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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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幕間2 妹同盟

 美月は、スマホの画面を見つめていた。


 昌志先輩に連絡する。


 それだけのことが、なかなかできない。


 連絡先は知っている。


 事故のあとに交換した。


 お礼も言った。


 だから、連絡してはいけない理由はない。


 でも、いざ文章を打とうとすると、指が止まる。


 体は大丈夫ですか。


 この前は、本当にありがとうございました。


 何かお礼をさせてください。


 どれも変ではない。


 でも、どれも少し違う気がした。


 美月は、しばらく悩んだあと、別の連絡先を開いた。


 岐阜司。


 昌志先輩の妹。


 事故のあと、圭佑経由で何度か話すようになった相手だ。


 年下だが、話しやすい子だった。


 美月は、少しだけ迷ってから、通話ボタンを押した。


 呼び出し音が鳴る。


 一回。


 二回。


 三回目で、電話がつながった。


『はい。司です』


「あ、相沢美月です」


『美月さん? どうしました?』


「えっと……今、大丈夫?」


『大丈夫ですよ。兄なら部屋にいますけど』


 いきなりそう言われて、美月は少し固まった。


「いえ、あの、そういうわけじゃなくて」


『違うんですか?』


 電話の向こうで、司が少し笑った気がした。


 美月は顔が熱くなるのを感じた。


「違うよ。ただ、その……この前、助けてもらったから」


『兄の様子が気になるんですね』


「うん。怪我とか、大丈夫なのかなって」


『一応、大丈夫そうです』


「一応?」


『一応です。事故の怪我はそこまででもないと思います。でも、最近ずっと調子悪そうなんですよね』


「調子悪そうなの?」


『はい。寝不足ってずっと言ってます。あと、ご飯もあんまり食べない時があります』


「ご飯も?」


『前より少ないですね。お母さんに聞かれても、あんまり腹減ってないとか言ってます』


 美月は、眉を寄せた。


 昌志先輩は、病院では大丈夫だと言っていた。


 大したことはしていないとも言っていた。


 でも、それは本当に大丈夫だったからではなく、ただそう言っただけなのかもしれない。


「やっぱり、どこか痛いのかな」


『事故の怪我はたぶん平気です。でも、それとは別に、何か悩んでる感じはします』


「悩み……」


『兄はそういうの、言わないので』


 司の声は軽かった。


 でも、兄を見ている妹の声でもあった。


「うちのお兄ちゃんも、昌志先輩のこと、すごく褒めてたよ」


『圭佑さんがですか?』


「うん。助けたことを鼻にかけないって。全然威張らないって」


『兄ちゃん、外ではそうなんですね』


「外では?」


『妹には普通に威張りますよ』


 司がさらっと言ったので、美月は少し笑ってしまった。


「そうなの?」


『そうですよ。あと、妹にはそんなに優しくないです』


「そんなことないと思うけど」


『いや、普通に雑です。兄妹なんてそんなものです』


「うちも、そうかも」


『圭佑さん、すごく心配してましたよね』


「うん。あんなに泣くと思わなかった」


『それだけ美月さんが大事なんですよ』


「……うん」


 美月は、少し黙った。


 事故の日の兄の顔を思い出す。


 泣きながら、昌志先輩に何度も礼を言っていた。


 兄があんな顔をするのを、美月は初めて見た。


 そして、その兄に礼を言われても、昌志先輩は困ったようにしていた。


 誇るわけでもない。


 自慢するわけでもない。


 恩を着せるわけでもない。


 ただ、無事だったならいい。


 そういう顔をしていた。


「司ちゃん」


『はい』


「たまに、連絡してもいい?」


『私にですか?』


「うん」


 言ってから、美月は少し恥ずかしくなった。


「昌志先輩の様子を、聞きたいから」


 電話の向こうが、一瞬静かになった。


 それから、司の声が少しだけ変わった。


『いいですよ』


「本当?」


『はい。電話をしたからって、何か分かるかは分かりませんけど』


「それでも大丈夫」


『どうしてですか?』


「え」


『兄のこと、そんなに気になります?』


 美月は言葉に詰まった。


 司の声は、明らかに少し面白がっている。


 それが分かる。


「この前、助けてもらったから」


『そうですね』


「心配なだけだよ」


『そうですね』


 司は、否定しなかった。


 でも、その声は完全には信じていないようにも聞こえた。


 美月は、少しだけ頬を膨らませた。


「……そういうことだから」


『はい。そういうことにしておきます』


「司ちゃん」


『何ですか?』


「今、笑ってない?」


『笑ってませんよ』


「絶対笑ってる」


『少しだけです』


 美月は小さく息を吐いた。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 司はからかっている。


 でも、悪意はない。


 どこか楽しそうで、少しだけ頼もしい。


「あの」


『はい』


「昌志先輩って……家で、私のこととか話したりする?」


『美月さんのことですか?』


「うん。その、この前のこととか」


『いや、全然しないです』


「……全然?」


『はい。兄ちゃん、そういう話あんまりしないので』


 美月は黙った。


 少しくらいは話していると思っていた。


 助けた相手。


 圭佑の妹。


 連絡先を交換した相手。


 それなのに、全然。


 本当に、全然。


 美月は、スマホを握る指に少しだけ力を入れた。


『美月さん?』


「うん。大丈夫」


『大丈夫な声じゃないですけど』


「大丈夫」


『そうですか』


 司はそれ以上、そこを突かなかった。


 美月は少し迷ってから、別のことを聞いた。


「じゃあ、もう一つ聞いていい?」


『兄のことですか?』


「うん」


『どうぞ』


「瑞美さんって、どういう人なの?」


 今度は、司が黙った。


 美月はスマホを握る手に力を入れた。


 瑞美さん。


 圭佑の口から聞いた名前。


 昌志先輩が最近よく一緒にいるらしい女の子。


 本の話をしている相手。


 彼女ではないと、昌志先輩本人は言っているらしい。


 でも、何かある感じがする。


 圭佑はそう言っていた。


『瑞美さんですか』


「うん」


『正直、私はそんなによく知りません』


「そうなの?」


『兄が名前を出すことはありますけど、家に連れてきたことがあるわけでもないですし』


「名前は出すんだ」


『たまにですけどね』


 美月の胸が、少しだけ落ちた。


 たまに。


 でも、名前は出る。


 昌志先輩の家で、瑞美さんの名前が出る。


 それだけで、何かが引っかかった。


『気になります?』


「……少し」


『この前のお礼をする相手の交友関係ですもんね』


「そうだよ」


『なるほど』


 司の声が、さっきよりもさらに楽しそうになった。


『じゃあ、ちょっと調べてみますか』


「調べる?」


『兄と瑞美さんのことです。私、ちょっと観察してみます』


「観察って」


『探偵の真似事みたいなものです』


「それ、大丈夫なの?」


『大丈夫です。たぶん』


「たぶん?」


『兄は最近、どうせ周り見えてないので』


 司はさらっと言った。


 美月は少し心配になった。


「本当に大丈夫?」


『まあ、無理はしませんよ。面白そうだから、少しだけです』


「面白そうって」


『だって、兄が女の子の名前を出して、しかも何か隠してるんですよ。妹としては、ちょっと面白いじゃないですか』


「それは……」


 美月は否定できなかった。


 自分も気になっている。


 気になっているから、こうして電話している。


 でも、司のように楽しそうに言えるほど、軽くはなかった。


『ただ』


 司の声が、少しだけ落ち着いた。


『兄の調子がよくないのは、本当です』


「……うん」


『最近、食べ物もろくに食べてない時があります。夜も起きてるっぽいし、たぶん何か心配事を持ってます』


「心配事」


『兄は言わないと思いますけど』


 司はそこで、少し考えるように間を置いた。


『だから、何か持っていってあげると喜ぶかもしれません』


「何か?」


『食べやすいものとか。重くないもの。お礼って形なら、兄も受け取りやすいかもしれません』


「お礼……」


『この前のことで、って言えば自然ですし』


 美月は、スマホを見つめた。


 お礼。


 それなら、不自然ではない。


 連絡する理由にもなる。


 会う理由にもなる。


 昌志先輩がちゃんと食べていないなら、何か持っていく理由にもなる。


「何がいいと思う?」


『兄は、甘いものを絶対食べないってタイプではないですけど、量が多いと困ると思います。小さいものがいいかもしれません』


「小さいもの」


『あと、本が好きなので、しおりとかでもいいかもしれませんね』


「本……」


 美月は、その言葉に反応した。


 昌志先輩が好きなもの。


 本。


 最近、新しい本に夢中だと圭佑が言っていた。


 瑞美さんとも、その本の話をしているらしい。


「司ちゃん」


『はい』


「昌志先輩って、最近どんな本を読んでるの?」


『それが、よく分からないんですよ』


「分からない?」


『黒い本です』


 美月は、一瞬だけ聞き返しそうになった。


「黒い本?」


『はい。表紙が黒い本。タイトルもよく見えなくて、兄が妙に大事にしてます』


「大事に」


『触ろうとすると、ちょっと反応が強いんですよね。普通の本なら、そこまで嫌がらないと思うんですけど』


「……そうなんだ」


『だから、それも含めて観察してみます』


「無理はしないでね」


『美月さん、心配性ですね』


「司ちゃんが面白がって危ないことしそうだからだよ」


『ひどいですね』


「ひどくないです」


 司は小さく笑った。


『でも、分かりました。無理はしません。兄の様子と、瑞美さんのことと、黒い本のこと。少しだけ見ておきます』


「お願い」


『美月さんも、何か分かったら教えてくださいね』


「私も?」


『はい。妹同盟です』


「妹同盟」


『圭佑さんの妹と、昌志の妹なので』


 美月は、少しだけ笑った。


「分かった」


『では、何かあったら連絡します』


「うん。ありがとう」


『いえいえ。こちらこそ、ちょっと面白いものが手に入りました』


「面白いもの?」


『兄の観察理由です』


「司ちゃん」


『冗談です。半分くらい』


「半分は本気なんだ」


『もちろんです』


 司は楽しそうに言った。


『しばらく、ちょっと面白くなりそうです』


 美月は、少し心配そうに眉を寄せた。


 でも、電話の向こうの司は、もう何かを考え始めているようだった。


 兄の様子。


 瑞美さん。


 黒い本。


 そして、昌志先輩へのお礼。


 美月はスマホを握り直した。


「また連絡するね」


『はい。待ってます』


 通話が切れた。


 美月は、しばらく画面を見ていた。


 昌志先輩からの通知は、まだない。


 でも、さっきまでとは違う。


 何をすればいいのか、少しだけ見えた気がした。


 お礼。


 食べやすいもの。


 本に関係するもの。


 そして、瑞美さん。


「……妹同盟」


 美月は小さくつぶやいた。


 少し恥ずかしい名前だと思った。


 でも、悪くない気もした。


 一方、その頃。


 通話を終えた司は、スマホを机に置いた。


 そして、廊下の向こうにある昌志の部屋の方を見る。


「兄ちゃん、何してるんだろ」


 最近、確かにおかしい。


 寝不足。


 食欲不振。


 妙に大事にしている黒い本。


 そして、瑞美遥という名前。


 美月からの電話は、ただの相談ではなかった。


 面倒なことになりそうな気配がした。


 でも、少しだけ面白そうでもあった。


「まあ、無理はしないけど」


 司はそう言って、椅子から立ち上がった。


 探偵の真似事。


 ほんの少しだけ。


 兄にばれない範囲で。


 そう思いながら、司は静かに部屋の扉を開けた。

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