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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第35話 たまたま助けただけ

 六月十二日。


 朝から、昌志の頭には昨日の黒い本の文章が残っていた。


 小さな落とし物。


 彼女。


 昨日のこと。


 会わなければ、心配だけが残る。

 昨日とほとんど同じ文章だった。


 けれど、まったく同じではない。


 彼女は、昨日よりも昌志に会いたがっている。


 その一文だけが、妙に引っかかっていた。


 不幸というほどではない。


 少なくとも、事故や怪我や警察のような言葉は出ていない。


 けれど、選ばなかったものが消えていないことだけは、分かる。


 昨日、昌志は遥に会った。


 けれど黒い本には、彼女には会わなかった、と書かれた。


 なら、黒い本の言う彼女は、遥ではなかったのか。


 相沢美月なのか。


 それとも、別の誰かなのか。


「……分かるかよ」


 昌志は小さくつぶやいて、鞄に黒い本をしまった。


 考えても、答えは出ない。

 ただ、今日も何かが残っている。


 その感覚だけがあった。


 *   *


 学校へ着いても、昌志は落ち着かなかった。


 授業中も、休み時間も、ふとした瞬間に鞄の中が気になる。


 黒い本を開けば何か分かる気がする。


 けれど、開いたところで分かるとは限らない。


 むしろ余計に分からなくなることの方が多い。


 昼休み前の休み時間。


 昌志が廊下を歩いていると、足元に小さなシャープペンシルが落ちているのに気づいた。


 白い軸の、少し古いものだった。

 通り過ぎようとして、足が止まる。


 小さな落とし物。


 持ち主に返せば、礼だけが残る。


 昨日から残っている文章が、頭の中で勝手に読み上げられた。


「……これか?」


 昌志はしゃがんで、それを拾った。


 名前は書いていない。


 ただ、キャップ部分に小さなシールが貼ってあった。


 どうするべきか迷っていると、前の方で女子生徒が鞄の中を探っていた。


「あれ、ない……」


 小さな声が聞こえた。


 昌志は近づいた。


「これ?」


 女子生徒が顔を上げる。


「あ、それです。ありがとうございます」


「廊下に落ちてた」


「すみません、助かりました」


 それだけだった。


 女子生徒は頭を下げて、友達のところへ戻っていった。


 礼だけが残る。

 本当に、それだけだった。


 昌志はしばらくその背中を見ていた。


 何も起きない。


 誰かに感謝されただけ。


 危険もない。


 不気味なこともない。


 小さな落とし物を拾って、持ち主に返した。


 たったそれだけ。


 けれど、それが黒い本の文章の一つだったのだとしたら、今の行動は選んだことになるのだろうか。


 分からない。


 分からないまま、昼休みになった。


 *  *     *


 昼休み。


 圭佑が、いつもの調子より少し控えめに昌志の席へ来た。


「昌志」


「何?」


「今日、放課後、時間あるか?」


「あるけど」


「うち来られるか?」


 昌志は、少しだけ目を細めた。


「お前の家?」


「ああ」


「何で」


「美月がさ」


 圭佑は、少しだけ頭をかいた。


「ちゃんと礼を言いたいって。昨日も言ってたんだけど、病院とか警察とかでバタバタしてただろ」


 昌志の胸の奥が、少しだけ沈んだ。


 彼女。


 僕に会いたがっている。

 昨日のことを聞きたがっている。


 やっぱり、美月だったのかもしれない。


「別に礼なんかいいのに」


「そう言うと思った」


「なら言うなよ」


「言うだろ。妹が言いたがってるんだから」


 圭佑は少し笑った。


 いつもの軽さはある。


 でも、その奥にまだ事故の名残があった。


 妹が助かった。


 その事実があったから、圭佑はこうして笑えている。


「無理ならいいけど」


「いや、行く」


 昌志は答えた。


「放課後でいいんだな」


「ああ。俺と一緒に帰ればいい」


「分かった」


 答えてから、昌志は小さく息を吐いた。


 これで、少なくとも一つは分かるかもしれない。


 黒い本の言う彼女が、美月だったのかどうか。


 ただ、それが分かったところで、黒い本の仕組みが分かるわけではない。


 それもまた、昌志には分かっていた。


 *   *


 放課後。


 昌志は圭佑と一緒に学校を出た。


 圭佑の家へ行くのは久しぶりだった。


 小学生の頃は、もっとよく行っていた。


 ゲームをしたり、宿題をしたり、意味もなく漫画を読んだりした。


 中学に入ってから少しずつ減り、高校になってからはほとんど行っていない。


 だから、見慣れたはずの道も、少しだけ懐かしかった。


「お前がうち来るの、久しぶりだな」


 圭佑が言った。


「そうだっけ?」


「そうだよ。前はもっと来てただろ」


「まあ、小学生の頃はな」


「お前、うちの冷蔵庫から勝手にアイス取ってたし」


「お前も俺の家で勝手に麦茶飲んでただろ」


「親友だからな」


「便利な言葉だな」


 圭佑は笑った。


 昌志も少しだけ笑った。


 こういう会話をしていると、黒い本のことが少し遠くなる。


 けれど、完全には消えない。


 圭佑の家に行く。


 美月に会う。


 昨日のことを聞かれる。


 その流れそのものが、黒い本の文章の中にある気がした。

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