第36話 助けられた方は覚えている
圭佑の家は、記憶より少し小さく見えた。
いや、家が変わったわけではない。
昌志の方が大きくなっただけだ。
玄関を開けると、圭佑が先に声をかけた。
「ただいま。昌志連れてきた」
奥から足音がした。
出てきたのは美月だった。
制服ではなく、家用の服に着替えている。
膝にはまだ絆創膏が貼ってあった。
手の甲にも、小さな擦り傷の跡がある。
それを見た瞬間、昌志は昨日の光景を思い出した。
車。
悲鳴。
手を伸ばした瞬間。
地面に転がった感覚。
美月が無事だったことを、改めて確認するように見る。
美月は、昌志と目が合うと、すぐに頭を下げた。
「昌志先輩。この前は、本当にありがとうございました」
「いや、そんなにかしこまらなくていいよ」
「でも、ちゃんと言いたかったので」
美月は、もう一度頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
昌志は少し困った。
こういう時、何と言えばいいのか分からない。
感謝されるのは嫌ではない。
でも、胸を張ることでもない。
「怪我がひどくなくてよかった」
結局、それだけを言った。
美月は顔を上げる。
「兄から聞きました。昌志先輩も怪我したって」
「大したことないよ」
「大したことないって言うなよ」
横から圭佑が口を挟んだ。
「お前、昨日もそればっかりだっただろ」
「実際、大したことない、かすり傷」
「車の前に飛び出したやつの言う、大したことないは信用できない」
「飛び出したわけじゃない」
「似たようなもんだ」
圭佑が少し不機嫌そうに言う。
美月はそんな二人を見て、少しだけ表情を緩めた。
「兄さん、昨日からずっとそんな感じです」
「うるさいだけだろ」
「心配してるんだよ」
圭佑が言うと、美月は小さく笑った。
事故の後の硬さが、少しだけほどけたように見えた。
* *
三人は居間に移動した。
圭佑の母は仕事でまだ帰っていないらしい。
圭佑が麦茶を出し、美月が菓子の皿を置いた。
「なんか、俺が客みたいだな」
「客だろ、一応」
「昔は勝手に冷蔵庫開けてたのに?」
「今日は命の恩人様だからな」
「やめろって」
昌志が顔をしかめると、圭佑は少しだけ笑った。
美月は、そのやり取りを見ていた。
少し不思議そうな顔だった。
たぶん、学校で見る昌志とは違って見えるのだろう。
圭佑の友人。
兄の昔からの親友。
そして、自分を助けた人。
その三つが、美月の中でまだうまく重なっていないのかもしれない。
「昌志先輩」
美月が、湯呑みを置いてから言った。
「何?」
「聞いてもいいですか?」
「答えられることなら」
そう言ってから、少しだけしまったと思った。
答えられないことがある。
それを最初から認めたような言い方だった。
美月は気づいたかどうか分からない。
ただ、まっすぐ昌志を見ていた。
「どうして、あそこにいたんですか?」
やっぱり来た。
昌志は、湯呑みに視線を落とした。
どうして。
黒い本に書かれていたから。
事故が起きると知っていたから。
彼女が車の前に残ると書かれていたから。
その彼女を、遥だと思っていたから。
どれも言えない。
言えるわけがない。
「たまたま近くにいたんだ」
昌志は言った。
昨日、遥に言ったのと似たような答えだった。
けれど、今回は少しだけ言葉を足す。
「駅前に用事があってさ。そしたら、美月ちゃんが見えて」
「私が、ですか?」
「うん。横断歩道の近くにいたから」
美月は瞬きをした。
「それで、向こうから車が来るのが見えた。ちょっと危ないと思って、声をかけた」
「それで、助けてくれたんですか?」
「助けたっていうか、間に合ってよかっただけ」
「たまたま、ですか」
美月が聞き返す。
その声には、責めるような響きはなかった。
ただ、確かめるような響きがあった。
「そう、たまたま」
昌志は頷いた。
「本当に、たまたま近くにいて、危ないと思っただけ。大したことはしてない」
「大したこと、あります」
美月はすぐに言った。
「私、あの時、車に気づいてませんでした」
「でも、怪我は軽かった」
「それは、昌志先輩が助けてくれたからです」
昌志は言葉に詰まった。
こうまっすぐ言われると、逃げ場がない。
美月は少しだけ視線を落とした。
「私のこと、よく見えてたんですね」
「見えてたっていうか……偶然目に入っただけ」
「でも、気づいてくれました」
美月は小さく言った。
「私、自分でも気づいてなかったのに」
昌志は返事ができなかった。
黒い本を見ていたから。
彼女という言葉を気にしていたから。
遥だと思って走ったから。
けれど、結果として助けたのは美月だった。
そのことだけは、嘘ではない。
「助けられてよかったよ」
昌志は言った。
「それだけ?」
美月は、少しだけ目を丸くした。
圭佑が横で息を吐く。
「相変わらずだな、お前」
「何が?」
「そういうとこ」
「どういうとこだよ?」
「困ってるやつ見つけると、結局放っておけないくせに、礼を言われるとすぐ逃げるとこ」
「逃げてないだろ」
「逃げてる」
圭佑は断言した。
「昔からそうだろ。誰かが困ってたら、面倒くさそうな顔しながら手伝う。で、礼を言われると『別に』とか『たまたま』とか言って終わらせる」
「そんな覚えない」
「お前はないだろうな。助けた方だから」
圭佑はそう言って、少しだけ真面目な顔になった。
「助けられた方は、けっこう覚えてるんだよ」
昌志は何も言えなかった。
美月も黙っていた。
その沈黙が、少しだけ居心地悪い。
昌志は湯呑みを持ち上げ、麦茶を飲んだ。
ぬるくなっていた。
* *
その後は、少しだけ普通の話になった。
美月は一年生としての学校の話をした。
入学してからまだ慣れないこと。
教師の名前をなかなか覚えられないこと。
圭佑が学校では家と違って妙に先輩ぶっていること。
「先輩ぶってねえよ」
「ぶっています」
「兄への敬意が足りない」
「家での兄さんを知っているので」
「おい、余計なこと言うな」
圭佑が慌てる。
昌志は少し笑った。
美月は、事故の話をしていた時よりもずっと話しやすそうだった。
怪我の痛みはまだあるだろう。
怖さも残っているはずだ。
それでも、今こうして普通に話している。
そのことに、昌志は少しだけ安心した。
しばらくして、美月が遠慮がちにスマホを手に取った。
「あの、兄さん」
「何だよ」
「昌志先輩の連絡先、聞いてもいい?」
圭佑が少しだけ目を丸くした。
昌志も反応が遅れた。
「俺の?」
「はい」
美月は昌志の方を見る。
「お礼を言いたかったのもありますけど、また何か聞きたいことがあるかもしれないので」
「聞きたいこと?」
「昨日のこととか」
昌志はわずかに息を止めた。
昨日のこと。
やはり、まだ終わっていない。
美月は続ける。
「もちろん、迷惑なら大丈夫です」
「いや、迷惑ってわけじゃないけど」
昌志は圭佑を見た。
圭佑は少し考えてから肩をすくめた。
「別に俺は構わないけど。昌志が嫌じゃなければ」
「俺は別に」
「じゃあ、いいんじゃねえの」
圭佑は美月に向かって言った。
「ただし、夜中に送るなよ」
「送りません」
「昌志も、変なこと送るなよ」
「送るか」
「一応だよ、一応」
圭佑がそう言うと、美月は少し笑った。
連絡先を交換する。
ただそれだけのことなのに、昌志は妙に引っかかった。
遥。
美月。
彼女。
その言葉の幅が、また少し広がった気がした。
黒い本は、名前を書かない。
彼女とだけ書く。
それが遥なのか、美月なのか、別の誰かなのか。
昌志が勝手に決めつければ、また間違える。
そう分かっているのに、黒い本はまた同じような言葉を出してくる。
まるで、昌志が間違えるのを待っているみたいだった。
* *
帰る時、圭佑が玄関まで送ってきた。
美月はもう一度頭を下げた。
「昌志先輩、本当にありがとうございました」
「だから、そんなに何回もいいって」
「何回言っても足りないので」
「いや、足りるだろ」
「足りません」
美月は真面目に言った。
昌志は困って、圭佑を見る。
圭佑は助けてくれなかった。
むしろ少し笑っている。
「諦めろ。うちの妹、けっこう頑固だから」
「兄さんに言われたくない」
「兄に向かって何だ」
兄妹のやり取りを見ながら、昌志は少しだけ笑った。
美月が無事だった。
圭佑がこうして妹といつも通り話している。
そのことが、今さらのように重かった。
「じゃあ、また学校で」
昌志が言うと、美月は頷いた。
「はい。また連絡します」
「ああ」
その返事をしてから、昌志は家を出た。
圭佑が途中までついてくる。
「昌志」
「何?」
「本当に、ありがとな」
圭佑の声は、さっきまでより少し低かった。
「昨日も言っただろ」
「何回言っても足りねえんだよ」
「お前ら兄妹、同じこと言うな」
「兄妹だからな」
圭佑は笑った。
けれど、そのあとすぐに真面目な顔に戻る。
「でも、無茶はするなよ」
「してない」
「しただろ」
「結果的にそう見えるだけ」
「そういうのを無茶って言うんだよ」
圭佑は立ち止まった。
「美月が助かったのは、本当にありがたい。でも、お前に何かあったら、それはそれで俺は困る」
昌志は、すぐには返せなかった。
圭佑は冗談にしなかった。
だから、昌志もごまかしきれなかった。
「分かってる」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「本当って言うと、お前が信用しないだろ」
「まあ、しない」
圭佑は少しだけ笑った。
「じゃあ、たぶんでいいわ」
昌志も少し笑った。
それから圭佑と別れ、家へ向かった。
夕方の道を歩きながら、昌志はスマホを見た。
新しく追加された連絡先。
相沢美月。
その名前が、画面に残っている。
黒い本の彼女が、少しずつ増えていく。
そのことが、妙に落ち着かなかった。
*
夜。
昌志は部屋に戻ると、黒い本を開いた。
六月十二日のページには、すでに文章が浮かんでいた。
━━━━━━━━━━━━━━
――六月十二日。
僕は、
小さな落とし物を拾った。
持ち主に返すと、
礼だけが残った。
彼女は、
一昨日のことを聞いた。
僕は、
たまたまだと答えた。
大したことではないと、
また言った。
けれど、
助けられた側には、
その言葉だけでは足りなかった。
彼女の名前が、
新しく手の中に残った。
━━━━━━━━━━━━━━
悪い文章ではなかった。
少なくとも、そう見えた。
けれど、昌志には少しだけ引っかかった。
たまたま。
大したことじゃない。
昌志が何度も使った言葉が、黒い本の中に残っている。
まるで、言い訳のように。
「……たまたま、だろ」
昌志は小さく言った。
黒い本は何も答えない。
ただ、ページの上の文字だけが、そこに残っていた。
その夜、美月から短いメッセージが届いた。
『今日はありがとうございました。兄さんも、少し安心したみたいです』
昌志は少し考えてから、返信した。
『こっちこそ。怪我、無理するなよ』
すぐに返事が来た。
『はい。昌志先輩も、無理しないでください』
その一文を見て、昌志はスマホを伏せた。
遥にも、同じようなことを言われた。
圭佑にも言われた。
美月にも言われた。
無理をするな。
大丈夫なのか。
ちゃんと話せ。
周りから少しずつ囲まれていくような感覚があった。
それが嫌なわけではない。
でも、怖くないわけでもなかった。
*
それから一週間ほど、黒い本には悪くない文章が続いた。
大きな幸運ではない。
けれど、小さな得がいくつかあった。
買おうと思っていたものが安くなっていた。
雨に濡れずに済んだ。
少しだけ小遣いの足しになるようなこともあった。
学校でも、家でも、特に大きな問題は起きなかった。
遥からは、時々短い連絡が来た。
美月からも、たまにメッセージが届くようになった。
圭佑は相変わらず、昌志の様子を見ていた。
黒い本には、悪いことばかりが出るわけではなくなった。
少なくとも、その一週間だけは。
昌志は、少しだけ息をつける気がした。
もしかしたら、あの事故で大きな不幸を越えたから、黒い本の流れが変わったのかもしれない。
そんなふうに考えた。
けれど、本当のところは分からない。
なぜ悪い文章が減ったのか。
なぜ小さな幸運が続いているのか。
それを昌志は、まだ知らなかった。
ただ、分かっていないまま、昌志はその幸運をいくつか拾った。
小さな得なら、拾っても問題ない。
そう思っていた。
その考えが、また次の何かを押し出していることに、彼はまだ気づいていなかった。




