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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第39話 残りの二つ

朝は、たぶん避けた。


 次は昼休み。


 親友に、言わなかったことを聞かれる。


 親友。


 たぶん、圭佑だ。


 そこだけは分かりやすかった。


 分かりやすいのに、避けにくい。


 圭佑を無視するわけにはいかない。


 逃げたら、余計に怪しまれる。


 聞かれたら、答えるしかない。


 ただし、全部は答えられない。


 黒い本のことは言えない。


 事故が起きると知っていたことも言えない。


 なら、何を答えればいいのか。


 昌志は、授業が始まってからも、そのことばかり考えていた。


     *       *


 昼休み。


 予想通り、圭佑が来た。


 いつものように軽く近づいてくるのではなく、少しだけ周りを見てから、昌志の机の前に立った。


「昌志」


「何?」


「ちょっと話せるか」


 来た。


 昌志は、心の中でそう思った。


 黒い本の文章が、頭の中で勝手に開く。


 言わなかったことを、親友に聞かれる。


 答えを濁せば、嘘だけが残る。


「いいけど」


 昌志は席を立った。


 教室の中では話しにくい。


 二人は廊下に出て、階段横の少し人の少ない場所まで移動した。


 圭佑は、しばらく黙っていた。


 いつもの圭佑なら、先に軽口を言う。


 でも今日は違った。


「最近さ」


「ああ」


「何か隠してるだろ?」


 昌志は、すぐには答えられなかった。


 まっすぐ来た。


 思っていたより、ずっと。


「何かって?」


「それが分かんないから聞いてる」


 圭佑は壁に背を預けた。


「美月の事故の時もそうだし、そのあともそうだ。お前、妙に何か考えてること多いだろ」


「受験生だからな」


「そういう話じゃない」


「じゃあ、どういう話だよ」


「分かんねえよ。でも、何かあるってことは分かる」


 圭佑は、少しだけ眉を寄せた。


「俺、お前のことはけっこう長く見てるからな」


 昌志は視線を落とした。


 黒い本のことは言えない。


 それは今も変わらない。


 でも、ここで全部をごまかしたら、黒い本の文章通りになる気がした。


 答えを濁せば、嘘だけが残る。


 嘘だけは、残したくなかった。


「……考えることが多いのは、本当」


 昌志は言った。


 圭佑が黙って続きを待つ。


「事故のこともそうだし、美月ちゃんのこともそうだし、最近、色々あったから」


「それだけか?」


「それだけじゃない」


 言ってから、昌志は少し息を止めた。


 圭佑が目を細める。


「じゃあ何だよ」


「まだ、うまく言えない」


「うまく言えないだけか?」


「言えないこともある」


 圭佑は、少しだけ黙った。


 昌志は自分の手を見た。


 事故の時の擦り傷はもう目立たない。


 けれど、あの感覚は残っている。


「でも、美月ちゃんのことは、本当に助かってよかったと思ってる」


「ああ」


「それは嘘じゃない」


「分かってる」


 圭佑は短く言った。


「そこは疑ってねえよ」


 昌志は少しだけ顔を上げた。


 圭佑は、いつもより真面目な顔をしていた。


「ただ、お前が一人で変なもの抱えてるなら、それは腹立つ」


「何でだよ」


「親友だからだろ」


「便利な言葉だな」


「便利に使って何が悪い」


 圭佑はそう言って、少しだけ笑った。


 けれど、すぐに真面目な顔に戻る。


「今回、妹のことで世話になった」


「それはもういいって」


「よくない」


 圭佑ははっきり言った。


「俺の気が済まない」


「気が済まないって」


「だから、今度は俺がお前の役に立つ!」


 昌志は、圭佑を見た。


 圭佑は、照れ隠しのように少しだけ視線を逸らした。


「何かあったら呼べ。夜でも朝でも、行ける時は行く。無理な時でも、できることはする」


「大げさだろ」


「大げさでいいんだよ!」


「気にしなくていいのに」


「俺が気にする。お前が気にするかどうかじゃない、俺の気持ちの問題なんだ!」


 圭佑は、まっすぐ昌志を見た。


「美月のこと、助けてもらった。だから、今度は俺が絶対、お前のことを助ける。何かあったら、ちゃんと俺に助けを求めろ!」


 相変わらず、暑苦しい男だ。


 昌志は、そう思った。


 でも、その言葉は少しだけ嬉しかった。


 誰にも言えないことがある。


 それは変わらない。


 黒い本のことは、まだ言えない。


 けれど、自分の方を見てくれている人間がいる。


 その事実だけは、悪くなかった。


「……分かった」


「本当か?」


「たぶん」


「そこは本当って言えよ」


「本当って言ったら、お前は信用しないだろ」


「まあ、しないな」


 圭佑は少し笑った。


 その顔を見て、昌志も少しだけ笑った。


 少なくとも、嘘だけは残らなかった。


 そう思いたかった。


     *     *


 放課後。


 昌志は、三つ目の文章を警戒していた。


 助けたことを、誰かが大げさに話す。


 否定すればするほど、名前だけが広がっていく。


 だから、否定しない。


 過剰に反応しない。


 何か言われても、流す。


 そう決めていた。


 けれど、決めていても、嫌なものは嫌だった。


 帰りの支度をしていると、廊下の方から声が聞こえた。


「このクラスの岐阜先輩だって」


「え、あの事故の?」


「一年の子助けた人でしょ?」


 昌志は、鞄に教科書を入れる手を止めた。


 来た。


 そう思った。


 教室の入口付近に、下級生らしい女子が二人いた。


 昌志を見ている。


 その後ろに、同じクラスの誰かがいて、少し得意げに何かを話していた。


「いや、ほんとすごかったらしいよ。車の前に飛び込んだとか」


「飛び込んではない」


 言いかけて、昌志は口を閉じた。


 否定すればするほど、名前だけが広がっていく。


 黒い本の文章が頭をよぎる。


 今、反応したら、たぶん駄目だ。


 昌志は鞄を持った。


 入口の方を見ないようにして、圭佑の横を通る。


 圭佑が小さく声をかけた。


「いいのか?」


「いい」


「飛び込んだことになってるぞ」


「なってない」


「いや、なってる」


「知らない」


 昌志は短く答えた。


 下級生の視線を感じる。


 でも、立ち止まらなかった。


 誰かが「あ、今の人?」と言う声がした。


 それにも反応しない。


 廊下へ出て、そのまま歩く。


 背中に声が残る。


 嫌だった。


 でも、ここで振り返れば、もっと広がる気がした。


 だから何も言わなかった。


 何も言わないまま、学校を出た。


     *     *


 帰り道、昌志は朝よりもゆっくり歩いた。


 結局、少なくとも二つは来た。


 昼休み、圭佑に聞かれた。


 放課後、助けたことを大げさに話された。


 朝の一つ目は、分からない。


 落ちていたものを拾うことはなかった。


 そもそも、拾う機会を作らなかった。


 だから、黒い本に書かれていた出来事を回避できたのか。


 それとも、本当はどこかで起きるはずだったものを、ただ見ないまま通り過ぎただけなのか。


 昌志には分からなかった。


 ただ、二つ来たということは、三つ全部来る可能性もある。


 以前にも、複数の文章が全部形を変えて起きたことはあった。


 一つを選べば、他が消えるわけではない。


 避ければ完全になくなるとも限らない。


 今回は、二つ選んでしまったことになるのかもしれない。


 いや、選んだつもりはなかった。


 昼は圭佑に聞かれたから答えた。


 放課後は、噂が広がりかけたから黙った。


 どちらも、自分から選んだというより、来たものに対応しただけだ。


 それでも、黒い本の文章に近い出来事は起きた。


 選ぶ。


 選ばされる。


 避ける。


 避けたつもりになる。


 その違いが、昌志にはまだ分からない。


 やっぱり、黒い本のルールは分からない。


 分からないまま、動くしかない。


 それが一番嫌だった。


     *


 家に帰ると、昌志は部屋に上がって黒い本を開いた。


 まだ夜ではない。


 けれど、今日の出来事はもう終わっている。


 六月二十日のページには、すでに文字が浮かんでいた。


━━━━━━━━━━━━━━


――六月二十日。


朝。


僕は、

落ちていたものを拾わなかった。


だから、

自分のものにしたとは思われなかった。


けれど、

拾うはずだった朝を、

走って通り過ぎた。


昼休み。


親友は、

言わなかったことを聞いた。


僕は、

答えられることだけを答えた。


嘘だけは残らなかった。


けれど、

本当のことも残らなかった。


放課後。


助けたことを、

誰かが大げさに話した。


僕は、

何も言わなかった。


話はそれ以上広がらなかった。


けれど、

名前だけは少し残った。


━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、最後まで読んで息を吐いた。


「……最悪では、ないのか」


 朝。


 落ちていたものを拾うことはなかった。


 泥棒扱いもされなかった。


 昼。


 圭佑に完全な嘘はつかなかった。


 放課後。


 噂は大きくは広がらなかった。


 結果だけを見れば、悪くない。


 少なくとも、昨夜に出た文章よりはましだった。


 けれど、気持ちは軽くならなかった。


 拾うはずだった朝を、走って通り過ぎた。


 本当のことも残らなかった。


 名前だけは少し残った。


 黒い本は、そう書いている。


 昌志が避けたもの。


 言えなかったもの。


 消せなかったもの。


 それらが、全部残っている。


 最悪は避けた。


 でも、何もなかったことにはならない。


 それが、黒い本の答えのように見えた。


 昌志は黒い本を閉じた。


 今日は、やり過ごした。


 たぶん。


 けれど、やり過ごしただけだった。


     *    *


 夜。


 夕食を済ませ、風呂に入り、部屋へ戻る。


 昌志はしばらく机の前で黒い本を見ていた。


 開きたくない。


 でも、開かずにはいられない。


 それはもう、ほとんど習慣になっていた。


 時計の針が、十二時に近づく。


 昌志は深く息を吐いてから、黒い本を開いた。


 六月二十一日のページ。


 黒い紙面には、まだ何もない。


 しばらく待つ。


 やがて、紙の奥から文字が滲むように浮かび上がった。


 今度は、二つだった。


━━━━━━━━━━━━━━


――六月二十一日。


駅前で、

彼女の大切なものが、

雨に濡れかける。


気づけば、

守れる。


気づかなければ、

小さな染みが残る。


――六月二十一日。


学校近くの店で、

値札の貼り替えに気づく。


買えば、

少しだけ安く済む。


買わなければ、

何も変わらない。


━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、二つの文章を見つめた。


 場所が出ている。


 一つは駅前。


 もう一つは、学校近くの店。


 昨日よりは、少しだけ分かりやすい。


 けれど、時間は出ていない。


 それでも、一つ目は、ある程度は絞れる気がした。


 駅前で、彼女の大切なものが雨に濡れかける。


 彼女が遥でも、美月でも、学校帰りに駅前を通るなら、たぶん放課後だ。


 少なくとも、朝や昼休みではない。


 普通に考えれば、午後。


 夕方に近い時間だろう。


 ただ、それも昌志が勝手にそう読んでいるだけだった。


 黒い本は、場所だけを出している。


 時間までは書いていない。


 だから、絶対に夕方だとは言い切れない。


 たまたま、場所が出ただけかもしれない。


 黒い本は、分かったような気にさせてくる。


 でも、肝心なところはいつも抜けている。


 昌志は、もう一度文章を見た。


 彼女。


 また、その言葉だった。


 遥なのか。


 美月なのか。


 それとも、別の誰かなのか。


 大切なもの。


 雨に濡れかける。


 小さな染みが残る。


 事故ではない。


 怪我でもない。


 警察沙汰でもない。


 ただ、何かが濡れるだけ。


 そう読める。


 もう一つは、学校近くの店で値札の貼り替えに気づくというものだった。


 買えば、少しだけ安く済む。


 買わなければ、何も変わらない。


 悪い文章ではない。


 むしろ、少しだけ得をする文章に見える。


 けれど、昌志はもう、そういう文章を簡単には拾えなかった。


 ここ数日、似たような小さな得を何度も拾った。そのあとで、六月十九日の夜には、六月二十日の悪い文章ばかりが並んだ。


 それが本当に関係しているのかは分からない。


 分からないが、無関係とも言い切れない。


「……また、こういうやつかよ」


 昌志はつぶやいた。


 少しだけ安く済む。


 何も変わらない。


 それだけなら、拾いたい。


 でも、もう簡単には拾えなかった。


 昌志は、もう一つの文章を見る。


 駅前で、彼女の大切なものが、雨に濡れかける。


 誰かは分からない。


 何が濡れるのかも分からない。


 時間も分からない。


 それでも、自分が得をする文章よりは、放っておきにくかった。


 昌志は黒い本を閉じた。


 六月二十一日。


 駅前。


 雨。


 彼女。


 大切なもの。


 分かっているのは、それだけだった。


 それだけで、また動かなければならないのかもしれない。


「……どうしろっていうんだよ」


 答えはない。


 ただ、黒い本の文章だけが、目の裏に残っていた。

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