第45話 親友は寄り道に誘う
午後の授業は、ひどく長く感じた。
黒板の文字は見えている。
先生の声も聞こえている。
けれど昌志の頭の中には、昼休みに聞いた言葉が何度も戻ってきた。
やっぱり変じゃね。
岐阜の数学。
横内が言いたくなるのも分かる。
深刻な悪口ではなかった。
はっきりと責められたわけでもなかった。
だからこそ、余計に嫌だった。
自分のいないところで、自分の名前が軽く出る。
自分の点数が話題になる。
自分のことを、少しだけ疑う。
その小ささが、嫌だった。
大きな疑いなら、まだ否定できる。
でも、小さな疑いは、どこに残っているのか分からない。
誰がどう思っているのかも分からない。
黒い本に書かれていた通りだった。
聞かなければ、小さな誤解が残る。
聞いても、気分は晴れない。
本当に、気分は晴れなかった。
放課後になって、教室の空気が一気に緩んだ。
部活へ行く生徒。
友達とどこかへ寄る相談をする生徒。
鞄を肩にかけて、すぐに帰っていく生徒。
昌志も帰る準備をした。
今日はもう、余計なことを考えたくなかった。
けれど、鞄の奥に入っている黒い本のことを思い出す。
今日の文章は、まだ半分残っている。
駅前の商店街で、親友は寄り道に誘う。
ついていけば、探していたものに少し近づく。
断れば、何も変わらない。
探していたもの。
結局、それが何なのかは分からない。
黒い本の正体なのか。
黒い本の読み方なのか。
昨日、ノートに書いた仮定のどれかなのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
分からない。
分からないまま鞄を持ち上げた時、隣から声がした。
「昌志」
圭佑だった。
いつもの調子より、少しだけ声が明るい。
「何」
「今日、暇だろ?」
「暇じゃない」
「嘘つけ。今、帰る準備してたじゃねえか」
「帰るのも予定だろ」
「予定って言うほどの予定じゃねえだろ」
圭佑は勝手にそう決めると、昌志の肩に手を置いた。
「駅前行くぞ」
「何で」
「気晴らし」
「誰の」
「お前の」
即答された。
昌志は少しだけ言葉に詰まった。
「別に、気晴らしとかいらない」
「いる顔してる」
「してない」
「してる。昨日からずっと、梅干しみたいな顔してる」
「してない」
「してるって」
圭佑は笑った。
軽い言い方だった。
でも、目はあまり笑っていなかった。
「昨日のこと、まだ気にしてんだろ」
「……別に」
「はい、出た。別に」
「うるさい」
「うるさくて結構。こういう時にうるさいのが親友の仕事だからな」
親友。
その言葉が、少し胸に引っかかった。
圭佑は、何も知らない。
黒い本のことも。
昼休みに昌志が何を聞いたのかも。
昌志が今、何を怖がっているのかも。
何も知らない。
それでも、昌志の顔を見て、駅前へ行こうと言っている。
「今日は俺の奢り」
「何を?」
「適当に。飲み物とか、軽いやつ」
「いらない」
「いらなくても来い。美月に頼まれた買い物もあるし、ついでだ」
「それなら一人で行けばいいだろ」
「一人で行くより、二人で行った方が面白いだろ」
「面白くない」
「行く前から決めるな」
圭佑は、昌志が断ることをあまり考えていない顔をしていた。
強引ではある。
でも、本当に嫌なら引くだろうという安心感もあった。
昌志は鞄の奥を意識した。
黒い本の文章。
駅前の商店街で、親友は寄り道に誘う。
今、この状況以外に考えにくい。
断れば、何も変わらない。
何も変わらない。
それは、いいことなのか。
悪いことなのか。
ついていけば、探していたものに少し近づく。
探していたものが何か分からない以上、行く意味があるのかどうかも分からない。
でも、黒い本はそう書いた。
そして昌志は、何も変わらないままでいるのも嫌だった。
「……少しだけなら」
「よし」
圭佑は満足そうに頷いた。
「じゃあ行くぞ」
「早いな」
「お前、考える時間をやると逃げるだろ」
「逃げない」
「逃げる顔してる」
「どんな顔だよ」
「今の顔」
そう言って、圭佑は先に教室を出た。
昌志は小さくため息をついて、その後を追った。
駅前の商店街は、学校帰りの生徒や買い物客でほどほどに賑わっていた。
大きなショッピングモールほど明るくはない。
でも、古い店と新しい店が混ざっていて、歩いているだけなら退屈しない場所だった。
総菜屋の匂い。
文房具屋の店先に並んだノート。
ゲームショップのポスター。
古本も扱っているリサイクルショップの棚。
どれも見慣れているはずなのに、今日は少し違って見えた。
黒い本に書かれた場所。
駅前の商店街。
それが、この道全体を指すのか。
どこか一つの店を指すのか。
店先なのか、裏道なのか。
それすら、今の昌志には分からない。
「何きょろきょろしてんだ」
圭佑が横から言った。
「別に」
「また別にか」
「見るくらいいいだろ」
「いいけど。何か探してんのか?」
探している。
そう言いかけて、言えなかった。
昌志が探しているものは、昌志にも分からない。
「何でもない」
「ふーん」
圭佑はそれ以上追及しなかった。
その代わり、商店街の奥を指さした。
「とりあえず、向こう行こうぜ。美月に頼まれたやつ買う」
「何を頼まれたんだ?」
「ペンと、付箋と、変なシール」
「変なシール?」
「知らん。本人はかわいいって言ってた」
「なら、かわいいんだろ」
「俺には分からん」
圭佑は肩をすくめた。
そのまま二人で文房具屋の方へ歩く。
店の前には、手帳やノートが並んでいた。
六月なのに、予定帳の棚にはまだいくつか商品が残っている。
日記帳。
スケジュール帳。
家計簿。
自分史ノート。
そんな文字が目に入った。
自分史。
その言葉を見た瞬間、昌志は少しだけ足を止めた。
自分のことを書くノート。
過ぎたことを書くもの。
これからの予定を書くもの。
忘れないために書くもの。
黒い本は、そのどれにも似ているようで、どれとも違う。
瑞美の手帳は、今日を忘れないためのものだった。
予定帳は、これからの予定を書くものだ。
日記は、終わったことを書くものだ。
でも黒い本は、まだ起きていないことを、まるで終わった後みたいに書く。
そして、全部を書くわけではない。
出る日もあれば、出ない日もある。
何も出なかったのに、出来事が起きる日もある。
「昌志?」
圭佑に呼ばれて、昌志は我に返った。
「何見てんだ?」
「いや」
昌志は棚から目を離した。
「何でもない」
「お前の何でもないは、だいたい何でもあるんだよな」
「そんなことない」
「ある」
圭佑は軽く言って、文房具屋の中へ入ろうとした。
その時だった。
「岐阜さん」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、少し離れたところに瑞美がいた。
隣には加藤あいもいる。
瑞美は小柄な体に、布製の手提げ袋を持っていた。
今日もきちんとした立ち方をしている。
加藤さんはその隣で、瑞美よりも少し気楽な雰囲気で立っていた。
「瑞美」
「こんにちは」
「こんにちは、岐阜さん」
加藤さんも、普通に挨拶してきた。
「こんにちは、加藤さん」
昌志が返すと、圭佑もすぐに頭を下げた。
「瑞美さん、こんにちは」
「こんにちは、相沢さん」
圭佑と瑞美は、もう会っている。
自己紹介もしている。
だから、会話は自然だった。
ただ、圭佑の目が一瞬だけ、加藤さんの方へ向いた。
加藤さんはそれに気づいて、軽く笑う。
「そちらは?」
「あ、俺は相沢圭佑です。昌志の友達で、美月の兄です」
「加藤あいです。みつみんの友達です」
「みつみん?」
圭佑が少しだけ聞き返した。
瑞美が、すぐに加藤さんを見た。
「加藤さん。その呼び方は、人前ではやめてください」
「え、かわいいじゃん」
「かわいいかどうかの問題ではありません」
「でも、みつみんはみつみんだし」
「私は瑞美です」
「知ってるよ」
加藤さんは楽しそうに笑った。
瑞美は少しだけ困った顔をしている。
そのやり取りを見て、圭佑も小さく笑った。
「どうも、加藤さん」
「どうも、相沢さん」
軽いやり取りだった。
けれど、圭佑が少しだけ姿勢を正したように見えた。
昌志は気づかないふりをした。
「二人も買い物?」
昌志が聞くと、瑞美は頷いた。
「はい。少し必要なものがあって」
「みつみん、ノート選びに時間かかるんですよ」
加藤さんが笑いながら言った。
「加藤さん」
「だって本当でしょ。罫線の幅とか、紙の厚さとか」
「使うものですから、ちゃんと選んだ方がいいです」
「ほら、こういう感じ」
加藤さんは楽しそうだった。
瑞美は少しだけ困った顔をしている。
そのやり取りを見て、圭佑が小さく笑った。
「ちょうどよかった。俺らも今から何か飲みに行こうかって話してたんですけど、よかったら一緒にどうですか?」
「え」
瑞美が目を瞬かせた。
加藤さんも少しだけ意外そうな顔をした。
昌志も圭佑を見た。
「そんな話してたか?」
「今する予定だった」
「予定って」
「いいだろ。お前、暗い顔してるし」
「ここで言うな」
圭佑は昌志を無視して、瑞美たちに向き直った。
「近くのファミレスでも、喫茶店でも。軽く何か飲むだけでいいんで」
瑞美は少し考え込んだ。
一度会っているとはいえ、圭佑とそこまで親しいわけではない。
昌志も、少し迷った。
黒い本の文章が頭をよぎる。
親友は寄り道に誘う。
ついていけば、探していたものに少し近づく。
この流れも、そこに含まれるのか。
駅前の商店街。
文房具屋の前。
瑞美と加藤さん。
圭佑の誘い。
どこまでが、黒い本の文章の中なのか分からない。
「無理なら大丈夫だけど」
昌志がそう言うと、瑞美は昌志を見た。
「岐阜さんも、行くんですか?」
「圭佑が行くって言ってるから」
「昌志、お前な」
「本当のことだろ」
瑞美は少しだけ考えたあと、頷いた。
「では、少しだけなら」
「いいんですか?」
圭佑が聞くと、瑞美は真面目な顔で言った。
「ただし、割り勘ですからね」
店に入る前から、きっぱりとそう言った。
一瞬、空気が止まった。
加藤さんが先に笑った。
「みつみん、そこ先に言うんだ」
「大事なことです」
「まあ、大事だけど」
圭佑も笑った。
「分かりました。割り勘で」
「はい」
瑞美は安心したように頷いた。
加藤さんが昌志の方を見て、小さく言った。
「みつみんって、こういう感じなんです」
「知ってます」
「ですよね」
そう言って、加藤さんはまた笑った。
ファミレスは、商店街の角を曲がった先にあった。
駅前に近いわりには、夕方前の店内はまだ空いているように見える。
自動ドアの前まで来て、昌志は一度だけ足を止めた。
駅前の商店街。
親友の寄り道。
探していたものに少し近づく。
昌志はまだ、何に近づこうとしているのか分からない。
けれど、ここまで来てしまった。
「昌志?」
圭佑が振り向く。
「何でもない」
昌志はそう言って、ファミレスの自動ドアをくぐった。
冷房の冷たい空気が、外の湿った空気を押し返す。
店員が、こちらを見て言った。
「四名様ですか?」
圭佑が答える。
「はい。四人です」
その言葉を聞いた時、なぜか黒い本の文章が、もう一度昌志の頭の中で浮かんだ。
ついていけば、探していたものに少し近づく。
その意味は、まだ分からない。
分からないまま、四人は席へ案内された。




