第一話 駅前の福引で一等を引いた日
四月十七日。
朝起きて最初に見たのは、机の上に置いた黒い本だった。
昨日の夜、俺は何度も本を閉じようとした。
閉じて、机の引き出しにしまって、もう見なかったことにする。
そうしようと思った。
けれど、できなかった。
ベッドに入ってからも、あの一文が頭から離れなかった。
――この本を買って、開いたことが、僕の人生で最初にして最大の間違いだった。
最初にして最大の間違い。
百円の古本を買っただけで、人生最大の間違い。
そんな大げさな話があるか。
そう思う。
思うのに、完全には笑えなかった。
昨日、あの本には俺が古本屋で本を買ったことが書かれていた。
店の場所。
かすれた看板。
百円の値札。
著者名に「岐阜」とだけ書かれていたこと。
俺がそれを珍しい名字だと思って手に取ったこと。
さらに、俺の名前まで書かれていた。
岐阜昌志。
表紙には名字しかなかったのに、本文には俺のフルネームがあった。
あれを偶然で片づけるのは、さすがに無理がある。
俺は椅子に座り、黒い本を開いた。
昨日読んだページの次に、目次があった。
毎日の記録ではなかった。
日付と、短い題名だけが並んでいる。
四月十六日 初めて古本屋で本を買った日
四月十七日 駅前の福引で一等を引いた日
四月十七日 雨で滑って転んだ日
四月二十日 落とし物を届けて礼を受け取った日
四月二十一日 財布をなくした日
四月二十八日 知らない女に声をかけられた日
五月二日 僕が初めて、この本を捨てようとした日
俺は、二つ目の項目で目を止めた。
四月十七日。
今日だ。
駅前の福引で一等を引いた日。
「……福引?」
思わず声が出た。
そういえば、駅前の商店街で抽選会をやっていた気がする。
赤い旗が並んでいた。
大売り出しだか、春の感謝祭だか、そんな文字が書かれていた。
普段なら、気にも留めなかった。
俺はその章を開いた。
――四月十七日。
――僕はこの日、駅前の商店街で福引を引いた。
――一等だった。
――商品券一万円分。
――それが、この本を信じるきっかけになった。
商品券一万円分。
その文字だけが、妙にはっきり見えた。
一万円。
高校生にとって、一万円は普通に大金だ。
欲しいものはいくつかある。
新しいイヤホンも欲しいし、読みたい漫画もある。少し足せば、ゲームだって買える。
ただ、その下には続きがあった。
――その帰り道、僕は雨で濡れた階段を踏み外し、膝を強く打った。
――あの時は、ただ少し運が悪かっただけだと思っていた。
――幸運と不幸が、同じ日に置かれていることに、僕はまだ気づいていなかった。
俺はページから目を離した。
膝を強く打つ。
嫌ではある。
痛いだろう。
でも、死ぬわけではない。
それに、これはまだ先の話だ。
福引で一等を引くかどうかさえ、本当かどうか分からない。
もし外れたら、それで終わり。
昨日の本は、偶然と悪趣味な作り話が重なっただけ。
そう考えればいい。
けれど、もし当たったら。
もし、本当に一等が出たら。
俺は本を閉じた。
怖い。
怖いはずだった。
なのに、胸の奥で別の感情が動いていた。
これ、本当に使えるんじゃないか。
良いことは、その通りにする。
悪いことは、書いてあるなら避ければいい。
福引で一等を引く。
帰り道の階段には近づかない。
それだけだ。
「……試すだけだ」
俺は小さく言って、制服に着替えた。
学校へ行っている間も、本のことは頭から離れなかった。
授業中、教師の声が遠く聞こえる。
ノートは開いているのに、文字が頭に入ってこない。
昼休み、俺は購買でパンと飲み物を買った。
その時、レシートを捨てずに財布へ入れた。
商店街の抽選会は、たしか五百円以上の買い物で一回引ける。
昨日、旗の横にそんなことが書かれていた気がする。
対象店舗かどうかは分からない。
でも、もし使えたら一回は引ける。
たった一回。
普通なら当たるはずがない。
放課後、俺はまっすぐ駅前へ向かった。
商店街の入口には、赤い旗が並んでいた。
大売り出し抽選会。
白い文字でそう書かれている。
テントの下に、ガラガラと回す抽選器が置かれていた。横には景品の一覧が貼ってある。
一等。
商店街共通商品券一万円分。
本と同じだった。
心臓が、少し速くなる。
「抽選ですか?」
テントにいたおばさんが、俺に笑いかけた。
「あ、はい。これで……」
俺は昼休みに買ったパンと飲み物のレシートを出した。
おばさんはそれを見て、頷いた。
「一回ですね」
一回。
たった一回。
俺は抽選器の取っ手を握った。
当たらなかったら、それで終わりだ。
ただの偶然。
ただの気味の悪い本。
俺は今日、少し変な期待をして、外れくじを引くだけ。
その方が普通だ。
その方がいい。
でも、当たってほしいと思っている自分もいた。
百円の本で、一万円分の商品券が手に入る。
しかも、その後に起きる不幸も先に分かっている。
そんな都合のいい話が、本当にあるなら。
俺は取っ手を回した。
がらがら、と木の音が鳴る。
白い玉が出る。
そう思っていた。
けれど、受け皿に落ちたのは、金色の玉だった。
一瞬、音が消えた。
おばさんが目を丸くする。
「あら」
それから、手元の鐘を鳴らした。
からんからんからん、と高い音が商店街に響く。
「一等です! おめでとうございます!」
周囲にいた人たちが振り返った。
俺は、受け皿の上の金色の玉を見ていた。
本当に当たった。
おばさんが封筒を差し出す。
「商店街共通商品券、一万円分です。おめでとうございます」
「あ……ありがとうございます」
俺は封筒を受け取った。
薄い封筒なのに、やけに重く感じた。
商店街のざわめきが戻ってくる。
人の声。
自転車のベル。
店先から流れる音楽。
全部いつも通りなのに、俺だけが別のものを見ている気がした。
鞄の中には、黒い本が入っている。
そこに書かれていた通り、俺は一等を引いた。
商品券一万円分。
つまり、この本は本物だ。
俺は封筒を握りしめた。
怖い。
怖いはずだった。
でも、その時、胸の奥に最初に浮かんだのは恐怖ではなかった。
使える、この本は、使える。
そう思ってしまった。




