第37話 悪いものばかり
六月十九日。
美月を助けた日から、一週間ほどが過ぎていた。
その間、昌志の周りでは、悪くないことがいくつか続いた。
大きな幸運ではない。
人生が変わるような出来事でもない。
けれど、普段なら少し嬉しくなるくらいのことが、ぽつぽつと起きた。
欲しかったものが思ったより安く手に入った。
余計な出費を避けられた。
ちょっとした金が入り、財布の中身が前より少しだけ増えた。
金銭以外にも、面倒になりそうだったことが、ぎりぎりで避けられた。
黒い本に出る文章も、ここ数日はそれほど悪いものではなかった。
良いことばかり、というほどではない。
けれど、少なくとも事故のようなものはなかった。
誰かが怪我をすることもない。
警察沙汰になることもない。
昌志は、少しだけ息をつけるようになっていた。
あの事故で、大きなものを越えたのかもしれない。
美月を助けたことで、何かが変わったのかもしれない。
そんなふうに考えた。
もちろん、黒い本のことが分かったわけではない。
場所が当たる時と外れる時がある。
時間も当たる時と外れる時がある。
彼女という言葉が、遥を指すとは限らない。
選ばなかったものが消えるとも限らない。
分からないことは増えている。
それでも、ここ数日の昌志は、少しだけ調子がよかった。
小さな幸運を拾い、悪くなりそうなものは避ける。それでどうにかなっているように見えた。
* *
美月を助けた件で、昌志は学校でも少しだけ有名になっていた。
最初は、事故に巻き込まれたらしい、という話だった。
次に、車の前から一年生を助けたらしい、という話になった。
最後には、危険を顧みず飛び込んだ、という話になっていた。
昌志としては、そこまで大げさにされる覚えはない。
黒い本の文章を見て、事故が起きる場所へ向かった。
彼女だと思っていた相手が、遥ではなく美月だった。
車が迫ってきたから、手を伸ばした。
ただ、それだけだ。
けれど、その肝心な部分を言えない以上、昌志にできるのは、周囲の言葉を否定しすぎないことくらいだった。
「岐阜、感謝状もらうんだって?」
休み時間、クラスメイトの一人に言われた。
「まだ分からない」
「でも警察から話来たんだろ?」
「来たけど、そんな大げさなものじゃない」
「いや、大げさだろ。普通、警察に表彰されないって」
「運がよかっただけだよ」
そう言うと、相手は笑った。
「それ、助けたやつが言う台詞じゃないだろ」
その言葉に、昌志は少しだけ返事に困った。
近くで聞いていた圭佑が、代わりに口を挟んだ。
「こいつは昔からこうなんだよ」
「どういう意味だよ?」
昌志が聞くと、圭佑は肩をすくめた。
「自分がしたことを、すぐ小さく言うって意味」
「大したことじゃないものは、大したことじゃないだろ」
「車の前の妹を助けられた側としては、その言い方、ちょっと腹立つな」
「何でだよ」
「ありがたがらせろよ、少しは」
圭佑は軽く言った。
けれど、その顔は以前より柔らかかった。
美月の事故以来、圭佑との距離は少し戻った気がする。
いや、戻ったというより、前より近くなったのかもしれない。
圭佑は相変わらず軽口を叩く。
でも、昌志の様子をよく見ている。
痛みはないか。
無理をしていないか。
また何か隠していないか。
そういう視線が、言葉の端々に混じる。
鬱陶しくないと言えば嘘になる。
けれど、嫌ではなかった。
少なくとも、今の昌志には、そういう相手が必要なのかもしれない。
本人は、まだ認めたくなかったが。
*
美月からも、時々メッセージが来るようになった。
『膝の傷は、もうほとんど大丈夫です』
ある日は、そう届いた。
『よかった。無理するなよ』
昌志が返すと、すぐに返信が来た。
『昌志先輩もです』
その文面を見て、昌志は少しだけ苦笑した。
圭佑にも言われる。
遥にも言われる。
美月にも言われる。
無理をするな。
大丈夫なのか。
ちゃんと休んでいるのか。
似たようなことばかり言われる。
そんなに危なっかしく見えるのだろうか。
そう思ってから、昌志は自分で否定できなかった。
実際、危なっかしいことはしている。
しかも、その理由を誰にも言えていない。
遥からも何度か連絡が来た。
美月ほど頻繁ではない。
けれど、短い文面の中に、どこか探るような気配がある。
『怪我は悪くなっていませんか?』
『昨日はちゃんと眠れましたか?』
『また何かあれば、言ってください』
昌志は、そのたびに当たり障りのない返事をした。
『大丈夫』
『眠れた』
『何かあったら言う』
嘘ではない。
でも、全部ではない。
それは分かっている。
分かっているのに、まだ言えなかった。
*
黒い本は、その間も昌志の鞄の中にあった。
毎朝、毎晩、昌志は黒い本を開いた。
開かないと落ち着かなかった。
何か悪いことが書いてあるかもしれない。
何か良いことが書いてあるかもしれない。
書いていないからといって、安全とは限らない。
そう思いながらも、開かずにはいられなかった。
ここ数日の文章は、そこまで重くないものが多かった。
小さな得。
小さな回避。
小さな礼。
小さな偶然。
昌志はそれらを、いくつか拾った。
拾わなかったものもある。
けれど、拾えるものは拾った。
危なそうなものは避けた。
自分では、うまくやっているつもりだった。
黒い本の文章を全部信じるわけではない。
でも、使えるところは使う。
危ないものは避ける。
良いものは拾う。
そうすれば、ひどいことにはならない。
そう思っていた。
そう思いたかった。
* *
六月十九日の放課後。
昌志は、少しだけ機嫌がよかった。
財布の中身は、五月の終わりより明らかに増えている。
大きな金額ではない。それでも、高校生にとっては十分ありがたい額だった。
黒い本の文章を見て、少しだけ得をした。
損をしそうな場面を避けた。
その積み重ねだ。
もちろん、誰かに自慢できることではない。圭佑に話せば、また妙な顔をされるだろう。
母に知られれば、どうやって手に入れたのか聞かれるかもしれない。
だから昌志は、何も言わなかった。
言わないまま、少しだけ気分が軽くなっていた。
「おい、昌志」
校門の近くで、圭佑が声をかけてきた。
「何?」
「今日、寄り道するか?」
「何で?」
「何でって、暇そうだったから」
「暇そうに見えた?」
「ちょっと浮かれてるようには見えた」
「失礼だな」
「当たってるだろ」
昌志は否定しようとして、やめた。
完全には外れていない。
「今日は帰る」
「そうか」
「お前は?」
「俺も帰る。美月に頼まれたもの買ってから」
「仲いいな」
「大事な妹だからな」
圭佑は当然のように言った。
その言い方が少しだけおかしくて、昌志は笑った。
「何だよ」
「いや、別に」
「変なやつ」
圭佑はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「最近、前より顔色いいな」
「そうか?」
「ああ」
「ならいいことだろ?」
「そうなんだけどな」
圭佑は、少しだけ昌志を見た。
「いいことが続いてる時のお前、逆に変な方向に行きそうで怖いんだよ」
「何だそれ」
「男の勘」
「お前の勘は信用できない」
「俺はお前に関してはけっこう当たるぞ」
「嫌な自信だな」
昌志は笑ってごまかした。
圭佑もそれ以上は追及しなかった。
けれど、別れたあとも、その言葉は少し残った。
いいことが続いている時のお前。
逆に変な方向に行きそうで怖い。
圭佑は何も知らない。
黒い本のことも、幸運のことも、不幸のことも知らない。
それなのに、なぜか嫌なところを突いてくる。
昌志は、軽く首を振った。
考えすぎだ。
そう思うことにした。
* *
夜。
夕食を済ませ、風呂に入り、部屋へ戻った。
母は、まだ昌志の怪我を気にしている。
司も、最近は妙に昌志を見る。
家族の中にも、少しずつ何かが残っている。
それは分かっていた。
でも、今は黒い本の方が気になった。
昌志は机の前に座り、鞄から黒い本を出した。
表紙に触れる。
いつもの黒い感触。
冷たいわけではない。
けれど、温かくもない。
昌志は、六月二十日のページを開いた。
最初は何もなかった。
黒い紙面だけが、目の前にある。
ここ数日は、何も出ない時間も増えていた。
だから、今日もそうなのかもしれないと思った。
けれど、数秒後。
紙の奥から、文字が滲むように浮かび上がった。
昌志は、息を止めた。
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――六月二十日、朝。
落ちていたものを、
拾って、
自分のものにしたと思われる。
否定しても、
見ていた誰かは笑わない。
――六月二十日、昼休み。
言わなかったことを、
親友に聞かれる。
答えを濁せば、
嘘だけが残る。
――六月二十日、放課後。
助けたことを、
誰かが大げさに話す。
否定すればするほど、
名前だけが広がっていく。
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昌志は、しばらく動けなかった。
三つ。
しかも、全部悪い。
良いことが一つもない。
ここ数日は違った。
小さな幸運があった。
少し面倒なことがあっても、避けられる余地があった。
良いものと悪いものが混じっている日もあった。
けれど、今浮かんでいる文章は違う。
どれも、選びたくない。
どれも、起きてほしくない。
「……何でだよ」
声が漏れた。
朝。
拾ったものを、自分のものにしたと思われる。
昼休み。
言わなかったことを、親友に聞かれる。
放課後。
助けたことを、誰かが大げさに話す。
命に関わるものではない。
事故でもない。
警察沙汰でもない。
それでも、嫌だった。
金。
圭佑。
評判。
どれも、今の昌志が避けたいところを突いている。
「何で、急に……」
昌志はページを見つめた。
少し前までは、悪くなかった。
むしろ、調子がよかった。
小さな幸運が続いていた。
金も少し増えた。
圭佑とも前より話しやすくなった。
学校でも、変に見られてはいるが、悪い扱いではない。
美月も無事だった。
遥とも、完全ではないにしても、連絡は続いている。
悪くない。
悪くないはずだった。
それなのに、なぜ。
どうして、ここで悪いものばかり出るのか。
昌志には分からなかった。
黒い本のルールを考えても、分からない。
良いことを取ったから、悪いことが来るのか。悪いことを避けたから、別の形で出てきたのか。
それとも、そもそもそういうものなのか。
何も確定できない。
ただ、ページの上には、三つの悪い文章だけが並んでいる。
昌志は机に肘をつき、額を押さえた。
明日。
朝から、何かを拾わなければいいのか。
昼休みに、圭佑を避ければいいのか。
放課後、誰とも関わらなければいいのか。
そうすれば、やり過ごせるのか。
それとも、避けたこと自体がまた別の文章になるのか。
昨日までの軽さが、急に消えた。
黒い本は、やはりただ便利なものではない。
分かっていたはずなのに。少し良いことが続いただけで、また忘れかけていた。
昌志は、黒い本を閉じた。
けれど、三つの文章は消えなかった。
目を閉じても、頭の中に残っている。
拾ったもの。
親友。
助けたこと。
どれも、今の昌志の周りにあるものだった。
どれも、もう無関係ではいられないものだった。
「……どうすればいいんだよ」
部屋の中に、小さな声だけが落ちた。
黒い本は、何も答えなかった。




