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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第41話 彼女の大切なもの

 放課後。


 雨はまだ降っていなかった。


 けれど、空は朝よりさらに暗くなっている。


 昌志は鞄を持ち、教室を出た。学校近くの店へ向かう道は、少しだけ横にそれれば通れる。


 そこで、値札の貼り替えに気づくのかもしれない。


 買えば、少しだけ安く済む。


 買わなければ、何も変わらない。


 何も変わらないなら、買わなくていい。


 そう思うのに、少しだけ惜しいと思う自分がいた。


 今の昌志には、金が必要だった。


 今月分はもう払った。


 けれど、来月も一万円を用意しなければならない。黒い本に、もうスクラッチのような予定は出ないのか。


 そんなことを考えたこともある。


 だから、少しだけ得をする文章は、今でも昌志を迷わせる。


 でも、今日は行かなかった。

 学校近くの店には寄らない。


 駅前へ向かう。


 彼女の大切なものを守る方へ行く。


 それで正しいのかは分からない。


 けれど、そう決めた。


 *     *


 駅前に着いた時、雨が落ち始めた。


 最初は、ぽつりと一粒だけだった。


 次に、二粒。


 それから、急に細かい雨になった。


 駅前の人たちが、慌てて傘を開き始める。


 昌志も鞄から折りたたみ傘を出した。


 駅前。


 雨。


 彼女の大切なもの。


 黒い本の文章に近づいてきている。


 そのことが、嫌でも分かった。


 昌志は人の流れを見た。


 制服姿の生徒。


 傘を持って走る会社員。


 駅へ急ぐ人。


 店先で雨宿りする人。


 美月はいない。


 遥もいない。


 やっぱり読み違えたのかもしれない。


 そう思いかけた時だった。


「……岐阜さん?」


 声がした。


 振り向くと、遥がいた。


 紺色の傘を半分開きかけたまま、こちらを見ている。


 短い髪に、少しだけ雨粒がついていた。


「瑞美」


「こんにちは」


「ああ。こんにちは」


「どうしてここに?」


「いや、ちょっと」


「ちょっと、ですか」


「ちょっと」


 遥は、納得していない顔をした。


 それでも、深く聞いてはこなかった。


「学校帰りですか」


「そう」


「そうですか」


 遥はそう言って、傘を開こうとした。


 その時、腕にかけていた布製の手提げ袋が、傘の骨に引っかかった。


「あ」


 小さな声。


 袋の口が開く。


 中から、薄い文庫本と、手帳が滑り落ちかけた。


 雨に濡れた地面。


 足元には、小さな水たまり。


 昌志は反射的に手を伸ばした。


 文庫本を片手で受け止める。


 もう片方の手で、落ちかけた手帳をつかむ。


 手帳の角が、ぎりぎり水たまりに触れる前だった。


「危なっ」


 昌志は思わず言った。


 遥は目を丸くしていた。


 ほんの少し遅れて、息を吐く。


「……助かりました」


「濡れてないと思う」


 昌志は文庫本と手帳を確認してから、遥に返した。


 表紙には、雨粒が少しついているだけだった。中までは濡れていない。


 遥はまず文庫本を受け取り、それから手帳を両手で受け取った。その仕草が、文庫本よりも丁寧だった。


「それ、大事なやつ?」


 昌志が聞くと、遥は少しだけ迷ってからうなずいた。


「はい」


「予定とか書いてる?」


「予定も書いています」


「他にも?」


「買う本、返す本、気になった言葉、忘れたくないこと」


「几帳面だな」


「よく言われます」


 遥は手帳を鞄の奥へ入れ直した。


 今度は、濡れないようにハンカチで包んでいる。


「でも、助かりました。本当に」


「たまたまだよ」


「たまたまでも、助けてくれたことには変わりません」


 前にも似たようなことを言われた気がした。


 昌志は少しだけ笑った。


「それ、瑞美らしいな」


「そうですか」


「うん」


 雨は少し強くなっていた。


 遥は傘を差し、昌志も遅れて折りたたみ傘を開いた。


 駅前の人の流れが、傘で一気に狭くなる。


 昌志は、遥の手帳のことを思い出していた。


 黒い本とは違う。


 遥の手帳は、未来を決めるためのものではない。


 今日を忘れないためのものだ。


 買う本。


 返す本。


 気になった言葉。


 忘れたくないこと。


 そういうものを書くための、普通の手帳。


 それを濡らさずに済んだことに、昌志は少しだけほっとしていた。


「岐阜さん」


「何?」


「これで、三回目です」


「何が?」


「助けてもらった回数です」


 昌志は、少し返事に詰まった。


 遥は真面目な顔で続けた。


「財布を探してもらった時。図書カードの時。そして今日です」


「図書カードは、助けたってほどじゃないだろ」


「私には助かりました」


「今日だって、手帳を落とさずに済んだだけだし」


「それも助かりました」


「気にしなくていいのに」


「気にします」


 遥はきっぱり言った。


「三回も助けられたら、覚えます」


「数えなくていい」


「数えます」


「何でだよ」


「忘れたくないからです」


 その言葉に、昌志は何も返せなかった。


 遥は鞄の上から、手帳の入っているあたりをそっと押さえた。


「この手帳にも、そういうことを書きます」


「俺のことも?」


 冗談のつもりだった。


 遥はすぐには答えなかった。


 昌志は、少し焦った。


「いや、今のは冗談」


「少しだけ」


「え?」


「少しだけ、書いています」


 遥は真面目な顔で言った。


 昌志は返す言葉に困った。


「何を」


「財布を探すのを手伝ってくれた人。古本屋の話をした人。心配事があるのに、話さなかった人」


「最後だけ変じゃないか」


「事実です」


「まあ、そうだけど」


 昌志は目を逸らした。


 遥はそれ以上、心配事については聞かなかった。


 それがかえって、少しだけ胸に残った。


「瑞美は、何でも書くんだな」


「何でもではありません」


「そうなのか」


「残しておきたいことだけです」


 残しておきたいこと。


 その言葉に、昌志は黒い本を思い出した。


 黒い本は残す。その日を生きた結果を、勝手に文章にする。


 でも、それは遥の手帳とは違う。


 黒い本に残るものは、昌志が残したいと思ったものではない。


 言えなかったこと。


 嘘。


 隠したこと。


 逃げたこと。


 そういうものまで、勝手に残る。


 昌志は、鞄の中の黒い本を意識してしまった。


「また顔色が悪くなりました」


 遥が言った。


「本当に見てるな」


「見えます」


「見えなくていいんだけど」


「無理です」


「無理なのか」


「はい」


 遥は真面目にうなずいた。


 その真面目さに、昌志は少しだけ笑った。


 学校近くの店のことを思い出したのは、その時だった。


 値札の貼り替え。


 買えば、少しだけ安く済む。


 買わなければ、何も変わらない。


 今から戻れば、間に合うのかもしれない。


 けれど、昌志は動かなかった。


 この場を離れたら、遥との会話が終わる。


 それに、今日はもう選んだ気がした。


 彼女の大切なものを守る方を。


 自分が少し得をする方ではなく、目の前の手帳が濡れずに済む方を。


「駅、行くんだろ」


 昌志は言った。


「はい」


「じゃあ、途中まで」


「いいんですか」


「別に。方向、同じだし」


「ありがとうございます」


「だから、礼はもういいって」


「よくありません」


「それ、最近よく聞くな」


「大事なことなので」


 遥はいつものように、真面目な顔で言った。


 昌志は少し笑った。


 二人は駅前の道を少しだけ並んで歩いた。


 傘と傘の距離は近すぎず、遠すぎない。


 会話は多くなかった。


 けれど、不自然な沈黙でもなかった。


 分かれ道で、遥が足を止めた。


「岐阜さん」


「何?」


「ありがとうございました」


「だから、大げさだって」


「大げさではありません」


 遥は、手帳の入った鞄を少し押さえた。


「大切なものだったので」


「なら、濡れなくてよかった」


「はい」


 遥は小さくうなずいた。


「また、お礼をします」


「いや、もういいって」


「よくありません」


「またそれか」


「またそれです」


 遥はいつものように、真面目な顔で言った。


 昌志は少し笑った。


「じゃあ、今度はお礼じゃなくて、本の話でいい」


「本の話ですか」


「その方が気楽だろ」


 遥は少しだけ目を瞬かせた。


 それから、ほんの少し表情を和らげた。


「分かりました」


「じゃあ、また」


「はい。また」


 昌志は駅前を離れ、家へ向かって歩き出した。


 雨はまだ降っている。


 傘に当たる音が、細かく続いていた。


 昌志は気づかなかった。


 分かれ道に残った遥が、しばらくその背中を見ていたことに。


 手帳の入った鞄を押さえたまま、彼女が少しだけ動かずにいたことに。


 昌志は、何も気づかないまま、雨の中を歩いた。


 *   *


 夜。


 昌志は黒い本を開いた。


 六月二十一日のページは、すでに文章へ変わっていた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――六月二十一日。


 駅前で、

 彼女の大切なものが、

 雨に濡れかけた。


 僕は、

 手を伸ばした。


 濡れずに済んだものを、

 彼女は大切そうに受け取った。


 学校近くの店で、

 値札の貼り替えがあったのかもしれない。


 けれど僕は、

 それを見に行かなかった。


 少しだけ安く済むはずだったものは、

 僕の手には残らなかった。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、文章をじっと見た。


 値札の貼り替えがあったのかもしれない。


 けれど僕は、それを見に行かなかった。


「……選ばなかった、ってことか」


 つぶやく。


 二つとも選べる可能性はあった。


 でも、今日は片方だけだった。


 遥の方を選んだ。


 自分が少し得をする方は、選ばなかった。


 それが正しかったのかは分からない。


 けれど、手帳が濡れずに済んだことだけは、悪いことではなかったと思う。


 遥は、三回目だと言った。


 財布を探した時。


 図書カードの時。


 そして今日。


 昌志としては、どれも大げさに数えるようなものではない。


 それでも、遥は数えていた。


 三回も助けられたら、覚えます。


 忘れたくないからです。


 その言葉が、妙に頭に残っている。


 昌志は黒い本を閉じた。


 残したいことだけを書く手帳。


 残したくないことまで勝手に残る黒い本。


 その二つの違いが、どうしても頭から離れなかった。


 *    *


 日付が変わる少し前。


 昌志はもう一度、黒い本を開いた。


 六月二十二日のページは、まだ真っ黒だった。


 午前零時を待つ。


 時計の針が十二時を指した。


 昌志は、黒いページを見つめた。


 けれど、文字は浮かばなかった。


 一分。


 二分。


 三分。


 待っても、何も出てこない。


「……何もなしか」


 それが安全なのか。


 それとも、何も分からないだけなのか。


 昌志には分からない。


 少なくとも、黒い本は何も教えてくれなかった。


 何も書かれていない黒いページは、文字が浮かんでいる時よりも、かえって底が見えないように見えた。


 昌志は黒い本を閉じた。


 明日、何が起きるのかは分からない。


 分からないまま、眠るしかなかった。



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