第43話 仮定ばかりのノート
その時だった。
「先生」
教室の後ろの方から、硬い声がした。
昌志は顔を上げた。
声を出したのは、横内拓真だった。
同じクラスの男子で、数学が得意な生徒だ。
普段から順位を気にしている。定期テストの後も、模試の後も、誰が何点だったのかをよく聞いている。
先生にもよく質問している。
その分、数学で自分より上に行かれることに敏感なタイプだった。
「何だ、横内」
先生が振り向く。
横内は、昌志の方を見ていた。
その目は、明らかに納得していなかった。
「おかしくないですか?」
教室のざわつきが止まった。
先生が眉をひそめる。
「何がだ?」
「岐阜がそんなに数学できるなんて、聞いたことありません」
空気が少し硬くなった。
昌志は、手の中の答案を握りかけた。
「今回だけ急に県内トップクラスなんて、変です」
「おい」
圭佑が低い声を出した。
けれど、横内は止まらなかった。
「俺より上っていうのも納得できません」
その言葉に、何人かが小さく息をのんだ。
先生の顔が厳しくなる。
「言い方に気をつけろ」
「でも、おかしいです」
横内は、はっきり言った。
「たぶん、カンニングか何かだと思います」
教室の空気が、音もなく変わった。
圭佑が椅子を鳴らして立ちかける。
「お前――」
「圭佑」
昌志は思わず止めた。
止めながら、自分の声が少し震えていることに気づいた。
先生が、低い声で言った。
「横内、カンニングだと言う根拠はあるのか?」
横内は口を開きかけた。
けれど、すぐには何も言えなかった。
先生はさらに続ける。
「岐阜がカンニングをしたという証拠だ。何かあるのか?」
「それは……」
「今回の模試は、席も離していた。机の上に出せるものも決めていた。参考書やノートを見ながら解けるような状況ではない」
先生の声は静かだった。
その静かさが、逆に教室を重くした。
「根拠もなく、クラスメイトを不正扱いしたのか」
横内は黙った。
教室のどこかから、小さな声が漏れた。
「根拠ないのに疑ったのかよ」
「それはさすがに……」
「自分より上だったからってこと?」
横内の顔が赤くなった。
「うるさい」
横内は吐き捨てるように言った。
「おかしいものはおかしいから言ったんだ」
「横内」
先生の声が強くなった。
「理由もなくクラスメイトを疑うのは問題だぞ。まして、カンニングという言葉は軽く使っていいものじゃない」
横内は歯を食いしばっていた。
けれど、先生の視線から逃げられなかった。
しばらくして、横内は小さく頭を下げた。
「……失言でした。申し訳ありませんでした」
先生はすぐにはうなずかなかった。
「謝る相手が違うんじゃないか?」
横内の肩がわずかに動いた。
それから、ゆっくり昌志の方を見る。
「……岐阜」
「ああ」
「悪かった」
横内の声は硬かった。
謝罪というより、言わされている言葉に近かった。
それでも、教室中が見ている中で、それ以上言わせることもできなかった。
昌志は答案を机の上に置いた。
「別に、気にしてない」
本当に気にしていないのかは分からない。
でも、そう言うしかなかった。
「自分でも、たまたま取れただけだと思ってるし」
横内は何も答えなかった。
圭佑が近くで小さくつぶやいた。
「また、たまたまかよ」
昌志は聞こえないふりをした。
先生は軽く咳払いをした。
「いいか。点数に納得できないなら、まず自分の答案を見直せ。他人を疑うのは、そのあとでも遅くない。いや、根拠がないなら、そのあとでも疑うな」
教室は静まり返っていた。
横内はそれ以上何も言わなかった。
数学の授業は再開された。
けれど、昌志の頭には、もう問題の解説は入ってこなかった。
黒い本には、何も書いていなかったはずだった。
六月二十二日のページには、何も浮かばなかったはずだった。
それなのに、教室の空気は、音もなく悪い方へ傾いていった。
* *
家に帰ってから、昌志は母に模試の結果を見せた。
見せないという選択肢もあった。
けれど、学校で先生にあれだけ言われた以上、いずれ何かの形で伝わるかもしれない。
それなら、自分から見せた方がいい。
そう思った。
母は答案と成績表を見た瞬間、目を丸くした。
「え、昌志、これ本当に?」
「本当」
「県内でトップクラスって、すごいじゃない」
「たまたまだよ」
「たまたまでこんな点、取れないでしょう」
母は本当に嬉しそうだった。
何度も成績表を見直している。
「ちゃんと頑張ってたのね」
「まあ、少しは」
「少しでこれなら、もっと頑張ったらどうなるの」
「それは分からない」
「もう、そういうところだけ冷めてるんだから」
母は笑った。
その笑顔を見て、昌志は少しだけ胸が痛んだ。
喜んでくれること自体は、嬉しい。
でも、素直には受け取れなかった。
黒い本を見た。
出るところを知っていた。
そのうえで勉強した。
だから、完全な嘘ではない。
けれど、母が思っている努力とも違う。
昌志にとって重要なのは、点数ではなかった。
県内トップクラスと言われたことでもない。横内に疑われたことでもない。
黒い本に何も書かれていなかった日に、ああいうことが起きた。
その事実だけが、頭の中に残っていた。
* *
夜。
昌志は部屋でノートを開いた。
昼間よりも、文字の量は増えている。
けれど、結局、確定できることは少なかった。
それでも、いくつかは前よりはっきりした気がする。
一つ。
大きな出来事を越えたあと、しばらく良い文章が出やすくなることがある。
美月を助けたあと、小さな得や悪くない文章が続いた。
遥の手帳を守ったあとも、少なくとも悪い文章ばかりにはならなかった。
たぶん、誰かを助けることは、黒い本の針を少しだけ良い方へ戻すのかも知れない。
ただし、これも確定ではない。
昌志はその横に、小さく「仮定」と書いた。
二つ。
自分が得をする幸運を拾い続けると、あとで悪い文章が増える可能性がある。
六月十九日の夜に、三つとも悪い文章が出た。
その前に、昌志は小さな得をいくつも拾っていた。
関係があるように見える。
でも、本当にそれが原因かは分からない。
これにも「仮定」と書くしかなかった。
三つ。
黒い本の結果文章は、前夜に文章が浮かんでいた日のあとにだけ完成する。
前夜に何も浮かばなかった日は、日中に何かが起きても、その日の文章は完成しない。
今日がそうだった。
模試の結果が返ってきた。
横内にカンニングを疑われた。
母に成績を見せた。
けれど、黒い本は動かなかった。
出来事がなかったわけではない。
それでも、文章にはならなかった。
これは、かなり確かだと思う。
昌志はその横に「ほぼ確定」と書いた。
四つ。
黒い本に何も出ない日は、安全とは限らない。
六月二十二日。
何も書かれていなかった。
それでも、模試の結果で騒ぎになった。
横内にカンニングを疑われた。
すぐに収まったとはいえ、何も起きなかったわけではない。
これは、今日分かったことだった。
何も書かれていない。
だから安全。
その考えは、捨てた方がいい。
昌志はそこだけ、強く線を引いた。
けれど、それ以外はまだ曖昧だった。
自分が得をする幸運と、誰かを助ける幸運の違い。
悪い文章を避けた時の扱い。
複数の文章が出た時、どれが起きるのか。
場所や時間がどこまで信用できるのか。
何度考えても、ノートは仮定ばかりになっていく。
仮定。
仮定。
仮定。
昌志は鉛筆を置いた。
「……少しだけ、か」
分かったことは、少しだけだった。
分からないことの方が、まだずっと多い。
それでも、何も分からないよりはましだと思いたかった。
*
日付が変わる少し前。
昌志は黒い本を開いた。
六月二十三日のページ。
まだ、何もない。
時計の針が十二時に近づく。
昌志は、息をひそめるようにページを見つめていた。
昨日は何も浮かばなかった。
今日は、どうなのか。
午前零時。
黒いページの奥から、文字が滲むように浮かび上がった。
今度は、二つだった。
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――六月二十三日、昼休み。
校舎裏で、
昨日の疑いが、
まだ消えていないことを知る。
聞かなければ、
小さな誤解が残る。
聞いても、
気分は晴れない。
――六月二十三日、放課後。
駅前の商店街で、
親友は寄り道に誘う。
ついていけば、
探していたものに少し近づく。
断れば、
何も変わらない。
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昌志は、二つの文章を見つめた。
今度は、時間がある。
昼休み。
放課後。
場所もある。
校舎裏。
駅前の商店街。
昨日、何も出なかったことを考えると、急に親切になったようにすら見える。
けれど、昌志はもう、そのまま信じる気にはなれなかった。
場所が出ていても、そこだけとは限らない。
駅前の商店街と書かれていても、商店街の中のどこなのかまでは分からない。
校舎裏と書かれていても、誰が何を言っているのかは分からない。
時間が出ていても、何分なのかまでは分からない。
分かったように見える。
でも、分からないところは残っている。
一つ目は、悪い文章だった。
昨日の疑い。
横内のことだろう。
まだ消えていない。
聞かなければ、小さな誤解が残る。
聞いても、気分は晴れない。
どちらにしても、嫌な内容だった。
二つ目は、悪いものには見えない。
親友。
たぶん圭佑だ。
寄り道に誘われる。
ついていけば、探していたものに少し近づく。
断れば、何も変わらない。
探していたもの。
それが何なのかは分からない。
黒い本のルールなのか。
金なのか。
別の何かなのか。
昌志はページを見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
悪いものと、良さそうなもの。
時間と場所はある。
でも、まだ足りない。
黒い本は、今日も肝心なところを教えてくれなかった。




