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第四話 落とし物を届けて礼を受け取った

 四月二十日。


 俺は朝から、いつもより少しだけ機嫌がよかった。


 理由は分かっている。

 黒い本だ。


 あの本を買ってから、まだ数日しか経っていない。

 けれど、俺はすでに一万円分の商品券を手に入れている。


 しかも、本に書かれていた不幸も避けた。


 雨で濡れた階段を踏み外し、膝を強く打つ。

 そう書かれていた未来は、俺が道を変えただけで起きなかった。


 つまり、この本は使える。


 良いことは、その通りにする。

 悪いことは、書かれている場所や状況を避ける。


 それだけでいい。


 俺は、机の引き出しにしまっていた黒い本を取り出した。

 昨日の夜に何度も読んだページを、もう一度開く。


 四月二十日。

 落とし物を届けて礼を受け取った日。


 その章には、こう書かれていた。


 ――四月二十日。

 ――僕は学校帰り、駅前の地下通路で落とし物を拾った。

 ――北口へ向かう階段の手前。

 ――自動販売機の横にある、古いコインロッカーの前だった。

 ――そこに、黒い革のケースが落ちていた。


 場所まで書いてある。

 俺は思わず笑った。

 親切すぎる。


 未来の俺が書いたものだとしたら、よほど記憶力がいいのか、それともこういう細かいところばかり覚えているタイプなのか。


 どちらにしても、今の俺にはありがたい。


 俺は続きを読んだ。


 ――中には、高そうな腕時計が入っていた。

 ――僕はそれを駅前の交番へ届けた。

 ――持ち主はすぐに見つかった。

 ――その人は、僕に礼として五万円を渡した。

 ――あの時の僕は、ただ運が良かったと思っていた。


 五万円。

 俺は、その文字をしばらく見つめた。


 五万円。


 一万円でも十分すごかった。

 高校生にとって、一万円は普通に大きい。


 でも、五万円は違う。

 少し息が止まるくらいの額だった。


「……五万」


 声に出してみる。

 それだけで、部屋の空気が少し変わった気がした。


 百円で買った本。

 そこから一万円分の商品券。

 そして今度は、五万円。


 おかしい。

 おかしいのは分かっている。

 けれど、分かっていても、手が止まらなかった。


 俺はさらに下を読んだ。


 ――その日の帰り、僕は財布の中身を何度も確認した。

 ――怖かったのではない。

 ――嬉しかったのだ。

 ――あの頃の僕は、もうこの本に感謝し始めていた。


 感謝。

 俺は少しだけ鼻で笑った。


 未来の俺、分かってるじゃないか。

 だって、感謝するだろう。

 普通に考えて。


 百円で買った本が、五万円の場所まで教えてくれる。

 しかも落とし物を届けるだけだ。盗むわけじゃない。悪いことをするわけでもない。


 交番に届けて、持ち主が礼をくれる。


 それだけ。


 これは、むしろ善行だ。


 俺は本を閉じ、鞄に入れた。


 その日の授業は、ほとんど頭に入らなかった。

 黒板の文字も、教師の声も、隣の席のやつがシャーペンを落とした音も、全部遠かった。


 頭の中にあるのは、駅前の地下通路。

 北口へ向かう階段の手前。

 自動販売機の横。

 古いコインロッカー。


 そして、黒い革のケース。


 放課後になると、俺は寄り道もせず駅へ向かった。


 空は晴れていた。

 雨ではない。

 階段で滑る心配もない。


 それでも、俺は少し慎重に歩いた。

 本に書かれていない不幸が起きたら嫌だったからだ。


 駅前は、いつも通り人が多かった。


 制服姿の学生。

 スーツ姿の会社員。

 買い物帰りの主婦。

 イヤホンをつけて歩く大学生らしい人。


 誰も、俺がこれから五万円を手に入れることなんて知らない。


 当然だ。

 俺だけが知っている。


 それが、少し気持ちよかった。


 地下通路へ降りる。

 少しひんやりとした空気が肌に触れた。

 足音が壁に反響している。


 北口へ向かう階段の手前。

 自動販売機が見えた。


 その横に、古いコインロッカーがある。


 黄色っぽい照明の下。

 ロッカーの前。


 そこに、黒い革のケースが落ちていた。


 本当にあった。

 俺は立ち止まった。


 心臓が、どくん、と強く鳴る。

 何度目だろう。


 福引の時もそうだった。

 雨が降った時もそうだった。


 けれど、目の前に黒いケースがあるのを見ると、やっぱり現実感がなくなる。


 俺は周囲を見た。

 誰も気にしていない。

 人は流れていく。

 ケースの存在に気づいている人間は、たぶん俺だけだった。


 俺はゆっくり近づき、ケースを拾った。

 手に取ると、思ったより重かった。


 安物ではない。

 革の手触りが妙に滑らかで、開ける前から高そうだと分かった。


 少し迷った。

 中を見るべきか。


 いや、見なくても分かっている。

 本には腕時計と書いてあった。


 でも、確認したかった。

 俺はケースを開いた。

 中には腕時計が入っていた。


 銀色の、やけに重厚な時計だった。

 ブランド名はよく分からない。けれど、俺が普段見る時計とは明らかに違う。


 高い。

 たぶん、すごく高い。

 俺はすぐにケースを閉じた。


 自分のものではない。

 これは届ける。


 届ければ、礼がもらえる。

 五万円。


 俺は本に書かれていた通り、駅前の交番へ向かった。

 交番には若い警察官がいた。


「あの、これ、落ちてました」


 俺がケースを差し出すと、警察官はすぐに表情を変えた。


「どこで拾いました?」

「地下通路です。北口へ向かう階段の手前の、コインロッカーのところで」


「中は見ました?」

「少しだけ。腕時計でした」


 警察官は頷き、書類を出した。


 名前や住所を書くことになった。

 少し緊張したけれど、やましいことはしていない。


 落とし物を拾って届けただけだ。

 それから十分ほどして、交番の電話が鳴った。


 警察官が応対する。

 そして、こちらを見た。


「持ち主の方が近くにいるそうです。今から来られるそうですよ」


 俺は頷いた。


 ここまで、本の通りだった。


 しばらくして、スーツ姿の男が交番へ駆け込んできた。

 四十代くらいだろうか。

 息を切らし、額に汗を浮かべている。


「時計、時計は」


 警察官がケースを見せると、男は目に見えて力が抜けた。


「ああ……よかった。本当によかった」

 男は俺の方を見た。


「君が拾ってくれたの?」

「あ、はい。地下通路で」

「ありがとう。本当にありがとう。これ、父の形見なんだ」


 父の形見。

 そう言われると、急に時計の重さが変わった気がした。

 ただ高いだけのものじゃない。


 男にとっては、本当に大事なものだったらしい。

 少しだけ、胸がざわついた。

 でも、そのざわつきは、男が財布を取り出したことで別の感情に変わった。


「大したものじゃないけど、受け取ってほしい」

 男は封筒を差し出した。


「いえ、そんな」

 一応、そう言った。

 でも、手は止まらなかった。


「本当に助かったんだ。受け取ってくれないと、こちらの気が済まない」


 警察官も、無理のない範囲ならと苦笑していた。

 俺は封筒を受け取った。


 中身は、その場では見なかった。

 でも、厚みで分かった。

 たぶん、入っている。


 本に書かれていた通り。


 五万円。


 交番を出てから、俺は駅前の人通りから少し離れたところで封筒を開いた。

 一万円札が五枚。

 手が震えた。


「……すげえ」


 それしか出てこなかった。

 福引の一万円分商品券とは違う。


 これは現金だ。

 どこでも使える。


 五万円。


 高校生が、学校帰りに、落とし物を届けただけで手に入れた金。

 俺は鞄の中の黒い本に手を当てた。


「ありがとう」


 小さく呟いた。


 誰かに聞かれたら変なやつだと思われただろう。

 でも、その時は本当にそう思った。


 この本、最高じゃないか。


 怖いとか、気味が悪いとか。

 そういう気持ちは、もちろんまだある。


 でも、それ以上に役に立つ。


 俺は駅前を歩きながら、何に使うか考えた。

 貯金。


 最初に浮かんだのはそれだった。

 でも、すぐに消えた。


 貯金なんていつでもできる。

 そもそも、これは本がくれた金だ。


 なら、少しくらい使ってもいい。

 うまいものが食べたい。

 そう思った。


 いつもなら入らないような店。

 値段を見て、すぐに諦めるような店。


 駅前のビルに、焼肉屋がある。


 食べ放題ではない。

 肉の名前が長くて、値段がいちいち高い店だ。

 前に友達と前を通った時、「一回くらい行ってみたいな」と笑って終わった店。


 俺は、その店へ入った。


 一人で焼肉屋に入るのは少し緊張した。

 けれど、財布の中には五万円がある。


 案内された席に座り、メニューを開く。

 値段を見ても、今日はあまり怖くなかった。

 俺は、いつもなら絶対に頼まない肉を頼んだ。


 厚切り牛タン。

 上カルビ。

 特選ロース。

 石焼ビビンバ。

 冷麺。

 デザートまで。


 皿が運ばれてくるたびに、笑いそうになった。


 肉を焼く。

 脂が落ちる。

 火が少し上がる。

 匂いだけで腹が鳴った。


 一口食べる。

 うまかった。


 当たり前みたいな感想しか出てこないくらい、うまかった。


 俺は夢中で食べた。


 普段なら値段を気にして遠慮する。

 今日は違う。


 食べたいものを頼める。

 食べたいだけ食べられる。


 五万円には、まだ余裕がある。


 俺は肉を焼きながら、黒い本のことを考えていた。


 落とし物の場所まで書いてあった。

 持ち主が礼をくれることも書いてあった。

 金額も合っていた。


 ここまで来ると、もう疑いようがない。


 本は本物だ。

 そして、俺はそれを使えている。


 未来の俺がどうして五月にこれを捨てようとしたのか、やっぱり分からない。


 こんなに便利なものを。

 こんなに役に立つものを。

 もしかして未来の俺は、使い方が下手だったんじゃないのか。


 良いことにだけ乗って、悪いことは避ける。

 ただそれだけなのに。


 俺は最後の一枚の肉を焼きながら、少しだけ笑った。

 未来の俺より、今の俺の方がうまくやれている。


 そう思った。


 会計は、一万円近くになった。

 普段なら青ざめる金額だ。

 でも今日は、五万円がある。


 俺は封筒から一万円札を出して支払った。

 店を出る頃には、腹が苦しいくらいだった。


 うまいものを、たらふく食べた。

 駅前の夜風が、妙に気持ちよかった。

 俺は満腹の腹をさすりながら歩いた。


 帰ったら、次の章を読もう。


 四月二十一日。

 財布をなくした日。


 それは避ければいい。


 財布をなくす場所も、理由も、きっと書いてある。

 だったら、そこに近づかなければいい。


 何も問題はない。

 俺はそう思いながら、鞄の中の黒い本を軽く叩いた。

 今度は、はっきりと声に出した。


「助かってるよ」


 その言葉に、本は何も返さなかった。


 ただ、鞄の中で、少しだけ重くなったような気がした。

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