幕間 美月はまだ、連絡を待っている
美月は、スマホの画面を見ていた。
別に、何か通知が来ているわけではない。
通知は来ていない。
だからこそ、見ていた。
画面をつける。
通知欄を見る。
何もない。
画面を消す。
少しして、また画面をつける。
それを何度か繰り返していると、向かい側に座っていた圭佑が、呆れたような顔をした。
「お前、さっきから何してんの?」
「別に」
「別にって顔じゃないだろ」
「別にだよ」
美月はスマホを伏せた。
圭佑はじっと美月を見る。
「昌志から連絡来ないのか」
「……何で分かるの?」
「分かるだろ。分かりやすすぎる」
「分かりやすすぎないし」
「いや、分かりやすすぎる」
圭佑はそう言って、少しだけ笑った。
美月はむっとした。
でも、否定しきれなかった。
事故のあと。
病院で診てもらって。
家に帰って。
それから少しして、昌志先輩と連絡先を交換した。
命の恩人だから。
何かあった時のために。
お礼もちゃんと言いたいから。
そういう理由はいくつもあった。
でも、連絡先を交換したあと、昌志先輩からは一度も連絡が来ていない。
こちらから送ればいいのかもしれない。
けれど、何を送ればいいのか分からなかった。
体は大丈夫ですか。
あの時はありがとうございました。
また今度お礼を。
どれも変ではない。
でも、送信する直前になると、指が止まる。
それで結局、何も送れないまま、今日まで来てしまった。
「昌志先輩、忙しいのかな」
「忙しいんじゃねえの」
圭佑は、わざと軽く答えた。
「最近、あいつ変に忙しそうだし」
「変に?」
「ああ。何かあるっぽいんだけど、俺には言わない」
「お兄ちゃんにも?」
「俺にも」
圭佑は少しだけ口を曲げた。
いつもの軽い顔だったが、少しだけ面白くなさそうでもあった。
「昔からそういうとこあるんだよ。何か抱えてても、言わない。大丈夫とか、寝不足とか、そういう雑な言い訳で逃げる」
「逃げるんだ」
「逃げる。あいつ、都合悪くなるとすぐ逃げる」
圭佑はそう言ってから、すぐに付け足した。
「でも、困ってるやつを放っておけないところもある」
美月は顔を上げた。
「それは……分かる」
分かる。
あの時、昌志先輩は走ってきた。
自分が気づくより早く。
周りの人が叫ぶより早く。
車が迫っていることに、自分は気づいていなかった。
ただ、呼ばれた気がして振り向いただけだった。
それなのに、昌志先輩はそこにいた。
自分に向かって、飛び込んできた。
美月は、まだ覚えている。
倒れた時の衝撃。
腕で庇われた感触。
すぐ近くで潰れた車の音。
それから。
手や腕に血が出ているのに、昌志先輩が最初に言った言葉。
美月ちゃん、大丈夫か。
それだった。
「でもさ」
美月は、伏せていたスマホを指でなぞった。
「私のこと、助けてくれたよね」
「助けたな」
「ずっと見ててくれたんだよね。私、自分では全然気づかなかったのに」
「そこはたぶん、ちょっと違う」
「違う?」
美月が顔を上げると、圭佑は少しだけ困った顔をした。
「美月だから助けた、っていうより、あいつは助けられる人間がいたら助けるんだよ」
「……私だからじゃないってこと?」
「そういう意味じゃなくて」
圭佑は頭をかいた。
「もちろん、お前が助かって俺は本当にほっとしてるし、昌志には感謝してる。そこは変わらない。でも、あいつはたぶん、相手がお前じゃなくても飛び込んだと思う」
「誰でも?」
「誰でも、とは言わないけどな。助けられると思ったら、できるだけ助けようとするやつだよ。昔から」
美月は黙った。
少しだけ、胸の奥が沈んだ気がした。
自分だから助けてくれた。
そう思っていたかったのかもしれない。
でも、圭佑の言い方に嘘はなかった。
それに、嫌な感じもしなかった。
むしろ。
誰かだからではなく、助けられるなら助ける。
それは、それで。
ひどく昌志先輩らしい気がした。
「あいつ、病院でも言ってただろ。大したことしてないとか、たまたまだとか」
「言ってた」
「もう逃げに入ってるんだよ、あれ」
「逃げ?」
「助けたって言われるのが苦手なんだと思う。礼を言われても、たまたま見えただけとか、大したことないとか言って、すぐ逃げる」
「大したことないわけないのに」
「だよな」
圭佑は、少し真面目な顔になった。
「あいつのそういうとこ、俺はすごいと思ってる」
「そういうとこ?」
「いいことしても、絶対に偉そうにしないんだよ。助けたんだからこうしろ、とか、助けてやったんだから言うこと聞け、とか、そういうのが全然ない」
圭佑は、ゆっくりと言った。
「あいつ、絶対に恩を盾にしないんだよ」
美月は、何も言えなかった。
昌志先輩が自分を助けた。
それは事実だ。
でも、昌志先輩はそれを使って、何かを求めたりしない。
何かを言ってきたりもしない。
むしろ、もう終わったことみたいな顔をしている。
大したことじゃない。
無事だったならよかった。
きっと、それくらいで終わらせようとしている。
「今回のことも、たぶん本人の中ではもう終わったことになってる」
「終わったこと……」
「腹立つくらい、そういうやつなんだよ」
圭佑は苦笑した。
「こっちは一生感謝するくらいのことなのにさ。あいつは、助かってよかったな、で終わらせようとする」
「……怒らないんだ」
「怒る?」
「助けたんだから、連絡くらいしろとか。ちゃんとお礼しろとか。そういうの」
「言わないな」
圭佑は即答した。
「あいつ、絶対言わない」
「絶対?」
「絶対」
圭佑の声には、妙な確信があった。
長い付き合いなのだと分かる声だった。
「じゃあ」
美月は、少しだけ迷ってから聞いた。
「私のこととか、何か聞いてこないの」
「昌志が?」
「うん」
「何も」
圭佑はあっさり答えた。
「全くない」
「……全く?」
「全く」
「一回も?」
「一回も」
部屋の中が、少しだけ静かになった。
美月は、スマホを見た。
通知はない。
昌志先輩からの連絡もない。
圭佑への質問もない。
何もない。
本当に、何もない。
それが少し悔しい。
でも、同時に、昌志先輩らしいとも思ってしまう。
だから余計に、どうしたらいいのか分からなかった。
「……美月?」
圭佑が、不審そうに声をかけた。
「どうかしたのか?」
美月は顔を上げた。
少し考えてから、口を開く。
「昌志先輩って、何が好きなの?」
「何が?」
「うん」
圭佑は目を瞬かせた。
それから、少しだけにやっとした。
「何だよ。気になるのか?」
「違うし」
「違うのか」
「違う」
「じゃあ、何で聞くんだよ」
「命の恩人だから。お礼する時に、好きなものくらい知っておいた方がいいでしょ」
「なるほどなあ」
圭佑は、わざとらしくうなずいた。
美月は睨んだ。
「変な顔しないで」
「してないしてない」
「してる」
「悪かったって」
圭佑は笑いながら、少し考えた。
「あいつは、本が好きだな」
「本?」
「ああ。昔から本屋とか古本屋とか好きだったし、最近も何か新しい本を買ったらしい」
美月の指が、スマホの端を軽く握った。
「新しい本?」
「そう。何か、それに夢中っぽいんだよな」
「どんな本?」
「知らん」
「知らないの?」
「知らない。聞いても、はぐらかす。たぶん、俺に見せたくないんだろ」
圭佑は少し肩をすくめた。
「でも、瑞美さんとはその本の話してるみたいだけどな」
美月は、動きを止めた。
「瑞美さん?」
「最近あいつがよく一緒にいる子」
「女の子?」
「女の子」
「……彼女いるの?」
思ったより早く、声が出た。
自分でも少し驚いた。
圭佑は、美月を見た。
「本人は否定してるけどな」
「否定してるんだ」
「ああ。彼女じゃないって言ってる。でも、何かある感じはする」
「何かって?」
「知らん。俺にも教えないし」
圭佑はそう言ってから、美月の顔をのぞき込んだ。
「何だよ。やっぱり何かあるのか?」
「何でもない」
「何でもない顔じゃないけど」
「何でもない」
美月はスマホを持って立ち上がった。
「おい、美月」
「部屋戻る」
「お前、本当に分かりやすいな」
「うるさい!」
美月はそう言って、部屋を出た。
廊下に出てから、スマホを見る。
通知は、まだない。
昌志先輩からの連絡は来ていない。
でも、さっきまでとは少し違っていた。
本。
新しい本。
瑞美という女の子。
彼女ではないと言っている相手。
美月は、画面を消した。
「……本か」
小さくつぶやく。
今まで、本が特別好きだったわけではない。
嫌いでもない。
でも、昌志先輩が好きなら。
昌志先輩が、その本の話を誰かとしているなら。少しくらい、本のことを知ってみてもいい気がした。
美月は、自分の部屋の扉を開けた。
スマホを握ったまま、もう一度だけ画面を見る。
やっぱり、通知はない。
それでも、今度は少しだけ違う気持ちで、画面を閉じた。




