第40話 見ないふりをするのは
六月二十一日。
朝、昌志は机の前に座っていた。
黒い本は閉じている。
けれど、昨夜そこに浮かんだ文章は、まだ頭の中に残っていた。
六月二十一日。
駅前で、彼女の大切なものが、雨に濡れかける。
気づけば、守れる。
気づかなければ、小さな染みが残る。
もう一つは、学校近くの店で値札の貼り替えに気づく、というものだった。
買えば、少しだけ安く済む。
買わなければ、何も変わらない。
どちらも、悪い文章には見えなかった。
少なくとも、昨日の三つとは違う。
泥棒扱いされることもない。
圭佑に問い詰められることもない。
噂が広がることもない。
ただ、気になることはあった。
どちらも、たぶん幸運側の文章だ。
一つは、彼女の大切なものを守れるというもの。もう一つは、自分が少し得をするというもの。
同じ幸運でも、向いている方向が違う。
自分が得をするのか。
誰かが困るのを防ぐのか。
そこに違いがあるのかどうか、昌志にはまだ分からない。
でも、昨日、悪い文章を二つ踏んだあとで、今日は場所が出た。
駅前。
学校近くの店。
昨日よりは、少しだけ分かりやすい。
そのことは確かだった。
ただし、時間は書かれていない。
それでも、一つ目はある程度絞れる気がした。
駅前で、彼女の大切なものが雨に濡れかける。
彼女が遥でも、美月でも、学校帰りに駅前を通るなら、たぶん放課後だ。
普通に考えれば、午後。
夕方に近い時間だろう。
もちろん、それも昌志が勝手にそう読んでいるだけだった。
黒い本は、場所だけを出している。
時間までは書いていない。
だから、絶対に夕方だとは言い切れない。
でも、朝から駅前に張り込むわけにもいかない。
学校もある。
学校近くの店の方も、下校時に通れば拾える可能性はある。けれど、昌志はそちらを選ぶ気にはなれなかった。
ここ数日、似たような小さな得を何度も拾った。
そのあとで、六月十九日の夜には、六月二十日の悪い文章ばかりが並んだ。
それが本当に関係しているのかは分からない。
分からないが、無関係とも言い切れない。
値札の貼り替え。
少しだけ安く済む。
そういう文章をまた拾うのは、怖かった。
昌志は黒い本を鞄に入れた。
「……彼女の方だろ」
声に出すと、少しだけ決めた気になった。
彼女が誰なのかは分からない。
遥かもしれない。
美月かもしれない。
それとも、別の誰かなのかもしれない。
けれど、駅前で誰かの大切なものが濡れかけるなら、見ないふりはしたくなかった。
自分が少し得をすることよりは、そちらの方がまだ選びやすかった。
* *
朝から、空は重かった。
雨はまだ降っていない。
けれど、今にも落ちてきそうな色をしている。
昌志はいつも通り学校へ向かった。
昨日のように走る必要はない。
落ちていたものを拾って疑われる文章は、もう終わった。
そう分かっているはずなのに、道端に落ちているものを見ると、少しだけ足が鈍った。
黒い本の文章は終わっても、感覚だけは残る。それが嫌だった。
学校に着いてからも、昌志は何度か窓の外を見た。
空は暗い。
雨は降りそうで、まだ降らない。
授業中も、昼休みも、ずっと気になっていた。
駅前。
彼女。
大切なもの。
雨に濡れかける。
それが遥なのか、美月なのか。
それすら分からない。
ただ、昌志の中では、遥の顔が一番先に浮かんでいた。
財布を探していた時。
図書カードを渡された時。
学校まで来て、昨日の続きを聞こうとしてくれた時。
昌志は何度も、遥の前で何かを言えずに残している。
また見ないふりをするのは、嫌だった。




