第34話 彼女には会わなかった
六月十一日。
朝になっても、昨夜、黒い本に浮かんだ二つの文章は頭から離れなかった。
小さな落とし物を拾う。
持ち主に返せば、礼だけが残る。
そして、もう一つ。
彼女は、昨日のことを聞く。
答えなければ、心配だけが残る。
どちらも放課後だった。
同じ時間帯。
普通に考えれば、二つを同時に選ぶのは難しい。
落とし物を拾って持ち主に返すのか。
それとも、彼女に昨日のことを聞かれるのか。
どちらかを選べ、ということなのだろう。
少なくとも、以前の昌志ならそう考えた。
けれど、最近はもう分からない。
二つ出たら一つだけ起きるとは限らない。
場所も時間も、当たることもあれば、ズレることもある。
そして、彼女という言葉も信用できない。
瑞美遥だと思った彼女は、相沢美月だった。
黒い本は嘘をついていなかった。
ただ、昌志が勝手に読み違えていた。
「……彼女、か」
昌志は、机の上の黒い本を見下ろした。
昨日のことを聞く彼女。
それが遥なら、会わないわけにはいかない。
昨日、昌志は遥に駅前へ近づくなと言った。
理由も言わずに。
その後、本当に駅前で事故が起きた。
昌志自身も怪我をした。
夜には、無事かどうかを確認する電話までかけた。
遥からすれば、分からないことだらけだろう。
全部は話せない。
黒い本のことも、事故が起こると知っていたことも、まだ言えない。
でも、何もなかったことにはできない。
昌志はスマホを手に取った。
少し迷ってから、瑞美遥にメッセージを送る。
『今日の放課後、少し会えるか。昨日のことで、話しておきたい』
送ってから、すぐに画面を伏せた。
話しておきたい。
そう書いたくせに、話せることは少ない。
事故が起きると知っていたこと。
水野駅東口ロータリー前、午後四時十二分と黒い本に書かれていたこと。
本当は遥だと思って走ったこと。
振り向いた顔が美月だったこと。
その肝心な部分は、言えない。
言えないことばかりだった。
しばらくして、スマホが震えた。
『分かりました。学校が終わったら連絡します』
昌志は返信を見つめた。
逃げる理由は、なくなった。
* *
学校では、昨日よりは少し落ち着いていた。
それでも、事故の話はまだ何度か出た。
「岐阜、昨日警察行ったんだって?」
「一年の子、無事だったんだろ?」
「感謝状とか出るの?」
昌志は、そのたびに短く答えた。
「まだ分からない」
「大した怪我じゃなかった」
「運がよかっただけ」
何度も同じことを言っているうちに、自分でもその言葉が口癖のようになってくる。
運がよかっただけ。
たまたま近くにいただけ。
危ないと思って動いただけ。
全部、嘘ではない。
けれど、全部ではない。
黒い本に書いてあったから、あの場所へ行った。
黒い本に書いてあったから、手を伸ばした。
その部分だけを抜いた説明は、どこまで本当なのだろう。
昌志には、もうよく分からなかった。
圭佑は、いつもより少しだけ昌志を気にしていた。
休み時間のたびに近づいてきては、肩は痛くないか、背中はどうかと聞いてくる。
「だから、大丈夫だって」
「大丈夫って言うやつほど信用できねえんだよ」
「お前、そんなこと言うタイプだったか?」
「昨日からそういうタイプになった」
「母さんみたいで、面倒だな」
「違うわ、命の恩人に対する友達の気遣いだろ」
「その言い方やめろ」
圭佑は笑った。
でも、その笑いはまだ少しぎこちない。
美月が無事だった。
だから笑えている。
そのことが分かるから、昌志も強くは返せなかった。
* *
放課後。
遥から連絡が来た。
『水野駅の近くまで行けます。コンビニの前でどうですか』
昌志はすぐに返信した。
『分かった』
鞄を持って教室を出る。
その時、黒い本のもう一つの文章が頭をよぎった。
小さな落とし物を拾う。
持ち主に返せば、礼だけが残る。
それも放課後だった。
同じ時間帯。
今から遥に会いに行けば、落とし物の方は拾えないかもしれない。
いや、たぶん無理だ。
落とし物がどこにあるかも分からない。
持ち主が誰かも分からない。
それを探していたら、遥との約束には間に合わない。
昌志は、廊下の途中で一度だけ足を止めた。
どちらを選ぶか。そう考えている時点で、黒い本に動かされている気がした。
でも、今日は遥に会う。
それだけは決めた。
落とし物の方は、諦めるしかない。
そう思うと、胸の奥に小さな違和感が残った。
何かを取りこぼすような感覚。
けれど、昌志はそのまま駅へ向かった。
*
コンビニの前に着くと、遥はもう来ていた。制服姿ではなく、少しボーイッシュな私服だった。
短めの髪。
きちんと持たれた鞄。
昌志を見ると、遥は軽く頭を下げた。
「岐阜さん」
「悪い。待たせた?」
「いえ。今来たところです」
そう言ってから、遥はすぐに昌志の手元と肩を見た。
「怪我は」
「大丈夫。昨日も今日も病院で見てもらった」
「今日も?」
「念のため。骨とかは大丈夫だった」
「そうですか」
遥は少しだけ息を吐いた。
安心したように見えた。
けれど、表情はまだ固い。
「昨日の事故のこと、聞きました」
「うん」
「駅前で、車が歩道に乗り上げかけたって」
「そう」
「岐阜さんが、女の子を助けたって」
昌志は頷いた。
「圭佑の妹だった」
「相沢さんの妹さんですか」
「うちの学校の一年。相沢美月っていう」
「一年生……」
遥は小さく繰り返した。
「その子は、大丈夫だったんですか」
「手と膝を少し擦ったくらい。大きな怪我はなかった」
「よかったです」
遥は本当にそう思っているようだった。
そのあと、少し黙る。
そして、昌志をまっすぐ見た。
「岐阜さん」
「何?」
「どうして、昨日、私に駅前へ近づかないように言ったんですか」
来ると思っていた質問だった。
それでも、昌志はすぐに答えられなかった。
どうして。
黒い本に書かれていたから。
水野駅東口ロータリー前で、二台の車がぶつかると書かれていたから。
彼女が車の前に残ると書かれていたから。
その彼女を、遥だと思ったから。
どれも言えない。
「危ない気がした」
昌志は、ようやくそう言った。
自分でも、ひどい答えだと思った。
遥は眉を少し寄せる。
「気がしたん、ですか?」
「うん」
「それだけで、あんなに必死に?」
「……そう」
「岐阜さん」
遥は真っすぐにこちらをみつめる。
そしてその声は静かだった。
怒っているわけではない。
でも、納得していない。
「私は、嘘をつかれているとは思っていません」
昌志は顔を上げた。
「でも、本当のことを全部話してもらっているとも思っていません」
その言葉は、まっすぐだった。
昌志は何も言えなかった。
遥は続ける。
「昨日、私は駅前に近づきませんでした。岐阜さんがそう言ったからです」
「ああ」
「そうしたら、本当に駅前で事故が起きました」
「うん」
「偶然だと言われれば、それまでです。でも、偶然だけで片づけるには、少し変です」
昌志は、視線を落とした。
遥は鋭い。
いや、普通に考えれば当然だ。
理由も言わずに危ないと言われ、その通り事故が起きた。
疑問を持たない方がおかしい。
「ごめん」
昌志は言った。
「今は、これ以上うまく言えない」
「今は?」
遥が聞き返す。
昌志は、一瞬だけ言葉に詰まった。
今は。
そう言ってしまった。
いつかは話すという意味に聞こえる言い方だった。
「……いつか、ちゃんと話せるなら話す」
「それは、話せない事情があるということですか」
「そういうことになる」
「危ないことですか」
昌志は答えられなかった。
遥は、その沈黙を答えとして受け取ったようだった。
「分かりました」
「分かったのか?」
「納得はしていません」
「だよな」
「でも、岐阜さんが私を心配してくれたことは、分かりました」
遥は、少しだけ表情を緩めた。
「だから、昨日はありがとうございました」
「俺は、別に」
「別に、ではありません」
遥は少し強めに言った。
「私が駅前に近づかなかったのは、岐阜さんが連絡してくれたからです」
「でも、実際に危なかったのは瑞美じゃなかった」
「それでもです」
遥は首を横に振った。
「心配してくれたことは、変わりません」
昌志は黙った。
助けた事実は変わらない。
心配したことも変わらない。
でも、知っていたことを隠している。
それが、胸の奥に残る。
「美月ちゃんにも、圭佑にも、かなり感謝された」
昌志は話題を少しずらした。
「圭佑なんか、泣いてた」
「相沢さんが?」
「うん。初めて見た」
「妹さんが危なかったんですから、当然だと思います」
「まあ、そうだな」
「岐阜さんは、そういうところがあります」
「そういうところ?」
「自分がしたことを、すぐ小さく言います」
昌志は少し困った。
「大したことじゃないって言いたいわけじゃないんだけど」
「言っています」
「……言ってるか」
「言っています」
遥ははっきり言った。
そして、少しだけ目を伏せる。
「でも、無事でよかったです」
「俺が?」
「はい」
昌志は、返事に詰まった。
「岐阜さんが怪我をしたと聞いて、心配しました」
「大した怪我じゃない」
「また小さく言いました」
「……悪い」
遥は少しだけ笑った。
その笑い方で、昨日から張っていた糸が少し緩んだように見えた。
昌志も、少しだけ息を吐いた。
全部は話せない。
けれど、会ってよかったとは思った。
遥はまだ納得していない。
それは分かっている。
でも、今日ここで何も話さなかったら、もっと心配を残しただろう。
そう思いたかった。
* * *
別れる前に、遥がもう一度言った。
「岐阜さん」
「何?」
「いつか話せるなら、その時はちゃんと話してください」
昌志は、すぐには返事ができなかった。
黒い本のこと。
未来ではない自叙伝のこと。
事故を知っていたこと。
遥だと思って走ったこと。
今まで隠してきたこと。
それらを、本当に話せる日が来るのかは分からない。
でも、遥の目を見ていると、曖昧にごまかすこともできなかった。
「分かった」
「本当ですか?」
「本当」
「なら、待っています」
遥はそう言って、軽く頭を下げた。
昌志はその背中を見送った。
短い髪が、夕方の光の中で少し揺れる。
その背中を見て、黒い本の言葉を思い出す。
彼女。
小さな背中。
昌志は、首を振った。
決めつけてはいけない。
そう分かったばかりだ。
*
家に帰ると、昌志はすぐに黒い本を開いた。
まだ夜ではない。
日付が変わるどころか、夕食の時間にもなっていない。
それでも、もう文章が出ているかもしれない。
昨日の事故の時もそうだった。
出来事が終われば、日付が変わる前でも文章になることがある。
六月十一日のページ。
そこには、思った通り、すでに文字が浮かんでいた。
昌志は、息を止めた。
━━━━━━━━━━━━━━
――六月十一日。
放課後。
僕は、
小さな落とし物を拾わなかった。
持ち主に返すこともなかった。
だから、
礼はどこにも残らなかった。
彼女は、
昨日のことを聞きたがっていた。
けれど僕は、
彼女に会わなかった。
コンビニの前で、
別の彼女に会った。
昨日のことを話した。
言えることだけを話し、
言えないことは話さなかった。
答えたつもりで、
何も答えなかった。
だから、
心配だけが残った。
━━━━━━━━━━━━━━
昌志は、何度も読み返した。
「……会っただろ」
声が漏れた。
会った。
確かに会った。
コンビニの前で、瑞美遥に会った。
昨日の事故について話した。
美月を助けたことも話した。
遥が無事でよかったことも伝えた。
それなのに、黒い本にはこう書かれている。
彼女に会わなかった。
コンビニの前で、別の彼女に会った。
別の彼女。
じゃあ、黒い本が言っていた彼女は誰だ。
遥ではなかったのか。
もしかして、美月のことだったのか。
昨日助けられた美月が、改めて昨日のことを聞きたがっていたのか。
でも、それも確定ではない。
彼女という言葉は、もう一人に固定できない。
遥かもしれない。
美月かもしれない。
あるいは、昌志がまだ気づいていない誰かなのかもしれない。
「何なんだよ……」
昌志はページを見つめた。
さらに嫌だったのは、その後の文章だった。
言えることだけを話し、言えないことは話さなかった。
答えたつもりで、何も答えなかった。
昌志は、遥に説明したつもりだった。
心配を減らしたつもりだった。
でも黒い本は、それを答えたとは認めていない。
心配だけが残った。
あの会話は、報告ではあった。
でも、答えではなかった。
黒い本はそう書いている。
昌志は、黒い本を閉じた。
今日は、結局何を選んだのだろう。
落とし物は拾わなかった。
彼女には会わなかったと書かれた。
コンビニで遥には会った。
けれど、それは黒い本の中では「別の彼女」だった。
つまり、二つとも選べていない。
昌志は、黒い本を見下ろした。
一つも選ばなかった。
それなのに、一日は進んだ。
事故も起きなかった。
誰かが大怪我をしたわけでもない。
警察沙汰になったわけでもない。
だったら。
必ずどれかを選ばなければならない、というわけではないのかもしれない。
選ばなくても、進む日がある。
何も選ばないことで、やり過ごせる日もある。
そう思いかけて、昌志はすぐに首を振った。
まだ分からない。
黒い本について、確定していることなんて、ほとんどない。
場所も時間も、当たる時とズレる時がある。
彼女が誰なのかも、分からない。
文章になるタイミングも分からない。
今日、何も起きなかったように見えることも、あとでどうなるか分からない。
それでも、ひとつだけ分かったことがある。
この「彼女」が誰なのか。
まず、それをはっきりさせなければならない。
*
夜。
夕食を済ませ、母や司からまた体のことを心配され、部屋に戻ってから、昌志はもう一度黒い本を開いた。
六月十二日のページを見る。
しばらく何も出なかった。
このまま何も出ないのかと思った時、黒いページの奥に、文字が滲むように浮かび上がってきた。
また、二つだった。
━━━━━━━━━━━━━━
――六月十二日、放課後。
小さな落とし物を拾う。
持ち主に返せば、
礼だけが残る。
――六月十二日、放課後。
彼女は、
昨日よりも僕に会いたがっている。
昨日のことを聞きたがっている。
会わなければ、
心配だけが残る。
━━━━━━━━━━━━━━
昌志は、息を止めた。
昨日と、ほとんど同じだった。
ただ、完全に同じではない。
彼女は、昨日よりも僕に会いたがっている。
その一文だけが、昨日より少しだけ近くなっていた。
悪い文章ではない。少なくとも、誰かが傷つくとか、何かを失うとか、そういうものではない。
でも、消えてはいなかった。
昨日選ばなかったものが、同じ形で、少しだけ濃くなって残っている。
そう見えた。
「……持ち越し、か?」
昌志はつぶやいた。
不幸だけじゃない。
幸運も、一つも選ばなければ残る。
ただ、危険になるわけではない。
でも、消えもしない。
昨日、拾わなかった落とし物。
昨日、会わなかった彼女。
その二つが、また同じように出ている。
なら、明日も選ばなければ。
さらに残るのか。
もっと濃くなるのか。
それとも、まったく別の形になるのか。
分からなかった。
分かったようで、何も分からない。
昌志は、二つ目の文章をもう一度見た。
彼女は、昨日よりも僕に会いたがっている。
昨日のことを聞きたがっている。
この彼女は、誰だ。
遥なのか。
美月なのか。
それとも、別の誰かなのか。
まず、それを確かめなければならない。
そうしなければ、また間違える。
また、名前を間違えて呼ぶことになる。
昌志は黒い本を閉じた。
机の上に置いても、文字は目の裏に残っていた。
「彼女」
その二文字が、昨日よりもずっと近くにある気がした。




