第3話 最近いいことあった?
四月十九日。
夕飯の時、母に言われた。
「昌志、最近いいことあった?」
味噌汁の椀を持ち上げようとしていた手が、少し止まった。
「……なんで?」
「なんとなく。顔がゆるいから」
「ゆるくない」
「ゆるいわよ。ねえ、あなた」
母がそう言うと、向かいに座っていた父が新聞から顔を上げた。
「まあ、少し機嫌はよさそうだな」
「そう見える?」
「見える」
「別に普通だけど」
昌志は味噌汁を飲みながら、できるだけ何でもない顔をした。
食卓には、母と父と昌志、それから妹の司がいる。
父は普段、単身赴任先にいることが多い。
今日はたまたま帰ってきていた。
母が用意した焼き魚と味噌汁と小鉢が並んでいて、いつもより少しだけ食卓がにぎやかだった。
普通の夕飯。
普通の家族の会話。
それなのに、昌志だけが少し違う場所にいるような気がしていた。
机の引き出しの中には、黒い本がある。
その隣には、商店街共通商品券が入った封筒もある。
百円で買った本が、一万円分の商品券に変わった。
しかも昌志は、本に書かれていた不幸まで避けた。
福引は当てた。
雨で滑って転ぶこともなかった。
つまり、あの本は使える。
そう思うと、顔がゆるんでいたのかもしれない。
「何かあったなら言えばいいのに」
母は少し楽しそうに言った。
「だから、何もないって」
「何もない顔じゃないのよね」
「どんな顔だよ」
「何か隠してますって顔」
母はそう言って笑った。
すると、司まで昌志の顔をじっと見た。
「確かに変」
「何がだよ」
「なんかニコニコしてる」
「してない」
「してるって。ちょっと変な顔」
「お前まで言うなよ」
「だって変なんだもん」
司が笑う。
昌志は少しむっとした。
「兄妹なんだから、お前だって似たような変な顔だろ」
「は?」
司の眉が上がった。
「俺が変な顔なら、お前も変な顔ってことだ」
「全然違うし」
「兄妹だぞ」
「だからって全部似るわけじゃないでしょ」
「でも似たようなもんだろ」
「一緒にしないで」
「そっちが先に変な顔って言ったんだろ」
「だって本当に変だったから」
「じゃあお前も変だ」
「意味分かんない!」
「はいはい、そこまで」
母が箸を置いた。
「ご飯の時に喧嘩しないの」
「お兄ちゃんが――」
「司も」
母に名前を呼ばれて、司が口を閉じる。
「昌志も、妹相手に張り合わない」
「俺からじゃないけど」
「そういうところ」
「……はい」
司が横で小さく笑った。
「何笑ってんだよ」
「昌志」
「何でもないです」
父が新聞の陰で少しだけ笑っていた。
昌志は焼き魚の身をほぐしながら、なるべく平然としていた。
隠している。
それは間違っていない。
ただ、言えるわけがなかった。
先日、古本屋で百円の本を買った。
その本には、これから起きる出来事が書かれていた。
その通りに福引を引いたら、本当に一等が当たった。
その後に起きるはずだった転倒も、道を変えたら避けられた。
そんな話をしたところで、誰が信じる。
いや、信じられても困る。
あの本は、俺だけが知っていればいい。
「そういえば、お兄ちゃんさ」
さっきまで喧嘩していた司が、何事もなかったように箸を動かしながら言った。
「何」
「商店街に名前あったよ」
昌志は少しだけ眉を動かした。
「名前?」
「うん。福引きの当選者のところ。岐阜昌志って貼ってあった」
「ああ……」
そういえば、一等を引いたあと、名前と連絡先を書かされた。
景品の受け渡し確認とか、商店街の記録とか、そんな説明をされた気がする。
あの時は金色の玉と商品券に気を取られていて、深く考えていなかった。
司は今年、高校に入ったばかりの一年生だ。
昌志より二つ下。
昔は昌志の後ろをついてくるだけだったのに、最近は妙に目ざとい。
制服が変わってから、少しだけ大人びたような顔をすることもある。
まあ、口の悪さは変わっていない。
「福引き当てたでしょ、お兄ちゃん」
「まあ、当てた」
「一等?」
「一等」
「すごいじゃん」
司が素直に驚いた顔をした。
母も目を丸くする。
「え、一等って本当?」
「商店街のやつだよ。商品券」
「いくら分?」
「一万円分」
「あら、本当にいいことあったじゃない」
母は納得したように笑った。
「だから最近、機嫌よかったのね」
「別に、そこまでじゃないって」
「一万円は大きいだろ」
父も少し感心したように言う。
「何に使うんだ?」
「まだ決めてない」
嘘だった。
もう少し使っている。
漫画を買ったし、コンビニでいつもなら選ばない少し高い飲み物も買った。
大した額ではないけれど、普段なら少し迷うものを、迷わず買った。
それだけで気分がよかった。
司がじっと昌志を見ている。
「最近ちょっと買ってるなって思ったけど、それで買ってるんだ」
「別にちょっとだけだろ」
「ちょっとかなあ」
「ちょっとだ」
「まあ、福引きならいいけど」
「なんだよ、その言い方」
「いや、急にお金持ちになったら怪しいじゃん」
「一万円の商品券で金持ち扱いするな」
「お兄ちゃんにしては金持ちだよ」
「うるさい」
司が笑う。
母もつられて笑った。
父は味噌汁を飲みながら、少しだけ肩を揺らしている。
普通の会話だった。
どこにでもある家族の夕飯。
けれど、昌志の胸の中には、さっきからずっと小さな熱があった。
商店街に名前が貼られていた。
家族に福引きのことを知られた。
それでも、それ以上は何も知られていない。
黒い本のことは、誰も知らない。
あの本のおかげで福引きを当てたことも。
あの本のおかげで転倒を避けたことも。
全部、昌志だけが知っている。
「でも、ちゃんと大事に使いなさいよ」
母が言った。
「分かってる」
「一万円って、使おうと思えばすぐなくなるんだから」
「分かってるって」
昌志はそう答えながら、内心で少しだけ笑っていた。
一万円。
たしかに大きい。
けれど、もう俺は知っている。
本の目次には、まだ先があった。
四月二十日。
落とし物を届けて礼を受け取った日。
四月二十一日。
財布をなくした日。
良いことも、悪いことも、まだ書かれている。
良いことは拾えばいい。
悪いことは避ければいい。
それができるなら、一万円で終わるはずがない。
「お兄ちゃん、今また変な顔してる」
司が言った。
「してない」
「してる。何かたくらんでる顔」
「たくらんでない」
「怪しい」
「怪しくない」
「お母さん、お兄ちゃん怪しいよね」
「うーん、ちょっと楽しそうではあるわね」
「楽しそうなのはいいことだろ」
昌志がそう言うと、父が軽く笑った。
「まあ、いいことがあったなら素直に喜んでおけばいい」
父はそう言って、焼き魚を口に運んだ。
素直に喜ぶ。
それでいいのだと思った。
俺は何も悪いことをしていない。
福引きを引いただけだ。
その前に、未来らしいものが書かれた本を読んだだけだ。
それだけで一等が当たった。
なら、喜んでもいい。
***
食事を終えると、昌志は自分の部屋へ戻った。
机の引き出しを開ける。
黒い本がある。
その隣には、商品券の封筒。
昌志は封筒を取り出し、中身を確認した。
千円の商品券が何枚か減っている。
それでも、まだ十分残っていた。
ただの紙なのに、見ているだけで気分がよくなる。
次に、黒い本を手に取った。
表紙は相変わらず黒い。
『僕はまだ、この本を書いていない』
変な題名だ。
でも、最初に見た時ほど気味悪くはなかった。
昌志は表紙を軽く叩いた。
「助かってるよ」
声に出してから、自分でも少し笑った。
本に礼を言うなんて、どうかしている。
けれど、本当に助かっていた。
福引きで一等を当てた。
雨で滑る未来を避けた。
家族には、ただ運が良かっただけだと思われている。
全部うまくいっている。
昌志は椅子に座り、本を開いた。
目次を見る。
四月二十日 落とし物を届けて礼を受け取った日。
四月二十一日 財布をなくした日。
四月二十八日 知らない女に声をかけられた日。
五月二日 僕が初めて、この本を捨てようとした日。
五月二日。
その文字だけは、また少し気になった。
未来の俺は、どうしてこの本を捨てようとしたのだろう。
やはり怖くなったのか。
使い方を間違えたのか。
それとも、俺がまだ知らない何かがあるのか。
考えかけて、やめた。
今はまだ、分からない。
分からないことを考えるより、分かっていることを使えばいい。
少なくとも、今のところこの本は俺の味方だ。
百円で買った、最高に使える本。
昌志はそう思いながら、四月二十日のページに指をかけた。
次は、落とし物を届けて礼を受け取った日。
福引きより、もっと大きなものが手に入るかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥がまた少し熱くなった。
怖さは、もうかなり薄れていた。
代わりにあったのは、期待だった。
昌志はページをめくった。




