第44話 疑いの残り火
朝、目が覚めて、最初に思い出したのは黒い本のことだった。
枕元に置いたスマホよりも先に、机の上の黒い表紙が目に入る。
昨日の夜、午前零時を過ぎたあとに浮かんだ文章。それを見た時の感覚が、まだ胸の奥に残っていた。
昨日は、黒い本に何も出ていなかった。
それなのに、県内模試の数学の結果が返ってきて、横内にカンニングを疑われた。
先生は横内を叱った。
横内は謝った。
それで終わったはずだった。
終わったはずなのに、黒い本は、次の日の昼休みについて、こんな文章を出した。
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――六月二十三日、昼休み。
校舎裏で、
昨日の疑いが、
まだ消えていないことを知る。
聞かなければ、
小さな誤解が残る。
聞いても、
気分は晴れない。
――六月二十三日、放課後。
駅前の商店街で、
親友は寄り道に誘う。
ついていけば、
探していたものに少し近づく。
断れば、
何も変わらない。
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何度読んでも、嫌な文章だった。
昼休みの方は、どう見ても昨日のことだ。
昨日の疑い。
それは横内が言った、カンニングという言葉以外に考えにくい。
まだ消えていない。
つまり、先生に叱られても、横内が謝っても、完全には終わっていないということになる。
聞かなければ、小さな誤解が残る。
聞いても、気分は晴れない。
どっちにしても、いいことではない。
ただ、分からないことが多すぎた。
どうして昨日のページには何も出なかったのか。
何も出なかったのに、どうしてあんなことが起きたのか。
昨日の出来事が今日まで続いているから、黒い本は今日の文章として出したのか。
それとも、昨日の時点ではまだ、今日の昼休みまで含めないと文章にならなかったのか。
考えても、答えは出ない。
「……分かるわけないだろ」
小さく呟いて、僕は布団から起き上がった。
机の前に座り、ノートを開く。
昨日の夜、書きかけたルールの整理がそのまま残っていた。
どれも、仮定ばかりだった。
黒い本は嘘を書いていない?
ただし、僕が読み間違える?
人物名が出ない時は、対象を間違える?
場所が出ても、そこだけとは限らない?
時間が出ても、細かいところまでは分からない?
特別な選択の後は、良い文章が出やすい?
それとも、ただの偶然?
ノートの文字を見ていると、ますます気分が沈んだ。
自分で書いたものなのに、どこにも確信がない。
仮定。
たぶん。
かもしれない。
そう見えるだけ。
そんな言葉ばかりだった。
黒い本の方が、よほど断定的だ。
僕は今日、昼休みに校舎裏で、昨日の疑いがまだ消えていないことを知る。
聞かなければ、小さな誤解が残る。
聞いても、気分は晴れない。
もう、起きることが決まっているみたいだった。
「昌志、起きてる?」
廊下から母さんの声がした。
「起きてる」
「朝ご飯できてるから」
「分かった」
返事をして、僕はノートを閉じた。
黒い本も閉じる。
閉じても、文章は頭の中から消えなかった。
朝食の席で、母さんは昨日の模試の話をした。
「昨日の数学、本当にすごかったわね」
「……うん」
「お父さんにも言っておいたから。びっくりしてたわよ」
「そう」
「ちゃんと頑張ってたのね」
箸を持つ手が、少し止まった。
頑張っていた。
そう言われるのは、別に嫌ではない。
実際、まったく勉強していなかったわけではない。
だけど、あの点数は、黒い本がなければ取れなかった。
黒い本が出した範囲。
黒い本が教えたような形になった問題。
それを見ていたから、僕は点を取れた。
母さんは喜んでいる。
先生も、昨日は褒めてくれた。
でも横内は、納得しなかった。
そしてたぶん、横内だけではない。
「どうしたの?」
「いや、別に」
「昨日から少し元気ないわよ。成績良かったのに」
「急に良すぎたから、ちょっと落ち着かないだけ」
嘘ではなかった。
嘘ではないけれど、本当のことでもない。
最近、そういう返事ばかりしている気がする。
完全な嘘ではない。
でも、本当の中心だけは避ける。
黒い本のことを言えない以上、どうしてもそうなる。
母さんは少しだけ心配そうな顔をしたけれど、それ以上は聞いてこなかった。
僕は朝食を終え、制服に着替えた。
鞄に教科書を入れる。
ノートも入れる。
黒い本は、少し迷ってから、いつも通り鞄の奥へ入れた。
持っていかないという選択肢は、もうなかった。持っていなければ、何かが起きた時に確認できない。
持っていれば、ずっと気になる。
どちらが正しいのかは分からない。
ただ、今の僕は、黒い本を置いて家を出ることができなかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
玄関を出る。
空は薄く曇っていた。
雨は降っていない。
昨日の雨の匂いが、まだ少しだけ残っている気がした。
駅前で、瑞美の手帳が雨に濡れかけたことを思い出す。
瑞美は、手帳を大事に抱えていた。
今日を忘れないために書くもの。
そう言っていた。
黒い本とは、まるで逆だった。
瑞美の手帳は、過ぎた一日を忘れないために書く。
黒い本は、まだ来ていない一日を、もう終わったみたいに書く。
昨日の夜、ノートにそこまで書いて、僕は手を止めた。
考えれば考えるほど、黒い本が何なのか分からなくなる。
日記ではない。
予定表でもない。
予言と言えば近いのかもしれない。
けれど、黒い本の文章は、未来を教えるだけのものにも見えない。
僕に何かを選ばせているようにも見える。
でも、本当にそうなのかは分からない。
僕が勝手に、そう思っているだけかもしれない。
学校に着くまでの道で、僕はなるべく下を見ないようにした。
もう落とし物の文章は今日のものではない。
それでも、足元に何かが落ちているのを見ると、体が勝手に反応しそうになる。
拾った方がいいのか。
拾わない方がいいのか。
そもそも、それが黒い本と関係あるのか。
関係ないのか。
分からないことばかりだった。
道端に落ちているビニール袋が風で動いた。
一瞬、何かの落とし物に見えて、足が止まりかける。
僕はそのまま通り過ぎた。
見なかったことにする。
それもまた、嫌な行動だった。
学校に着くと、教室はいつも通りざわついていた。
昨日の模試の話をしている生徒もいた。
県内順位。
偏差値。
数学。
そういう単語が耳に入るたびに、肩のあたりが少し硬くなった。
自分の席に座る。
鞄を机の横にかける。
圭佑はまだ来ていなかった。
横内は、もう席にいた。
教科書を開いている。
いつも通り、背筋を伸ばして、真面目な顔をしていた。
昨日、先生に叱られて謝った時の横内の顔を思い出す。
納得していない顔だった。
謝罪の言葉は出た。
でも、気持ちがついてきていない。
あれは、そういう謝り方だった。
僕は横内の方を見ないようにして、机の中から教科書を出した。
朝のホームルームが始まるまでの間、何人かが昨日の模試の話をしていた。
「数学、平均どれくらいだったんだろ」
「今回むずくなかった?」
「横内でも満点じゃなかったんだろ?」
「らしいな」
その会話のあと、一瞬だけ空気が止まった気がした。
誰かが僕の方を見たのかもしれない。
見ていないのかもしれない。
僕は顔を上げなかった。
黒い本の文章が頭の中で繰り返される。
昨日の疑いが、まだ消えていないことを知る。
知らなくていいなら、知りたくなかった。
けれど、聞かなければ、小さな誤解が残る。
小さな誤解。その小ささが、かえって嫌だった。
大きな誤解なら、先生が止めるかもしれない。はっきりした噂なら、否定することもできるかもしれない。
でも、小さな誤解は、たぶん形にならない。
誰かの中に、少しだけ残る。
あいつ、やっぱりおかしいよな。
あの点数、変だよな。
そのくらいの薄い疑いが、消えずに残る。
そしていつか、別の何かとつながる。
そう思うと、胃のあたりが重くなった。
午前の授業は、あまり頭に入らなかった。
黒板の文字は見えている。
先生の声も聞こえている。
でも、意識は何度も昼休みに向かった。
校舎裏。
昨日の疑い。
聞かなければ残る誤解。
聞いても晴れない気分。
昼休みが近づくほど、黒い本の文章が具体的な重さを持ち始める。
四時間目が終わるチャイムが鳴った。
教室の空気が一気に緩む。
弁当を出す生徒。
購買へ走る生徒。
友達の席へ移動する生徒。
いつもの昼休みだった。
圭佑が僕の席に来た。
「飯、どうする?」
「教室で食べる」
「そっか」
圭佑は僕の顔を見て、少し眉を寄せた。
「まだ昨日のこと気にしてんのか?」
「別に」
「別にって顔じゃないけどな」
「……大丈夫だよ」
大丈夫。
また、その言葉を使った。
圭佑は、すぐには何も言わなかった。
ただ、僕の顔を見ていた。
こいつは、最近よく見てくる。
前からそうだったのかもしれない。
僕が気づいていなかっただけかもしれない。
「何かあったら言えよ」
「分かってる」
「本当に分かってるやつの返事じゃねえな、それ」
「うるさい」
「はいはい」
圭佑は軽く笑って、自分の席へ戻っていった。
その背中を見て、少しだけ胸が痛んだ。
圭佑は、たぶん本気で心配している。
妹の美月を助けたから、という理由もあるのだろう。
でも、それだけではない気もする。
親友だから。
そう言えば簡単なのに、僕はその親友に何も話せない。
黒い本のことも。
昨日の夜、ノートに書いた仮定だらけのルールも。
何一つ話せない。
昼食を食べ終わっても、僕はしばらく席を立てなかった。
行かなければいい。
校舎裏になんて行かなければいい。
そうすれば、少なくとも嫌な話を聞かずに済む。
けれど、黒い本は書いていた。
聞かなければ、小さな誤解が残る。
つまり、僕が行かなければ、誤解は残る。
聞いても、気分は晴れない。
つまり、行けば嫌な気分になる。
どちらを選んでも、いいことはない。
それでも、選ばなければならない。
僕は椅子から立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
圭佑が声をかけてきた。
「ちょっと」
「トイレ?」
「そんな感じ」
「そんな感じって何だよ」
圭佑は笑ったが、立ち上がりはしなかった。
僕は教室を出た。
廊下は昼休みのざわめきで満ちている。
購買から戻ってくる生徒。
階段に座って話す生徒。
窓際で弁当を食べている生徒。
その中を抜けて、僕は校舎裏へ向かった。
校舎裏は、普段から人が多い場所ではない。
完全に誰もいないわけではないが、教室や中庭ほど明るい場所でもない。
自販機の近くに何人かいることはある。
部室棟へ向かう生徒が通ることもある。
でも、昼休みにわざわざ長くいる場所ではない。
だからこそ、話し声は目立った。
角を曲がる少し手前で、僕は足を止めた。
「でも、やっぱり変じゃね?」
その声が聞こえた瞬間、背中が冷えた。
横内の声ではない。
別の男子の声だった。
「昨日のやつ?」
「そう。岐阜の数学」
自分の名前が出た。
僕は壁の手前で止まったまま、動けなくなった。
「先生はああ言ってたけどさ、急にあんな点取れるもんかね」
「でも、カンニングは無理じゃない? 県内模試だろ」
「いや、そうだけど。なんかあるんじゃねえのって話」
「なんかって何だよ」
「知らん。でもさ、横内が言いたくなるのも分かるっていうか」
横内の名前が出た。
昨日の疑いは、横内だけのものではなかった。横内が言ったから、周りもそう思ったのか。
周りも少し思っていたから、横内の言葉に乗ったのか。
そこまでは分からない。
でも、疑いは残っていた。
黒い本の通りだった。
「横内、昨日めっちゃ怒られてたじゃん」
「まあな。根拠なしで言うのはまずいだろ」
「でも、納得してなさそうだったよな」
「そりゃそうだろ。あいつ、数学だけは本気だし」
「岐阜って、そんな数学できるイメージなかったしな」
その言葉に、胸の奥が詰まった。
できるイメージがなかった。
それは、たぶん事実だ。
僕は数学が得意だと周りに言ったことはない。
横内みたいに、いつも上位を取っていたわけでもない。だから、急に高い点を取れば、変だと思われる。
そこまでは分かる。
分かるからこそ、余計に嫌だった。
僕は黒い本のおかげで点を取った。
完全に自分の力だけではない。
だから、疑われた時に、胸を張って否定できない。
カンニングはしていない。
それは本当だ。
でも、何もしていないわけでもない。
黒い本を見た。
それだけで、僕は普通ではない場所に立っている。
「本人に聞けば?」
「聞けるかよ。昨日の今日で」
「横内がまた聞いたら、先生に二回目怒られるだろ」
「だな」
小さく笑う声がした。
悪意がある笑いではなかった。
たぶん、ただの雑談だ。
でも、それが一番嫌だった。
僕のことは、深刻な問題として扱われていない。
ただの話題。
昨日ちょっと揉めたこと。
急に数学ができたやつ。
横内が疑ったやつ。
その程度の軽さで、僕の名前が出ている。
僕は壁の影で拳を握った。
このまま戻れば、黒い本の通り、聞かなかったことにはできない。でも、聞いただけで終われば、小さな誤解は残るのかもしれない。
聞かなければ残る。
聞いても晴れない。
だったら、聞いた上で、何か言うしかないのか。
足が重かった。
出て行きたくなかった。
でも、ここで戻ったら、たぶん僕はもっと嫌な気分になる。
僕は角を曲がった。
話していた男子が二人、こちらを見た。
一人は同じクラスの生徒だった。
もう一人は隣のクラスだったと思う。
名前は、すぐには出てこない。
「あ」
同じクラスの男子が、気まずそうな顔をした。僕はできるだけ普通の声を出した。
「今の話、聞こえた」
「……ああ、悪い」
「別に、謝れって言いに来たわけじゃない」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
心臓は速い。
手のひらは汗ばんでいる。
でも、声だけは何とか保てた。
「昨日のこと、まだ気になってるやついるのか?」
二人は顔を見合わせた。
先に口を開いたのは、同じクラスの男子だった。
「いや、いるっていうか……昨日の話がちょっと残ってるだけで」
「残ってるって?」
「だから、その……横内がああ言っただろ。で、先生に怒られて、謝ったけど」
「うん」
「でも、急にあの点数だったから、びっくりしたやつはいると思う」
言い方は選んでいた。
責める感じではない。
でも、否定もしない。
僕は隣のクラスの男子を見た。
そいつは目をそらしながら言った。
「カンニングしたとか、本気で言ってるわけじゃないんだよ。ただ、すげえなっていうか、どうしたんだろうなっていうか」
「どうしたんだろう、か」
「悪い。言い方が悪かった」
「いや」
僕は首を振った。
怒る資格があるのかどうかも、分からなかった。
カンニングはしていない。
でも、黒い本を見た。
問題の傾向を、普通ではない方法で知った。
それを説明できない以上、僕はただ「違う」と言うしかない。
「カンニングはしてない」
短く言った。
二人とも、すぐに頷いた。
「それは分かってる」
「うん。悪かった」
「横内にも、昨日先生が言ってたしな」
分かっている。
そう言われても、気分は晴れなかった。
黒い本の文章の通りだった。
「ただ」
同じクラスの男子が、少し言いにくそうに続けた。
「横内は、まだ引っかかってると思う」
「……そう」
「今日も朝、ちょっとそんな感じだった。別に、岐阜に何か言うとかじゃないと思うけど」
「分かった」
やっぱり、横内本人も納得していない。
先生に叱られたから謝った。
でも、疑いは消えていない。
僕はそれを知った。
知ってしまった。
「話してたの、悪かった」
「いや。聞けてよかった」
それも嘘ではなかった。
聞けてよかった。
誤解が残っていることを知れた。
ただ、気分は最悪だった。
僕はそれ以上何も言わず、校舎裏を離れた。
廊下に戻ると、昼休みのざわめきがやけに明るく聞こえた。
誰かが笑っている。
誰かが弁当のおかずを交換している。
誰かが午後の小テストの話をしている。
その中で、僕だけが校舎裏の空気を引きずっていた。
教室に戻ると、圭佑がすぐにこちらを見た。
「遅かったな」
「そうか?」
「トイレにしてはな」
「……ちょっと歩いてた」
圭佑は目を細めた。
何か聞きたそうだった。
でも、すぐには聞いてこなかった。
僕は席に座り、机の中から午後の教科書を出した。
黒い本の文章を思い出す。
聞かなければ、小さな誤解が残る。
聞いても、気分は晴れない。
本当に、その通りだった。
誤解は、完全には消えていなかった。
聞いたことで、それを知った。
でも、何かが解決した気はしない。
横内が納得していないことも、周りが少し変だと思っていることも、分かってしまっただけだ。
僕は机の下で、鞄の奥にある黒い本の感触を探した。
触れなくても、そこにあることは分かる。
今日の文章は、まだ半分残っている。
昼休みは終わった。
でも、放課後がまだ来ていない。
駅前の商店街で、親友は寄り道に誘う。
ついていけば、探していたものに少し近づく。
断れば、何も変わらない。
探していたもの。
それが何なのか、まだ分からない。
黒い本の正体。
黒い本の読み方。
昨日、ノートに書いた仮定のどれか。
それとも、まったく別の何か。
分からないまま、午後のチャイムが鳴った。
僕は顔を上げた。
気分は晴れない。
それでも、次の時間は始まってしまう。
黒い本が書いた一日は、まだ終わっていなかった。




