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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第42話 何も書いていなかったはずだ

 六月二十二日。


 朝、昌志は机の前でノートを開いていた。


 黒い本ではない。


 普通の大学ノートだ。


 そこには、ここ数日で考えたことがいくつも書かれていた。


 幸運を拾うと、不幸が増えるのか。


 不幸を踏むと、次の文章が少し分かりやすくなるのか。


 自分が得をする幸運と、誰かを助ける幸運は同じなのか。


 選ばなかった文章は消えるのか。


 複数出た文章は、一つだけ起きるのか。


 全部起きることもあるのか。


 場所が出る時と出ない時の違いは何か。


 時間が出る時と出ない時の違いは何か。


 書けば書くほど、分からないことが増えていく。


 昌志は、鉛筆の先でノートの端を軽く叩いた。


 どの行にも、同じような言葉がついている。


 かもしれない。


 可能性がある。


 たぶん。


 仮定。


 仮定。


 仮定。


 何度考えても、その文字が消えない。


 黒い本のルールを整理しようとしているのに、確定できるものが少なすぎる。


 分かった気になることはある。


 でも、次の日には外れる。


 当たったように見えても、あとから考えると読み違えている。


 黒い本は嘘をついていないのかもしれない。


 けれど、昌志が正しく読めているとは限らない。


 それが一番厄介だった。


 昌志はノートの横に置いた黒い本を見た。


 昨夜、六月二十二日のページには何も浮かばなかった。


 午前零時を過ぎても。


 一分待っても。


 三分待っても。


 何も出なかった。


 何も書かれていない。


 それは、安全なのか。


 それとも、何も分からないだけなのか。


 昌志には分からなかった。


「……何もないなら、ないで怖いんだよ」


 小さくつぶやく。


 前なら、何も書かれていなければ安心できたのかもしれない。


 けれど今は違う。黒い本に出たことだけが、起きるわけではない。


 黒い本に出なかったことが、起きないとも限らない。


 そう考え始めると、きりがなかった。


 昌志はノートを閉じた。


 考えても、答えは出ない。


 それでも、考えずにはいられなかった。


     *   *  *


 学校へ向かう道でも、昌志は黒い本のことを考えていた。


 昨日、遥の手帳は濡れずに済んだ。


 それは悪いことではなかった。


 学校近くの店で値札の貼り替えがあったのかもしれない。


 でも、昌志は見に行かなかった。


 自分が少し得をする文章は選ばなかった。


 それでよかったのか。


 それとも、選ばなかったことでまた別の何かがずれたのか。


 分からない。


 ただ、昨日の夜には何も出なかった。


 それが少しだけ気になっている。


 悪い文章を二つ踏んだ翌日は、場所が出た。


 幸運らしい文章を一つ選んだ翌日は、何も出なかった。


 そういうことなのか。


 それとも、ただの偶然なのか。


 昌志は頭の中で何度も線を引こうとした。


 でも、線はすぐに崩れる。


 黒い本は、規則があるようでない。


 ないようで、ある。


 考えれば考えるほど、黒いページの奥に沈んでいく気がした。


     *


 授業中も、昌志の集中は続かなかった。


 先生の声は聞こえている。


 黒板の文字も見えている。


 けれど、頭の中では別のことを考えている。


 幸運。

 不幸。


 選択。

 結果。


 空白。


 何も書かれていないページ。


 そのどれもが、ばらばらに浮かんでは消えた。


 昼休み、昌志はもう一度ノートを開いた。


 弁当を食べ終えたあと、机の上で小さくページを広げる。


 圭佑が隣の席からのぞき込んできた。


「何書いてんだ?」


 昌志は反射的にノートを閉じかけた。


「別に」


「別にって反応じゃないだろ」


「考え事」


「受験?」


「まあ、そんな感じ」


 圭佑は少しだけ目を細めた。


「また一人で抱えてるやつか?」


「違う」


「本当か?」


「たぶん」


「だから、そこは本当って言えよ」


 圭佑は呆れたように言った。


 昨日と同じようなやり取りだった。


 昌志は少しだけ笑った。


 けれど、ノートは開かなかった。


 圭佑にはまだ言えない。


 言いたい気持ちがないわけではない。


 でも、どう言えばいいのか分からない。


 未来のようなものが書かれる黒い本を持っている。


 その文章に従ったら、得をしたり、誰かを助けたり、不幸を避けたりできる。


 でも、使い方を間違えると悪いことが増えるかもしれない。


 そんな話を、どう説明すればいいのか。


 説明したところで、信じてもらえるのか。


 信じられたら、それはそれで怖い。


 圭佑は、じっと昌志を見ていた。


「何かあったら言えよ」


「ああ」


「言う気ない返事だな」


「言う気はある」


「いつだよ」


「いつか」


「一番信用できないやつだ」


 圭佑はため息をついた。


 それでも、それ以上は聞いてこなかった。


 その距離感が、ありがたかった。


 同時に、少し苦しかった。


     *       *


 午後の数学の授業で、県内模試の結果が返ってきた。


 教室の空気が少しだけざわついた。


 模試の返却日は、いつもそうだ。


 自信がある者はそわそわする。


 悪かった者は、できるだけ目立たないようにする。


 昌志は、どちらでもないつもりだった。


 いや、どちらでもないと思いたかった。


 でも、心の奥では分かっていた。


 今回の数学は、かなりできていた。


 黒い本に、模試の範囲と、出そうなところが出ていた。


 それを見て、昌志は勉強した。

 何もしなかったわけではない。


 解き方も覚えた。

 問題も解いた。


 だから、全部が不正だとは思わない。


 けれど、普通に勉強しただけかと聞かれれば、違う。


 最初から、どこを見ればいいのか知っていた。


 その差は大きい。


 先生が答案を配りながら、少し機嫌よさそうに言った。


「今回の数学は、全体的には少し難しかったな」


 教室のあちこちから、小さなため息が漏れた。


「県内模試だからな。学校内だけの順位じゃない。県内での位置も出る」


 先生は何枚かの答案を見ながら続けた。


「その中で、かなり健闘した者もいる」


 昌志は嫌な予感がした。


 当たってほしくない予感だった。


「岐阜」


 名前を呼ばれた瞬間、教室の視線が少しだけ集まった。


 昌志は顔を上げる。


「はい」


「今回の数学、かなり良かったぞ」


 先生は答案を昌志の机に置いた。


 赤い丸が多い。

 点数も、昌志が思っていたより高かった。


 いや、思っていた通り高かった。


 それが余計に嫌だった。


「県内でもトップクラスに入る成績だ。この点は素直に誇っていい」


 教室がざわついた。


 県内トップクラス。


 その言葉は、思っていたより重かった。


 昌志は答案を見下ろしたまま、すぐには何も言えなかった。


 先生は続けた。


「特に後半の応用問題がよく解けている。ここは差がついたところだ。岐阜はよく勉強したな」


「あ、はい」


 返事が遅れた。


 自分でも、ぎこちなかったと思う。


 近くの席から圭佑が身を乗り出してきた。


「おい、昌志、すげえじゃねえか」


「大げさだろ」


「いや、大げさじゃねえだろ。県内トップクラスって言われてたぞ」


「たまたまだよ」


「たまたまで取れる点じゃねえだろ。いつ勉強したんだよ」


「普通に」


「普通にでそれなら、普段からやれよ」


 圭佑は素直に笑っていた。


 その顔に悪意はない。


 本当に喜んでくれている。


 それが、少しだけ胸に刺さった。


 先生に褒められる。


 圭佑に喜ばれる。


 普通なら、嬉しいはずだった。


 でも、昌志は素直に喜べなかった。


 黒い本を使った。


 その事実が、答案用紙の赤い丸よりも濃く見えた。


 その時だった。


「先生」


 教室の後ろの方から、硬い声がした。


 昌志は顔を上げた。


 声を出したのは、同じクラスの男子だった。


 たしか、数学が得意で、いつも模試や定期テストの順位を気にしている生徒だ。


 普段から自信がある。

 先生にもよく質問している。


 その分、数学で自分より上に行かれることに敏感なタイプだった。


「何だ?」


 先生が振り向く。


 男子生徒は、昌志の方を見ていた。


 その目は、明らかに納得していなかった。


「おかしくないですか?」


 教室のざわつきが止まった。


 先生が眉をひそめる。


「何がだ?」


「岐阜がそんなに数学できるなんて、聞いたことありません」


 空気が少し硬くなった。


 昌志は、手の中の答案を握りかけた。


「今回だけ急に県内トップクラスなんて、変です」


「おい」


 圭佑が低い声を出した。


 けれど、男子生徒は止まらなかった。


「俺より上っていうのも納得できません」


 その言葉に、何人かが小さく息をのんだ。


 先生の顔が厳しくなる。


「言い方に気をつけろ」


「でも、おかしいです」


 男子生徒は、はっきり言った。


「たぶん、カンニングか何かだと思います」


 教室の空気が、音もなく変わった。


 圭佑が椅子を鳴らして立ちかける。


「お前――」


「圭佑」


 昌志は思わず止めた。


 止めながら、自分の声が少し震えていることに気づいた。


 男子生徒は、まだ昌志を見ていた。


「答案、見せてもらっていいですか」


 誰もすぐには何も言わなかった。


 先生も、クラスメイトも、圭佑も。


 昌志は、手元の答案を見下ろした。


 赤い丸が並んでいる。


 県内トップクラス。


 よく勉強したな。


 すげえじゃねえか。


 カンニングか何かだと思います。


 言葉が、ばらばらに頭の中でぶつかる。


 黒い本には、何も書いていなかったはずだった。


 六月二十二日のページには、何も浮かばなかったはずだった。


 それなのに、教室の空気は、音もなく悪い方へ傾いていった。

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