第六話 一人で焼肉屋に行ったでしょ
四月二十二日。
夕飯を食べようとしていた時、司がリビングに駆け込んできた。
「お兄ちゃん!」
「何だよ」
俺は箸を持ったまま、少しだけ身構えた。
司がこういう勢いで来る時は、大抵ろくなことではない。
母が味噌汁をよそいながら、司を見る。
「司、手は洗った?」
「洗った!」
「本当?」
「洗ったってば。それより、お兄ちゃん」
「だから何」
司は俺の正面に座ると、妙に楽しそうな顔をした。
「この前、一人で焼肉屋行ったでしょ」
箸が止まった。
母も父も、こちらを見た。
「焼肉屋?」
母が首を傾げる。
「一人で?」
父も少しだけ眉を上げた。
俺は、できるだけ平然とした顔を作った。
「……何の話だよ」
「駅前の焼肉屋。高いやつ」
「いや、別に」
「行ったでしょ」
「なんで知ってんだよ」
言ってから、しまったと思った。
それはもう、認めたようなものだった。
司の顔が、勝ち誇ったように明るくなる。
「やっぱり行ったんだ」
「いや、まあ……行ったけど」
「ほら!」
司は母の方を見た。
「お兄ちゃん、一人で焼肉屋行ったんだって」
「昌志、そうなの?」
「まあ、ちょっと」
「ちょっとで焼肉屋に一人で行くの?」
母の声は厳しいというより、少し呆れていた。
父は面白がるように俺を見ている。
「高校生が一人焼肉か。なかなか渋いな」
「渋くないでしょ」
司がすぐに突っ込む。
「ずるいでしょ」
「ずるいって何だよ」
「だって焼肉だよ」
「焼肉くらい行くだろ」
「行かないよ、一人では」
司は真顔で言った。
俺は少しだけ目を逸らした。
たしかに、高校生が一人であの焼肉屋に入るのは、少し目立ったかもしれない。
しかも、あの日は普通に高い肉を頼んだ。
厚切り牛タン。
上カルビ。
特選ロース。
石焼ビビンバ。
冷麺。
デザート。
思い出すと、また腹が少し満たされたような気分になる。
うまかった。
あれは間違いなくうまかった。
ただ、こんなにすぐ家族にばれるとは思っていなかった。
「それで、なんで知ってるんだよ」
俺が聞くと、司は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「あきちゃんがバイトしてるの」
「あきちゃん?」
「同じクラスの子。駅前の焼肉屋でバイトしてるんだって」
「高校一年でもうバイトしてんのか」
「してる子はしてるよ」
司は今年、高校に入ったばかりの一年生だ。
俺より二つ下。
高校に入ってからまだそんなに経っていないはずなのに、もうあちこちに知り合いを作っているらしい。
そういえば、こいつは昔からそうだった。
近所の人の名前をいつの間にか覚えている。
俺が知らない店員と普通に話している。
友達の友達の事情まで、なぜか知っている。
こいつのこういう関係、結構広いんだった。
失敗した。
近所の店で金を使えば、意外とすぐ誰かに見られる。
しかもそれが司に伝わる。
司に伝われば、家族に伝わる。
思ったより世間は狭い。
「で、何食べたの?」
司が身を乗り出してきた。
「別に普通だよ」
「普通って何」
「肉」
「焼肉屋なんだから肉なのは分かってるよ。何の肉?」
「牛タンとか」
「牛タン!」
司の目が明らかに輝いた。
「厚いやつ?」
「まあ、厚かった」
「いいなあ」
「あとカルビ」
「上カルビ?」
「……上カルビ」
「やっぱり!」
司は悔しそうに箸を握った。
「ずるい。絶対ずるい」
「自分の金で食ったんだからいいだろ」
「お兄ちゃんの金じゃなくて、福引の商品券でしょ」
「それも俺が当てたんだよ」
「でも一人で行くことないじゃん」
「なんでだよ」
「私も行きたかった」
司は、はっきりそう言ったわけではない。
でも、顔が完全にそう言っていた。
肉が食べたい顔だった。
どれだけ肉が好きなんだ、こいつ。
俺は少しだけ笑いそうになった。
「今度な」
「本当?」
「いつか」
「それ絶対行かないやつじゃん」
「分からないだろ」
「分かるよ。お兄ちゃんの『いつか』は、ほぼ行かないやつ」
母がそこで軽く咳払いをした。
「昌志」
「何?」
「焼肉に行くのは別にいいけど、お金の使い方はちゃんと考えなさいよ」
「分かってるって」
「福引の商品券だけならまだいいけど、最近ちょっと使い方が大きくなってない?」
俺は一瞬だけ黙った。
母の目は、鋭いというほどではない。
疑っているというより、普通に心配している顔だった。
それでも、胸の奥が少しだけ固くなる。
この前、落とし物を届けて謝礼をもらった。
五万円。
それを家族には話していない。
焼肉屋で使ったのは、その金だ。
福引の商品券ではない。
でも、今はそういうことにしておいた方が都合がいい。
「別に、そんなに使ってないよ」
「本当?」
「本当」
母は少しだけ俺を見てから、ため息まじりに言った。
「もし何かでもらったお金とかあるなら、ちゃんと報告しなさいよ。落とし物を拾って謝礼をもらったとか、そういうのでも」
俺は味噌汁を飲もうとして、少しだけむせそうになった。
「……なんで落とし物?」
「例えよ、例え」
母は何も知らない顔で言った。
もちろん、母は知らない。
俺が本に書かれた場所で落とし物を拾ったことも。
それを届けて五万円を受け取ったことも。
その金で焼肉を食べたことも。
知らないはずなのに、妙に刺さった。
「分かってる」
俺は短く答えた。
母はそれ以上、厳しくは言わなかった。
「まあ、悪いことしてないならいいけどね。高校生なんだから、急に大きなお金を使う時は少し気をつけなさい」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
父が横で少し笑った。
「まあ、運がいい時ほど気をつけろってことだな」
その言葉にも、少しだけ引っかかった。
運がいい時ほど気をつける。
普通の言葉だ。
どこの家でも言われそうな、ありふれた注意。
でも今の俺には、少しだけ違う意味に聞こえた。
黒い本。
未来の自分が書いたらしい自叙伝。
そこに書かれた幸運を拾い、不幸を避けている俺。
今のところ、うまくいっている。
でも、母や父にこうして言われると、少しだけ現実に引き戻される。
金を使えば、誰かに見られる。
誰かに見られれば、家族に伝わる。
家族に伝われば、理由を聞かれる。
幸運は、ひけらかさない方がいい。
隠した方がいい。
少なくとも、近場で目立つ使い方をするのはまずい。
今度行くなら、別の場所にしよう。
駅前じゃなくて、もっと離れた店。
司のクラスメイトが働いていない店。
知り合いに見られない店。
そこまで考えてから、俺は少しだけ自分に呆れた。
また行く気でいる。
注意されたばかりなのに。
でも、あの味を思い出すと仕方ない。
「で、何食べたの?」
司がまた聞いてきた。
「まだ聞くのかよ」
「聞く。カルビの他は?」
「ロース」
「普通の?」
「特選」
「特選!」
司は箸を握りしめた。
「ずるい。絶対ずるい」
「うるさいな」
「石焼ビビンバは?」
「食べた」
「冷麺は?」
「食べた」
「デザートは?」
「食べた」
「全部食べてるじゃん!」
「腹減ってたんだよ」
「どんだけ食べたの」
「普通だって」
「絶対普通じゃない」
司は食事中ずっと焼肉の話をしていた。
肉の厚さ。
タレか塩か。
ご飯を頼んだのか。
デザートは何だったのか。
母が途中で「司、あなたの夕飯もちゃんと食べなさい」と注意するくらいだった。
どれだけ肉が好きなんだ。
俺は呆れながらも、少しだけ気が楽になっていた。
母の注意はあった。
父の言葉も少し引っかかった。
でも、家族から見れば、俺はただ福引に当たって少し浮かれているだけの高校生だ。
それ以上ではない。
黒い本のことは、誰も知らない。
部屋に戻ると、俺は机の引き出しを開けた。
黒い本は、そこにあった。
その横には、残った商品券と、封筒に入れた現金。
俺はしばらくそれを見下ろした。
使い方には気をつけた方がいい。
見られる場所も選んだ方がいい。
それでも、本が使えることは変わらない。
むしろ、うまく使えばいいだけだ。
近所で目立たない。
家族に知られない。
大きな金は小分けにする。
理由を聞かれた時の言い訳も考えておく。
それくらいできる。
俺は黒い本を手に取った。
『僕はまだ、この本を書いていない』
表紙を撫でる。
少しだけ冷たい。
「次は、もう少しうまくやる」
そう呟いた。
返事はない。
でも俺には、黒い本が黙ってこちらを見ているように思えた。
気のせいだ。
そういうことにして、俺は本を閉じた。




