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プロローグ 百円の本

 その古本屋に入ったのは、本当にただの気まぐれだった。


 駅前から家へ帰る途中、いつもは通らない細い路地に入った。理由は特にない。近道になるかもしれないと思ったのかもしれないし、ただ、いつもの道に飽きていただけかもしれない。



 路地の奥に、その店はあった。



 古い木の看板が出ている。けれど文字はかすれていて、店名はほとんど読めなかった。ガラス戸の向こうには、天井近くまで積まれた本棚が見える。


 営業しているのかどうかも怪しかったが、俺はなんとなく戸に手をかけた。

 からん、と乾いた鈴の音が鳴った。

 中は狭かった。


 左右の棚が近く、奥へ進むだけで肩が本に触れそうになる。古い紙の匂いと、少し湿った木の匂いが混ざっていた。


 店の奥には、店主らしい男が座っていた。


 五十代か、六十代くらいだろうか。灰色の髪を後ろに撫でつけ、古びた丸眼鏡をかけている。男はカウンターの奥で本を読んでいた。


「いらっしゃい」

 顔を上げずに、男が言った。


「あ、どうも」

 俺――岐阜昌志は、小さく会釈して棚の間へ入った。


 欲しい本があったわけではない。


 ただ適当に背表紙を眺めていた時、一冊の黒い本が目に入った。

 棚から少しだけ飛び出している。

 背表紙には、白い文字で題名が印刷されていた。


『僕はまだ、この本を書いていない』


 妙な題名だと思った。

 俺はその本を手に取った。


 表紙も黒かった。絵はない。帯もない。中央に題名があり、その下に著者名がある。

 そこには、たった二文字だけ書かれていた。

 岐阜。


「……岐阜?」


 思わず声が出た。

 岐阜という名字は珍しい。


 少なくとも、俺は親戚以外で同じ名字の人間に会ったことがない。自己紹介をすれば、大抵一度は聞き返される。


 だから、著者名にその二文字を見つけた時、妙に気になった。

 名前までは書かれていない。

 ただ、岐阜。


 ペンネームかもしれない。名字だけで本を出す作家もいるのだろう。

 裏表紙を見る。

 あらすじはない。出版社名もない。バーコードもない。


 右下に、小さな値札だけが貼ってあった。

 百円。


 安い。

 百円なら、まあ買ってもいいか。

 そう思った。


 珍しい名字が同じだったから。

 題名が少し気になったから。

 それだけの理由で買うには、ちょうどいい値段だった。


「これ、ください」

 俺が本をカウンターに置くと、店主はそこで初めて顔を上げた。


 黒い本を見る。

 男の眉が、ほんの少しだけ動いた。


 まるで、こんな本が自分の店にあっただろうか、と考えているみたいだった。

 店主は表紙を見て、値札を見た。


「……百円だね」


「はい」

 俺は財布から百円玉を出した。


 店主はそれを受け取ったあと、もう一度だけ本に目を落とした。何か言いたそうにも見えたが、結局何も言わなかった。


「袋は?」

「あ、大丈夫です」

「そうか」


 差し出された本を受け取る。

 紙の本なのに、少しだけ冷たかった。

 店を出る時、また鈴が鳴った。


 からん。

 振り返ると、店主は俺ではなく、さっき本が刺さっていた棚の方を見ていた。

 その顔は、不思議そうだった。


 家に帰ったのは、夕方の少し前だった。

 母はまだ仕事から戻っていない。妹は部活。父は単身赴任中。


 いつもの、静かな家だった。

 俺は制服の上着だけ脱いで、自分の部屋に入った。鞄を机の横に置き、ベッドに寝転がる。


 スマホを開こうとして、やめた。

 古本屋で買った本が気になっていた。


 黒い表紙。

 変な題名。

 著者名の、岐阜という二文字。

 俺は仰向けのまま、本を開いた。


 一ページ目。

 そこには、こう書かれていた。


 ――僕は、初めて入った古本屋でこの本を買った。


 俺は瞬きした。

 偶然だろう。


 古本屋で本を買うところから始まる小説なんて、ありそうだ。

 そう思って、次の行を読んだ。


 ――著者名には、ただ一言、岐阜とだけあった。

 ――珍しい名字だった。

 ――そして、それは僕の名字でもあった。


 背中が冷たくなった。

 俺は体を起こし、もう一度最初から読んだ。


 そこには、さっきの古本屋のことが書かれていた。

 駅前から外れた細い路地。

 かすれて読めない看板。

 古い紙と湿った木の匂い。


 黒い本。

 百円の値札。

 店主が、不思議そうにその本を見たこと。


 全部、合っていた。

 俺が見たことだけじゃない。

 店主が何を思ったのかまで、まるで見ていたみたいに書かれている。


「……なんだよ、これ」


 声が、思ったより小さく出た。

 ページの下に、一文があった。



 ――この時の僕――岐阜昌志は、まだ知らなかった。



 そこに、俺の名前があった。

 表紙には、岐阜としか書かれていなかったのに。


 本文には、岐阜昌志と書かれていた。


 心臓が強く跳ねた。

 俺は本を閉じようとした。


 でも、最後の一行だけが目に入ってしまった。



 ――この本を買って、開いたことが、僕の人生で最初にして最大の間違いだった。



 部屋の中は、いつも通り静かだった。


 それなのに俺には、自分の人生が、今この瞬間から少しだけ別のものに変わったような気がした。

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