第33話 礼だけが残る
家に帰る頃には、もう夕方だった。
母は帰り道、しばらく黙っていた。
怒っているのか。
心配しているのか。
それとも、まだ驚いているのか。
昌志には分からなかった。
家の近くまで来たところで、母がようやく口を開いた。
「人を助けたことは、すごいと思う」
「うん」
「でも、あなたが怪我をしてもおかしくなかったのよ」
「分かってる」
「本当に分かってる?」
昌志は答えられなかった。
分かっている。
そう言いたかった。
でも、昨日あの場に戻ったとしても、自分はたぶん同じことをする。
美月が車の前にいて、手を伸ばせば間に合うかもしれないなら。
黒い本に書かれていたとしても。
そうでなかったとしても。
結局、走っていた気がする。
だから、母の問いには答えられなかった。
母はそれ以上責めなかった。
ただ、小さく息を吐いた。
「今日はもう、何もしないで休みなさい」
「うん」
* *
家に帰って少しすると、チャイムが鳴った。
母が玄関へ向かう。昌志も、部屋へ上がる前だったので、そのまま玄関の方を見た。
そこにいたのは、相沢家の人たちだった。
圭佑。
美月。
それから、圭佑の両親。
圭佑の父親は少し厳しそうな顔をしていた。
けれど、昌志を見るなり、深く頭を下げた。母親も隣で頭を下げる。
その手には、菓子折りらしい包みがあった。
「昌志くん」
圭佑の父親が言った。
「昨日は、本当にありがとう」
「いや、そんな」
昌志は慌てた。
「たまたま近くにいただけで」
「たまたまでも、動いてくれたのは君だ」
そう言われると、何も返せなくなる。
圭佑の母親も、菓子折りを母に差し出した。
「本当に、ありがとうございました。娘が無事だったのは、昌志くんのおかげです」
声が少し震えていた。
昌志の母も、受け取りながら頭を下げる。
「いえ、こちらこそ、息子がご心配をおかけして」
「そんなことはありません」
圭佑の父親は首を横に振った。
「本来なら、こちらがもっと早く伺うべきでした。ただ、昨日は病院や警察のことで」
「いえ。どうぞ、上がってください」
玄関先では落ち着かないので、母が相沢家をリビングへ通した。
昌志は少し居心地が悪かった。
圭佑は、そんな昌志を見て、小さく笑った。
「英雄扱いされるの苦手そうだな」
「やめろ」
「でも、うちでは昨日から英雄だぞ」
「やめろって」
圭佑は軽口を言った。
けれど、その声は昨日よりも柔らかかった。
* *
リビングで改めて座ると、相沢家の両親はもう一度頭を下げた。
美月も、両手を膝の上に置いて、きちんと頭を下げる。
「昌志先輩」
「うん?」
「昨日は、ありがとうございました」
昨日よりも落ち着いた声だった。
でも、少し緊張している。
「本当に、助けてもらいました」
「怪我、大丈夫?」
「はい。手と膝だけです」
「よかった」
昌志がそう言うと、美月は少しだけ目を伏せた。
「昨日、あのままだったらって考えたら、ちょっと怖くて」
「……うん」
「だから、ちゃんと言いたかったんです」
美月は顔を上げた。
「ありがとうございました」
その目はまっすぐだった。
昌志は、また少し困った。
美月の視線をまっすぐ受け止めるには、まだ後ろめたさがあった。
でも、助けられてよかったと思っているのは本当だった。
「無事でよかった」
それだけ言った。
美月は小さく頷いた。
圭佑が横から口を挟む。
「こいつ、昨日から昌志先輩、昌志先輩ってうるさいんだよ」
「お兄ちゃん!」
「命の恩人だから仕方ないか」
「だから、そういう言い方やめて」
美月が少しだけ顔を赤くする。
圭佑は笑った。
そのやり取りを見て、少しだけ空気が軽くなった。
昌志の母も、ようやく少し表情を緩めた。
相沢家の父親は、昌志の方を見た。
「圭佑から聞いているよ。小さい頃から、美月のこともよく見てくれていたって」
「見ていたというか、圭佑と一緒にいたら、美月ちゃんもいたというか」
「その頃から、世話になっていたんだな」
「いや、そんな大したことは」
昌志がそう言うと、美月が小さく首を横に振った。
「大したことなんです」
少しだけ、遥に似た言い方だった。
たまたまでも、助けてくれたことには変わりません。
そんな言葉を思い出す。
昌志は、胸の奥が少しだけざわついた。
**
相沢家が帰った後、家の中は少し静かになった。
母は、玄関を閉めてから、しばらくそこに立っていた。
「すごいことをしたのね」
「だから、たまたまだって」
「たまたまでも、助けたのはあなたでしょう」
母にも同じようなことを言われた。
昌志は返せなかった。
司がリビングの入口から顔を出す。
「兄ちゃん、なんか人気者じゃん」
「そういう話じゃない」
「分かってるけど」
司は少しだけ笑った。
でも、その目はいつもより優しかった。
「でも、ほんとに無事でよかった」
「うん」
「もう、ああいう危ないことしないでよ」
「……分かってる」
「本当に?」
「本当に」
司は少しだけ昌志を疑うように見た。
それから、部屋へ戻っていった。
昌志は、しばらくリビングに立っていた。
助けられてよかった。
美月が無事でよかった。
圭佑が泣くほど大事に思っている妹を、失わずに済んでよかった。
それは本当だ。
でも、その場に自分がいたのは、黒い本の文章を読んだからだった。
黒い本がなければ、昌志はあそこへ行かなかった。
美月は助からなかったかもしれない。
そう考えると、黒い本をただ悪いものだと言い切れなくなる。
それが、嫌だった。
* * *
夜中。
昌志は部屋で黒い本を開いた。
しばらくすると、黒いページの奥に、新しい文字が浮かんできた。
今度は、二つだった。
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――六月十一日、放課後。
小さな落とし物を拾う。
持ち主に返せば、
礼だけが残る。
――六月十一日、放課後。
彼女は、
昨日のことを聞く。
答えなければ、
心配だけが残る。
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昌志は、二つの文章を見た。
どちらも、六月十一日の放課後。
同じ時間帯だった。
黒い本に複数の文章が出る時は、基本的に同じ時間帯に起きるものだと思っていた。
だから本来なら、二つを同時に選ぶのは難しい。
小さな落とし物を拾うのか。
彼女に昨日のことを聞かれるのか。
どちらかを選ぶことになる。
そう考えるのが自然だった。
でも最近は、もうよく分からない。
二つ同時に起きることもあった。
三つのうち二つが重なることもあった。
場所も時間も、当たることもあれば、ズレることもある。
だから、今回も片方だけとは限らない。
小さな落とし物。
礼だけが残る。
それは、今のところ何のことか分からない。
もう一つ。
彼女は、昨日のことを聞く。
たぶん、遥だ。
昨日、遥にはかなり心配をかけた。
事故の前にも、何度も曖昧なことを言った。
明日は危ない場所に行くな。
駅前は避けろ。
理由は言えない。
そんなことばかり言った。
そのうえ、事故が起きた後に電話をして、大丈夫かと確認した。
遥からすれば、分からないことだらけだろう。
それでも、遥は約束を守った。
駅前に近づかず、無事でいてくれた。
昨日のことについて聞かれるなら、会っておく必要がある。少なくとも、何もなかったようにするのは違う。
昌志は、黒い本を閉じた。
明日、遥に会う。
そう決めた。
決めた、というより、黒い本にそう促された気もした。
でも、今回はそれでもいいと思った。
遥には、話しておかなければならないことがある。
全部は言えなくても。
少なくとも、心配をかけたことくらいは謝らなければならない。
昌志はスマホを見た。
瑞美遥の名前がある。
連絡先を交換しておいてよかった。
そう思ってから、少しだけ苦笑した。
また、黒い本のために安心している。
それに気づいて、昌志はスマホを伏せた。
明日のことは、明日考えればいい。
そう思おうとした。
けれど、黒い本に浮かんだ二つの文章は、目を閉じても消えなかった。




