第38話 三つとも来るかもしれない
六月二十日。
朝、目が覚めた瞬間から、昌志は落ち着かなかった。
昨夜、黒い本に浮かんだ三つの文章が、頭の中に残っている。
朝。
昼休み。
放課後。
どれも、起きてほしくないものだった。
命に関わるわけではない。
事故でもない。
警察沙汰でもない。
それでも、嫌だった。
落ちていたものを拾って、自分のものにしたと思われる。
親友に、言わなかったことを聞かれる。
助けたことを、誰かが大げさに話す。
三つとも、今の昌志の周りにあるものだった。
金。
圭佑。
評判。
どれも、避けたい。けれど、全部を避けられるのかは分からない。
一つを選べば、他は起きないのか。
それとも、三つとも来るのか。
選ばなければ消えるのか。
避けようとしたこと自体が、別の文章になるのか。
黒い本のルールは、まだ分からない。
「……行くしかないか」
昌志は制服に着替えながら、そうつぶやいた。
三つのうち二つは、学校で起こりそうだった。
昼休みと放課後。
学校を休めば避けられるのかもしれない。
けれど、そんな理由で休めるわけがない。
母に聞かれる。
司にも変に思われる。
それに、学校を休んだことで別の何かが起きる可能性もある。今までの経験で、休んでも回避出来ない可能性すらありうる。
だから、学校には行く。
問題は、朝だった。
落ちていたものを拾って、自分のものにしたと思われる。それは、家から学校までのどこかで起きる可能性が高い。
落ちているものを拾わなければいい。
立ち止まらなければいい。
余計なものを見なければいい。
そう考えると、取れる行動は一つしかなかった。
早く出る。
そして、学校まで走る。
落ちているものを見る暇もないくらいに。
*
朝食の時、母が昌志を見た。
「今日、少し早いのね」
「うん。ちょっと」
「まだ体は大丈夫?」
「大丈夫」
そう答えると、母は少し疑うような顔をした。
最近、何度も同じことを聞かれている。
無理をしていないか。
痛みはないか。
何か隠していないか。
母はそう言わない。
けれど、目がそう言っている気がした。
「無理はしないでね」
「分かってる」
昌志は短く答え、鞄を持った。
玄関で靴を履いていると、司が階段の途中から顔を出した。
「兄ちゃん、早くない?」
「早くない」
「早いよ」
「気のせい」
「何それ」
司は少しだけ眉を寄せた。
前なら、それ以上は何も言わなかったかもしれない。けれど最近の司は、昌志の動きをよく見ている。
水野駅の事故以来、家の中でもそういう視線が増えた。
「行ってくる」
昌志はそれ以上何か言われる前に、玄関を出た。
* *
外に出ると、朝の空気は少し湿っていた。
梅雨の時期らしい重さがある。
雨は降っていない。
けれど、空は曇っていた。
昌志はすぐに走り出した。
いつもの道。
角の自販機。
小さな公園。
コンビニの前。
駅へ向かう人の流れ。
その全部を、今日はできるだけ見ないようにした。
落ちているものを探さない。
誰かが何かを探していても、気づかない。
拾う機会そのものを作らない。
鞄が肩で揺れた。
息がすぐに乱れる。
それでも足を止めなかった。
道端に何か光ったような気がした。
でも、見なかった。
公園の前を通る時、ベンチの近くに人影があるように見えた。
でも、立ち止まらなかった。
見れば、考えてしまう。
考えれば、迷ってしまう。
迷えば、黒い本の文章に近づくかもしれない。
朝、落ちていたものを拾って、自分のものにしたと思われる。
その文章だけは、避けたかった。
泥棒扱いされるのだけは嫌だった。
だから昌志は、ほとんど逃げるように走った。
* *
学校に着いた時には、いつもよりかなり早かった。
昇降口にも人は少ない。
昌志は靴を履き替えながら、ようやく息を吐いた。
朝は終わった。
学校まで来た。
落ちていたものを拾うことはなかった。
そもそも、拾う機会を作らなかった。
朝と書いてあったことだけは、助かったのかもしれない。
もし時間が書かれていなければ、昌志は一日中、落ちているものを警戒しなければならなかった。
それを考えると、まだましだった。
教室に入ると、まだ席はまばらだった。
昌志は自分の席に座り、鞄を机の横にかけた。
黒い本は鞄の中にある。
開きたくなった。
でも、開かなかった。
今開いても、何かが分かるとは限らない。
それより、今日は一日、残り二つの文章に気をつけるしかない。
そう思うとこれからのことが憂鬱だった。




