は黙った。


 診察では、やはり骨に異常はなかった。


 打撲と擦り傷。


 数日は痛むが、安静にしていれば問題ないと言われた。


 母は、それを聞いて少しだけ息を吐いた。


 安心したようにも見えた。

 けれど、怒っているようにも見えた。


 その後、警察署へ向かった。


 昨日言われた通り、もう一度話を聞きたいということだった。


 母も一緒だった。


 部屋に通されると、警察官が二人いた。


 昨日現場で見た人とは違う。


 穏やかな口調で、事故の時のことを確認された。


 昌志がどこにいたのか。


 事故の音を聞いたのか、車が動くのを見たのか。


 美月との距離はどれくらいだったのか。


 なぜ走ったのか。


 どうやって引き倒したのか。


 車には接触したのか。


 その前に、美月と面識はあったのか。


 昌志は、答えられる範囲で答えた。


「駅前にいました」


「車が滑っていくのが見えました」


「危ないと思って、走りました」


「引っ張ったというか、抱えるように倒れました」


「車には直接当たっていません」


「相沢美月さんは、友達の妹です」


 嘘は言っていない。

 でも、全部ではない。


 黒い本を見て、その時間と場所を知っていたこと。


 遥だと思って走ったこと。

 それは言えなかった。


 警察官は、淡々とメモを取っていた。


「かなり危険な状況でした。あなた自身も大怪我をしていた可能性があります」


「はい」


「ただ、相沢さんが助かったのは、あなたが動いたからです」


 昌志は、返事に困った。


「後日、正式に感謝状の話が出るかもしれません」


「感謝状、ですか」


「まだ決まったわけではありません。確認が終わってからです」


「あの、そういうのは別に」


 昌志が言いかけると、母が横から言った。


「昌志」


「いや、だって」


「必要なら、ちゃんと受けなさい」


 母の声は静かだった。


 でも、少しだけ震えていた。


 警察官は穏やかに続けた。


「無理に今決める話ではありません。もしそうなった場合は、あらためて連絡します」


「……はい」


 昌志は頷いた。


 警察署を出る頃には、夕方近くになっていた。


 外の空は、少し赤くなり始めている。


 昌志は、まだ少し痛む手を見た。


 助けたことが、少しずつ自分の知らないところで形になっていく。


 感謝。

 確認。


 感謝状。


 どれも、悪いことではないはずだった。


 それなのに、落ち着かなかった。


 黒い本を見て動いたことだけが、ずっと胸の奥に残っていた。

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