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第二話 雨で滑って転んだ日

 四月十七日


 商店街のざわめきの中で、俺はしばらく動けなかった。


 手には、薄い封筒。

 中には、商店街共通商品券一万円分。


 たった今、福引で一等を引いた。

 たった一回だけ回した抽選器から、金色の玉が出た。

 それは、黒い本に書かれていた通りだった。


 ――四月十七日。

 ――僕はこの日、駅前の商店街で福引を引いた。

 ――一等だった。

 ――商品券一万円分。

 ――それが、この本を信じるきっかけになった。


 俺は、鞄の中にある黒い本を意識した。

 信じるきっかけ。


 確かに、そうなった。

 偶然だと言い張るには、少し出来すぎている。

 一等の商品まで、金額まで、全部合っていた。


 百円の古本で、一万円分の商品券。

 普通なら、笑うところだ。

 でも、俺は笑えなかった。


 怖かったからではない。

 いや、怖くないわけではない。


 自分の未来らしいものが書かれている本なんて、まともなはずがない。

 それでも、今の俺の胸の奥には、恐怖よりも強いものがあった。


 これは使える。

 そう思ってしまった。


 そして、同時に思い出した。

 同じ四月十七日の目次には、もう一つの項目があった。

 四月十七日 雨で滑って転んだ日。


 俺は空を見上げた。

 灰色の雲が、駅前の上に広がっている。

 さっきよりも、少し低くなっているように見えた。


 雨が降りそうだった。

 俺は商店街の端に移動し、人の流れから少し外れた。

 テントの近くで本を開く気にはなれなかった。


 誰かに見られたところで、ただの本にしか見えないだろう。そう分かっていても、今は人の目が気になった。


 商店街の屋根の下。

 閉まっている靴屋の前で、俺は鞄から黒い本を取り出した。


 四月十七日。

 雨で滑って転んだ日。

 その章を開く。


 ――福引で一等を引いたあと、僕は駅南口へ抜ける近道を通った。

 ――商店街の裏手にある、古いコンクリートの階段だった。

 ――雨が降り始めていて、二段目の端が濡れていた。

 ――僕はそこに足を乗せ、滑った。

 ――膝を強く打ち、その痛みでしばらく動けなかった。


 場所まで書いてある。

 駅南口へ抜ける近道。


 商店街の裏手にある古いコンクリートの階段。

 二段目の端。

 そこまで分かっているなら、避けるのは簡単だった。


「……親切すぎるだろ」

 俺は小さく呟いた。


 つまり、その道を通らなければいい。

 駅南口へ抜ける必要なんてない。

 少し遠回りして、大通りから帰ればいいだけだ。


 福引で一等を引く。

 雨で濡れた階段には近づかない。

 良いことだけ拾って、悪いことは避ける。


 それだけだ。


 本を閉じた時、ぽつ、と商店街の屋根が鳴った。

 雨だった。

 ぽつ、ぽつ、と音が増えていく。


 通りを歩いていた人たちが、少しずつ足を速める。

 傘を持っていない学生が、笑いながら軒先へ走り込んでくる。

 本当に降ってきた。


 俺は、笑いそうになった。

 福引だけじゃない。

 雨まで、本に書かれていた通りだ。


 ここまで来ると、もう偶然ではない。

 俺は封筒を鞄の奥にしまい、チャックを閉めた。


 商品券一万円分。

 絶対になくしたくない。


 そして、絶対に転びたくもない。

 商店街の裏手へ続く細い通路が、少し先に見えた。

 あの先に、駅南口へ抜ける近道がある。

 たぶん、古いコンクリートの階段もそこだ。


 普段なら、何も考えずに通っていたかもしれない。

 でも今日は違う。

 俺はその通路に背を向けた。


 大通りへ出る道を選ぶ。

 遠回りだ。

 信号もある。

 人も多い。


 それでも、階段で膝を打つよりはずっといい。

 雨は少しずつ強くなっていった。

 制服の肩が濡れる。

 髪にも雨が当たる。


 でも、それくらいはどうでもよかった。

 俺は今、未来に書かれていた不幸を避けている。

 その感覚が、妙に気持ちよかった。


 駅前の大通りに出ると、車の音が近くなった。

 水を跳ねるタイヤの音。

 傘を差した人たちの足音。

 信号機の電子音。


 全部、いつも通りの町の音だ。

 だけど俺だけは、少し違う場所を歩いている気がした。

 この先に何が起きるか、少しだけ知っている。


 そして、それを変えられる。

 そんなことを考えながら、俺は信号を待った。


 ふと、商店街の裏手へ続く通路の方を見た。

 会社員らしい男が一人、足早にその奥へ入っていくのが見えた。

 黒い鞄を肩にかけ、傘は持っていない。

 革靴だった。


 あの階段を通るのだろうか。

 少しだけ気になった。


 でも、本に書かれていたのは俺のことだ。

 俺が滑って、膝を打つ。

 そう書いてあった。

 あの男がどうなるかまでは知らない。


 俺には関係ない。

 信号が青に変わった。

 俺は大通りを渡った。


 途中で膝に視線を落とす。

 当然、痛くない。

 転んでいないのだから、当たり前だ。


 当たり前のことなのに、それが少し誇らしかった。

 コンビニの前を通り、歩道橋の下を抜ける。


 階段のある道には近づかない。

 駅の地下通路にも入らない。

 段差が少なく、人通りの多い道だけを選んだ。


 雨は本降りになっていた。

 家に着く頃には、制服の肩がかなり濡れていた。

 靴下も少し湿っている。

 でも、それだけだった。


 膝は痛くない。

 鞄の中の商品券も無事。

 財布もある。

 黒い本もある。

 玄関で靴を脱ぎながら、俺は小さく息を吐いた。


「……勝った」


 何に勝ったのかは分からない。

 未来に、か。

 本に、か。


 それとも、ただ雨で濡れた階段に、か。

 でも、確かに勝った気がした。


 部屋に戻ると、俺はすぐに鞄を開けた。

 封筒を取り出す。

 中には、商店街共通商品券一万円分。

 間違いなくある。


 次に、黒い本を取り出した。

 机の上に置き、四月十七日のページを開く。


 雨で滑って転んだ日。

 文章は、さっき読んだ時と同じだった。


 ――福引で一等を引いたあと、僕は駅南口へ抜ける近道を通った。

 ――商店街の裏手にある、古いコンクリートの階段だった。

 ――雨が降り始めていて、二段目の端が濡れていた。

 ――僕はそこに足を乗せ、滑った。

 ――膝を強く打ち、その痛みでしばらく動けなかった。


 俺は自分の膝を軽く叩いた。

 痛くない。

 何ともない。


 書かれていた不幸は、起きなかった。

 俺が避けたからだ。


「なんだよ」

 思わず笑いが漏れた。

 簡単じゃないか。


 良いことは、そのままなぞる。

 悪いことは、書いてある場所を避ける。

 たったそれだけで、福引の一等だけを手に入れて、転倒は避けられる。

 こんなもの、攻略本みたいなものだ。


 俺は目次のページを開いた。

 四月二十日 落とし物を届けて礼を受け取った日。

 四月二十一日 財布をなくした日。

 四月二十八日 知らない女に声をかけられた日。

 五月二日 僕が初めて、この本を捨てようとした日。


 五月二日。

 僕が初めて、この本を捨てようとした日。

 その文字を見て、俺は首を傾げた。

「なんで捨てようとしたんだよ」


 こんなに使えるのに。

 良いことも悪いことも、先に分かる。


 しかも、実際に変えられる。

 なら、捨てる理由なんてない。


 未来の俺は、何をやっているのだろう。

 もしかして、怖くなっただけなのか。

 それとも、使い方が下手だったのか。


 良いことを拾って、悪いことを避ける。

 ただそれだけなのに。


「未来の俺、頭悪いんじゃないのか?」


 口に出してから、少し妙な気分になった。

 未来の俺を馬鹿にしている。


 つまり、自分を馬鹿にしている。

 でも、その時の俺は、それすら少し面白かった。

 今の俺は、少なくとも未来の俺よりうまくやれている。


 福引は当てた。

 転倒は避けた。

 百円の本で、一万円分の商品券。


 怪我はなし。

 完璧だった。


 俺は商品券の封筒を机の引き出しにしまった。

 黒い本も、その隣に置く。

 引き出しを閉める直前、もう一度だけ表紙を見る。


『僕はまだ、この本を書いていない』


 変な題名だ。

 けれど今は、その題名すら少し都合よく思えた。


 まだ書いていないなら、変えられる。

 そういう意味にも見える。


 俺は引き出しを閉めた。

 部屋の外では、雨がまだ窓を叩いている。

 その音を聞きながら、俺は濡れた制服を脱いだ。


 膝は、最後まで痛くならなかった。


 だからこの時の俺は、本気で思っていた。


 この本は、俺の未来を壊すものではない。


 俺の未来を、うまく選ばせてくれるものなのだと。

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