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第七話 白紙の本

 四月二十五日。


 放課後、俺は圭佑をファミレスに呼び出した。


 春日圭佑。

 同じ学校。

 同じ学年。

 同じクラス。


 幼稚園の頃から、なぜかずっと近くにいる腐れ縁だ。

 小学校も同じ。

 中学校も同じ。


 高校に入ってからも同じクラスになった時は、さすがに笑った。

 圭佑はその時、俺の肩を叩いてこう言った。


「お前、俺のこと好きすぎだろ!?」

 俺は真顔で返した。


「それはこっちの台詞だ」


 そんな関係だ。

 親友、という言葉をわざわざ使うのは少し照れる。

 でも、俺が誰かに本のことを話すとしたら、たぶん圭佑しかいなかった。


 家族には言えない。

 母に話せば心配される。

 父に話せば病院を勧められるかもしれない。

 司に話せば、たぶん最初は笑う。いや、絶対笑う。


 学校の他のやつに話すのも無理だ。


 未来が書かれた本を読んで、福引で一等を当てて、転ぶ未来を避けて、落とし物を拾って謝礼をもらった。


 そんな話、まともに信じてもらえるわけがない。


 圭佑でも、信じるかどうかは分からない。

 けれど、圭佑なら。

 笑ったあとで、少しくらいは話を聞いてくれる気がした。


「で、何だよ。急にファミレスって」

 先に席へ着いていた圭佑が、ドリンクバーのコップを片手に言った。

 テーブルには、ポテトと安いパフェが置かれている。


「別に」

「別にで俺を呼ぶなよ。暇だけど」

「暇なのかよ」


「暇じゃなかったら来てない」

 圭佑はそう言って、ポテトを一本つまんだ。


「で? 何? また司ちゃんに肉のことで詰められた?」

「なんで知ってるんだよ」


「昼休みにお前が言ってたじゃん。『うちの妹、焼肉にだけ異常に食いつく』って」

「ああ」

「何食ったのか、俺にもまだ聞いてないぞ」


「お前もかよ」

「高い焼肉の話は聞くだろ。普通」

 圭佑は笑いながら、ポテトを口に入れた。


 その後、しばらくは本当にどうでもいい話をした。

 昨日、数学の教師が黒板に書き間違えた式のこと。

 体育の時間に、松尾が派手に空振りしたこと。

 司のクラスメイトが焼肉屋でバイトしていたせいで、俺の一人焼肉が家族にばれたこと。


「お前さ、よりによって近所の焼肉屋で一人豪遊は目立つだろ」

「今は反省してる」


「してるやつの顔じゃない」

「してるって」

「じゃあ次はどこ行くんだよ」


「遠いところ」

「反省の方向がおかしい」

 圭佑は呆れたように笑った。


 こういう話をしていると、少しだけ気が楽になった。


 黒い本のこと。

 未来のこと。

 幸運と不幸のこと。


 全部、自分の中だけにしまっていると、だんだん息苦しくなる。

 でも圭佑と話している間だけは、いつもの日常に戻れる気がした。

 だからこそ、言うなら今だと思った。


「圭佑」

「ん?」

「ちょっと、見せたいものがある」


「何。焼肉のレシート?」

「違う」

「じゃあ何だよ」


 俺は鞄に手を入れた。

 指先が、黒い本の表紙に触れる。

 少し冷たい。


 何度触っても、普通の紙の本とは違う気がする。

 俺はそれを取り出し、テーブルの上に置いた。

 黒い表紙。

 白い題名。


『僕はまだ、この本を書いていない』


 圭佑はそれを見て、眉を上げた。


「何これ?」

「本」

「それは見れば分かる」

 圭佑は表紙を覗き込んだ。


「タイトル、だいぶ変だな」

「そこじゃない」

「著者名、岐阜って書いてあるけど」


「そこは、まあ、関係ある」

「お前が書いたの?」

「書いてない」


「じゃあ何で岐阜なんだよ」

「俺も知らない」


「何だそれ」

 圭佑は笑いかけたが、俺が笑っていないことに気づいたらしい。

 少しだけ表情を変えた。


「……マジな話?」

「たぶん」


「たぶんって何だよ」

 俺は一度、店内を見回した。

 夕方のファミレスはそこそこ混んでいる。


 部活帰りらしい学生。

 子ども連れの母親。

 ノートパソコンを開いている会社員。


 誰も、俺たちのテーブルなんか気にしていない。

 俺は声を落とした。


「この本、俺の未来が書いてある」

 圭佑はしばらく黙った。

 それから、ゆっくりと俺を見た。


「……焼肉の食いすぎで?」

「違う」

「じゃあ福引の当たりすぎで?」

「真面目に聞け」


「いや、真面目に聞いた結果、かなり心配してる」

 圭佑はそう言ったが、手を伸ばして本を取った。


「見てもいいのか?」

「そのために持ってきた」

「じゃあ見るけど」

 圭佑は表紙をめくった。


 俺は息を止めた。

 そこには、俺には文字が見えている。


 四月十六日。

 初めて古本屋で本を買った日。

 俺があの本を見つけた日のこと。


 古本屋のこと。

 店主のこと。

 百円の値札。

 俺の名前。

 そして、目次。


 圭佑がそれを見たら、どう反応するのか。

 俺は、それを知りたかった。


 圭佑はページを一枚めくった。

 もう一枚めくる。

 さらにめくる。


 そして、首を傾げた。


「……何これ?」

「何って」

「白紙じゃん」

 俺は動けなかった。


「は?」

「いや、だから白紙」

 圭佑は本をこちらに向けた。


「何も書いてないぞ」

 俺は反射的に本を奪うように取った。


 ページを見る。

 文字はある。

 ちゃんとある。


 俺が知っている文章が、そこに並んでいる。


 ――僕は、初めて入った古本屋でこの本を買った。


 見える。

 読める。

 なのに、圭佑には見えていない。


「あるだろ」

「ないって」

「ここに書いてある」

「だから何が」


「四月十六日って」

「いや、真っ白」

「目次もある」

「目次どこだよ。全部白いぞ」


 圭佑の顔は、ふざけていなかった。

 本当に見えていない顔だった。

 俺はページを何度も確認した。

 ある。

 文字はある。


 でも、圭佑には見えない。

 背中が冷たくなる。


 この本は、俺にしか読めない。

 その事実が、いきなり目の前に落ちてきた。


「お前、マジで何か見えてんのか?」

 圭佑の声が、少し低くなった。

 俺は本から目を離せないまま、頷いた。


「見えてる」

「何が」

「俺のことが書いてある。昨日のことも、その前のことも。これから起きることも」


「これから?」

「福引で一等を引くって書いてあった」

「それで当たったのか?」


「当たった」

「……偶然じゃなくて?」

「一等の商品券一万円分って、金額まで合ってた」

 圭佑は黙った。

 俺は続ける。


「雨で滑って転ぶって書いてあったから、その道を避けた。転ばなかった」

「それも偶然だろ」

「落とし物の場所も書いてあった。そこに行ったら、本当にあった。届けたら謝礼をもらった」


「謝礼?」

「五万円」

 圭佑の顔が、分かりやすく変わった。


「五万?」

「うん」

「お前、五万もらったの?」


「落とし物を届けた礼として」

「マジで?」

「マジで」


 圭佑は本と俺を交互に見た。

 それから、ポテトを一本つまんで、なぜか食べた。


「いや、本の話は分からん」

「だろうな」

「俺には白紙にしか見えないし、未来が書いてあるとか言われても、正直かなり怪しい」


「うん」

「でも」

 圭佑は、俺の前に置かれた伝票をちらっと見た。


「今日、これ奢りって言ったよな?」

「ああ」

「お礼の奢りだって」


「言った」

「それは、五万円もらったから?」

「……まあ」

 圭佑は少しだけ笑った。


「お前、最近景気いいってのは本当みたいだな」

「そこだけ信用するのかよ」

「そこは現実に見えてるからな」

 圭佑はドリンクバーのコップを持ち上げた。


「黒い本の中身は見えない。未来も信じたわけじゃない。でも、お前が最近妙に金持ってるのは分かった」


「金持ちってほどじゃない」

「高校生が友達にファミレス奢れるなら、十分景気いいだろ」

「ファミレスくらいで」


「その『くらい』がもう怪しい」

 圭佑はそう言って、少し真面目な顔になった。


「なあ、昌志」

「何」

「お前、変なことに巻き込まれてないよな?」


 その言葉に、すぐ答えられなかった。

 巻き込まれている。

 たぶん。


 でも、変なことという意味なら、もうとっくに巻き込まれている。

 百円の本。

 未来の自叙伝。

 幸運と不幸。


 全部、普通じゃない。

 ただ、俺はまだそこまで悪いことになっているとは思っていなかった。


 むしろ、本は使える。

 うまく使えば得をする。

 そう思っている。


「巻き込まれてるっていうか……」

「いうか?」

「たぶん、俺だけが知ってる得な情報がある」


「その言い方、かなり怪しいぞ」

「怪しくない」

「怪しいやつほど怪しくないって言う」

「本当に犯罪じゃない」

 圭佑はじっと俺を見た。


「それは信じていいんだな?」

「うん」

「本当に?」

「本当に。盗んだり、騙したりはしてない」


「じゃあ、その五万は?」

「落とし物を届けたら、持ち主が礼をくれた」

「警察通した?」

「交番に届けた」


「なら、まあ……そこはいいか」

 圭佑は少しだけ息を吐いた。


「でも、本に未来が書いてあるって話は、まだ信じてないからな」

「分かってる」

「白紙だし」


「それは俺も今知った」

「お前にも白紙に見えたらよかったのにな」

「そうしたら、ただの変な本だった」


「今もだいぶ変な本だぞ」

 圭佑は軽く笑った。


 でも、完全に茶化しているわけではなかった。

 俺が本気で話していることは、伝わっている気がした。

 たぶん、圭佑は本そのものを信じていない。


 未来が書いてあるという話も、まだ信じていない。

 けれど、俺が何かを抱えていることだけは分かっている。

 それだけで、少し楽になった。


「で、俺に何してほしいんだよ」

 圭佑が聞いた。


「何って」

「見せに来ただけじゃないだろ」

「……相談、したかった」

「何を?」


「分からない」

「分からない相談をするな」


「俺も分からないんだよ」

 俺は黒い本を閉じた。

 表紙の黒が、ファミレスの照明を鈍く反射している。


「この本が本物なのは、たぶん間違いない。少なくとも、今まで書いてあったことは当たってる」

「俺には白紙だけどな」

「分かってる。でも、俺には見える」

「うん」


「良いことも書いてある。悪いことも書いてある。良いことはその通りにすれば起きる。悪いことは避ければ避けられる」


「それ、本当なら最強じゃん」

「だろ」

「でも、そんなうまい話あるか?」

 圭佑は、あっさり言った。


 俺は少し黙った。

 それは、俺も思ったことだった。

 でも、今のところはうまくいっている。


 一等を当てた。

 転倒を避けた。

 落とし物で礼をもらった。

 財布をなくす未来も避けた。


 だから、つい思ってしまう。

 うまい話は、あるんじゃないかと。


「今のところ、ある」

 俺が言うと、圭佑は呆れたように笑った。


「お前、調子乗ってるな」

「乗ってない」

「乗ってる。焼肉一人で食った顔してる」


「それは関係ないだろ」

「あるだろ。高い肉食ったやつの顔だ」

「どんな顔だよ」

「こういう顔」


 圭佑はわざと偉そうな顔をした。

 少し笑ってしまった。

 笑えたことに、自分で少し驚いた。


 黒い本のことを話しているのに。

 圭佑には白紙にしか見えなかったのに。

 それでも、少しだけ笑えた。


「まあ、いいや」

 圭佑はコップを置いた。


「本の話は信じてない。でも、お前が変なことを言い出したのは覚えとく」

「それ、相談に乗る気あるのか?」

「あるよ。半分くらい」

「半分かよ」


「だって白紙だし」

「それはそうだけど」

「ただ、金の使い方は気をつけろよ。急に景気よくなったら、家族にもクラスにもばれるぞ」


「もうばれかけてる」

「だろうな」

 圭佑はポテトを一本、俺の方へ差し出した。


「とりあえず、次に変なことあったら言えよ」

「信じてないのに?」

「信じてないけど、聞くくらいはできる」


 その言葉は、思ったよりありがたかった。

 俺はポテトを受け取った。


「……助かる」

「その代わり、今日は本当に奢りな」

「分かってる」


「パフェ追加していい?」

「調子に乗るな」

「お前が言うな」

 圭佑が笑った。


 俺も少し笑った。

 黒い本は、テーブルの上で黙っていた。

 圭佑には読めない。


 俺にしか読めない。

 その事実は、思ったより重かった。

 でも、完全に一人ではない。


 圭佑は本を信じていない。

 それでも、話は聞くと言った。

 そのくらいの逃げ道があるだけで、息は少しだけしやすくなる。


 俺は黒い本を鞄にしまった。


 そして、伝票を見て、小さくため息をついた。

 今日の出費は、ちゃんと本に書かれていただろうか。


 そんなことを考えた自分に、少しだけ苦笑した。

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