第5話 財布をなくした日
四月二十一日。
朝、目が覚めた時、最初に確認したのは財布だった。
机の上に置いてある。
昨日の五万円は、さすがに全部は入れていない。
焼肉屋で一万円近く使ったあと、残りは封筒に戻して、机の引き出しの奥にしまった。
財布の中には、普段より少し多めの現金だけ入れてある。
それでも、落としたら痛い。
昌志はベッドから起き上がり、机の引き出しを開けた。
封筒はある。
一万円札が四枚と、何枚かの千円札。
昨日、落とし物を届けただけで手に入れた金だ。
見ているだけで、少し口元が緩んだ。
昨日の焼肉はうまかった。
厚切り牛タン。
上カルビ。
特選ロース。
石焼ビビンバ。
冷麺。
デザート。
思い出すだけで腹が鳴りそうになる。
高校生が一人で食べるには、明らかに贅沢だった。
でも、いい。
俺はちゃんと本に書かれていた通りに行動した。
落とし物を拾って、交番に届けた。
礼を受け取った。
盗んだわけじゃない。
悪いことはしていない。
これは報酬だ。
そう思うことにした。
昌志は引き出しを閉め、机の上の黒い本を見た。
今日の日付。
四月二十一日。
目次には、こう書かれている。
四月二十一日 財布をなくした日。
嫌な題名だった。
でも、怖くはなかった。
だって、もう読んである。
場所も分かっている。
どうすれば財布をなくすのかも書いてある。
なら、避ければいい。
昌志は本を開いた。
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――四月二十一日、放課後。
学校帰り、
駅前のゲームセンター裏にある、
細い道を通る。
昨日受け取った金が気になり、
何度も財布の中身を確認する。
その途中で財布を落とす。
気づいた時には、
財布はなくなっている。
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ゲームセンター裏の細い道。
昌志はそこを知っている。
駅から商店街へ抜ける近道だ。
人通りは少ないが、学校帰りに使う生徒もいる。
今日はそこへ行かなければいい。
財布も、何度も出さなければいい。
それだけだ。
「楽勝だろ」
昌志は本を閉じた。
雨の階段と同じだ。
危ない場所が分かっている。
なら、近づかない。
本には、今日の昌志が財布をなくすと書いてある。
でも、もう知っている。
知っているなら変えればいい。
***
学校へ行くと、朝から少し落ち着かなかった。
別に何かあるわけじゃない。
ただ、財布をなくす日だと知っているだけで、妙に鞄の中が気になる。
昌志は財布を鞄の内ポケットへ入れた。
制服のポケットには入れない。
机の横に鞄をかける時も、チャックを閉めておく。
ここまでしておけば、落とすことはない。
授業の合間にも、つい鞄へ目が向いた。
「さっきから鞄ばっか見てるけど、どうした?」
圭佑に言われた。
「別に。何でもない」
「そうか?」
「そうだよ」
圭佑はそれ以上聞いてこなかった。
昌志はもう一度だけ、鞄のチャックが閉まっていることを確認した。
昼休み。
飲み物を買いに行こうと席を立った時、後ろから声をかけられた。
「なあ、岐阜」
振り返ると、松尾がこちらを見ていた。
「何?」
「お前、最近ちょっと景気よくない?」
心臓が、少し跳ねた。
「……何が」
「いや、昨日さ、駅前の焼肉屋いたろ?」
思わず黙った。
見られていた。
「あそこ高くね? 俺、前に兄貴と行ったけど普通に高かったぞ。しかもお前、一人で食ってたし」
「見てたのかよ」
「見た見た。めっちゃ食ってた。あれは笑った」
松尾はにやにやしている。
別に責めているわけではない。
ただ面白がっているだけだ。
でも、昌志は少しだけ焦った。
五万円のことは言えない。
黒い本のことは、もっと言えない。
「……新しいバイト、見つけたんだよ」
口から出たのは、そんな嘘だった。
言ってから、自分でも少し驚いた。
でも、他に言い訳が思いつかなかった。
「え、マジで?」
「まあ」
「何のバイト?」
「ちょっとした……手伝いみたいなやつ」
「怪しくね?」
「怪しくない」
「時給いいの?」
「まあ、悪くはない」
松尾の目が少し輝いた。
「今度俺にも紹介してくれよ」
「あー……考えとく」
「絶対な。俺も金ほしいんだよ。今月きつくてさ」
「分かったって」
昌志は適当に答えて、教室を出た。
背中に松尾の声が飛んでくる。
「忘れんなよー」
昌志は片手を上げた。
胸の奥が、少しざらついていた。
嘘をついた。
新しいバイトなんてしていない。
でも、全くの嘘とも言い切れない気がした。
黒い本を読んで、書かれた場所へ行く。
福引で一等を当てる。
落とし物を届けて礼をもらう。
手間はかかっている。
時間も使っている。
なら、バイトみたいなものだ。
そう思えば、あまり罪悪感はなかった。
飲み物は小銭で買った。
昼飯も、朝のうちに買っておいたパンで済ませた。
財布は鞄の内ポケットに入れたまま。
チャックも閉めてある。
完璧だった。
***
放課後。
昌志は教室を出る前に、もう一度鞄の中を確認した。
財布はある。
封筒は家。
黒い本は鞄の奥。
問題なし。
「帰るか」
圭佑が言った。
「ああ」
「俺も帰る」
松尾も鞄を持って立ち上がった。
三人で教室を出た。
廊下を歩き、昇降口へ向かう。
松尾は昼休みの話をまだ覚えていた。
「なあ、そのバイト、本当に紹介してくれよ」
「まだ言ってんのかよ」
「そりゃ言うだろ。俺も金ほしいし」
すると、圭佑が昌志を見る。
「バイト始めたの?」
「ああ、まあ……ちょっとだけ」
「へえ」
それだけだった。
詳しく聞かれなくて助かった。
三人で学校を出る。
いつもと変わらない帰り道だった。
でも、昌志だけは少し違う。
頭の中には、朝からずっと同じものがある。
ゲームセンター裏の細い道。
そこへ行けば、財布を落とす。
絶対に近づかない。
それだけは決めていた。
***
駅前が近づいてきた。
ゲームセンターの派手な看板も見えてくる。
「あ、ゲーセン寄ってかない?」
松尾が言った。
昌志はすぐに首を振った。
「今日はやめとく」
「バイト?」
「まあ、そんなとこ」
「忙しいねえ」
「うるさい」
圭佑がゲームセンターの方を見る。
「俺は別にどっちでもいいけど」
「じゃあ圭佑、ちょっと付き合えよ」
松尾が言った。
「少しだけなら」
昌志は立ち止まった。
この先をそのまま進めば、ゲームセンターの近くまで行く。
その裏には、黒い本に書かれていた細い道がある。
近づく必要はない。
「じゃあ俺、こっちから帰るわ」
昌志は大通りの方を指した。
圭佑が少し不思議そうに見る。
「そっちから?」
「ああ。ちょっと用事あるから」
「そっか」
松尾が手を上げる。
「じゃあまた明日な」
「ああ」
「バイトのこと忘れんなよ」
「分かったって」
圭佑も軽く手を上げた。
「また明日」
「また明日」
二人と別れる。
昌志は反対側の大通りへ向かった。
少し遠回りになる。
人も多い。
信号も待たなければならない。
でも、財布をなくすよりはいい。
途中で一度だけ、鞄の内ポケットを外から触った。
ある。
それ以上は確認しない。
本には、何度も財布を出したと書いてあった。
なら、出さなければいい。
信号を渡る。
コンビニの前を通る。
駅の地下通路にも入らない。
ゲームセンターの裏道にも行かない。
細い路地も避けた。
全部、本に書かれた未来とは違う。
それでいい。
***
家に着いた時、昌志は玄関で真っ先に鞄を開けた。
財布はあった。
ちゃんとある。
中身も確認した。
なくしていない。
「よし」
声が出た。
福引は当てた。
転倒は避けた。
落とし物は届けた。
礼ももらった。
そして今日は、財布をなくさなかった。
良いことは拾えている。
悪いことは避けられている。
今のところ、全部うまくいっている。
***
昌志は自分の部屋へ上がった。
机の上に財布を置く。
それから鞄の奥から黒い本を取り出した。
四月二十一日。
財布をなくした日。
ページを開いてみる。
書かれている内容は、朝に読んだ時と変わっていなかった。
ゲームセンター裏の細い道。
財布の中身を何度も確認する。
そして財布を落とす。
でも、実際には何も起きなかった。
昌志は机の上の財布を見る。
「残念でした」
誰に向けて言ったのか分からない。
本に向けてか。
書かれていた未来に向けてか。
それとも、今日起きるはずだった不幸に向けてか。
とにかく昌志は、財布をなくさなかった。
回避成功だ。
昌志は椅子に深く座り、机の上の財布を指で弾いた。
黒い本に書かれている未来は、絶対ではない。
読めば変えられる。
良いことだけ取って、悪いことだけ避けられる。
今のところ、それは間違っていなかった。
昌志は本の目次を開いた。
四月二十八日 知らない女に声をかけられた日。
五月二日 僕が初めて、この本を捨てようとした日。
次は一週間後。
まだ先だ。
いいことなのか、悪いことなのか分からないものもある。
でも、その時はその時だ。
読んで、考えて、選べばいい。
昌志は財布を引き出しにしまった。
黒い本も、その横に置く。
引き出しを閉める前に、少しだけ本の表紙を撫でた。
「次も頼むぞ」
軽い気持ちで言った。
その時の昌志は、まだ知らなかった。
この本が、昌志に何をさせようとしているのかを。




