第79話 百年言っても分からない
七月三日の昼休み。
昌志は圭佑と一緒に昼食を取っていた。
午前中は、何も起きなかった。
少なくとも、昌志に分かる範囲では。
黒い本に書かれていた小さな遅れは、避けられたのかもしれない。
何も起きなかったということは、たぶんそういうことなのだろう。
昌志はそう考えることにして、購買で買ったパンをかじった。
圭佑は向かいで弁当を開いている。
いつも通りの昼休みだった。
けれど、昌志はふと、朝のことを思い出した。
「そういえばさ」
「何だよ」
「今日も司にひどいこと言われた」
「いつも言われてるじゃん」
「だから、今日もなんだよ」
圭佑は弁当の箸を止めた。
「今度は何したんだ?」
「何もしてない」
「お前がそう言う時は、だいたい何かしてる」
「本当に何もしてない。ちょっと見ただけだ」
「何を」
「司の制服」
圭佑は少し黙った。
それから、ゆっくりと昌志を見る。
「……お前さ」
「違うぞ」
「まだ何も言ってないだろ」
「変な意味じゃない。セーラー服って最近だと少し珍しいなと思っただけだ」
「ああ」
圭佑はそこで思い出したようにうなずいた。
「司ちゃんって、創女だっけ?」
「そう」
「創女って、セーラー服なんだっけ?」
「そうそう。今朝、眠そうな顔でリビングにいてさ。制服着てたから、ちょっと珍しいなと思って見てたんだよ」
「じろじろ?」
「じろじろじゃない」
「じゃあ、どのくらい」
「ちょっとだよ」
「司ちゃんからしたら、じろじろだったんだろ」
「違う。だから、俺は最近セーラー服って珍しいなと思っただけなんだ」
「それを本人の前で見てたんだな」
「見てたっていうか、目に入っただけだ」
「目に入っただけで、妹に気持ち悪いって言われたのか」
「そうなんだよ」
昌志は少し身を乗り出した。
「ひどくないか? あいつ、お母さんに向かって『お兄ちゃんが気持ち悪い』とか言ったんだぞ」
圭佑は一瞬だけ黙った。
次の瞬間、噴き出した。
「笑うなよ」
「いや、無理だろ」
「こっちは傷ついてるんだけど」
「お前の家、相変わらず面白いな」
「面白くない」
「面白いだろ。朝から妹の制服見て気持ち悪いって言われて、母親に止められる兄」
「言い方に悪意がある」
「事実だろ」
「俺は服が珍しいと思っただけだ」
「たぶん、服じゃないんだよ」
「何が」
「目だろ」
「目?」
「昌志の見る目が気持ち悪かったんじゃないか?」
「そんなわけないだろ」
昌志は思わず声を強めた。
「俺、今だってあちこち見てるけど、誰にもそんなこと言われないぞ」
圭佑はまた笑った。
「そこで本気で反論するのがすごいな」
「何がだよ」
「普通、あちこち見てるとか言わない」
「いや、見るだろ。人間なんだから」
「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話だよ」
「お前の視線の問題だろ」
「意味が分からない」
昌志は首をかしげた。
圭佑は肩を震わせながら、弁当を食べ直す。
「司ちゃんも大変だな」
「何で司が大変なんだよ。ひどいこと言われたのは俺だぞ」
「お前が分かってないからだろ」
「分かってる」
「分かってない」
「そもそも、美月ちゃんにはそんなこと言われたことないし」
その瞬間、圭佑の箸が止まった。
「美月?」
「ああ。美月ちゃんも女の子だろ。美月ちゃんには、俺の目が気持ち悪いなんて言われたことない」
圭佑は何とも言えない顔をした。
それから、深いため息をつく。
「美月はまた別だろ」
「何が別なんだよ」
「全部だよ」
「同じ女の子だろ」
「そういう分類で考えるな」
「分類?」
「もういい」
「またそれかよ」
「お前には説明しても無駄な気がする」
「失礼だな」
「事実だ」
圭佑は少し呆れた顔で昌志を見る。
「美月がお前にそういうことを言わないのは、別にお前の視線が普通だからじゃない」
「じゃあ何だよ」
「分かってないな」
「だから何を」
「百年言っても分からなそうだな、お前」
「百年は言いすぎだろ」
「いや、たぶん百年でも無理だ」
「そこまでか?」
「そこまでだ」
昌志は納得できなかった。
司はすぐに文句を言う。
美月は言わない。
その違いがどこにあるのか、昌志にはよく分からなかった。
同じ女の子なのだから、嫌なら嫌と言うはずだ。
そう思ったが、圭佑は完全に諦めたような顔をしている。
「でもさ」
「まだ続けるのか」
「だって、話の途中だろ」
「もう終わりでいい」
「よくないだろ。結局、俺の何が悪かったのか分かってない」
「だから、そこが悪い」
「何だよ、それ」
圭佑は時計を見た。
「もうすぐ昼休み終わるぞ。教室戻る」
「まだ話の途中なんだけど」
「その話は百年かかるから無理だ」
「だから百年は言いすぎだって」
「お前にはちょうどいい」
圭佑は弁当箱を片づけ始めた。
昌志も仕方なく、パンの袋をまとめる。
結局、司がなぜあそこまで文句を言ったのかは分からなかった。
セーラー服が珍しかった。
それを少し見ただけ。
昌志としては、それ以上の意味はない。
それなのに、司には気持ち悪いと言われた。
圭佑には目が悪いと言われた。
よく分からない。
けれど、昼休みは終わる。
昌志は圭佑と一緒に教室へ戻った。
午後の授業は、普通に始まった。
教師の声。
黒板に書かれる文字。
ノートを取る音。
窓の外では、雲がゆっくり流れている。
何も起きない時間だった。
けれど、昌志の頭の中には、朝の司の言葉と、圭佑の笑い声が少しだけ残っていた。
それから、もう一つ。
黒い本の文章。
七月三日、夕方。
街中で、彼女と会う。
彼女は楽しそうに話す。
けれど、ひとつだけ、気になっていることがある。
その相手が誰なのか。
何を気にしているのか。
それは、まだ分からない。
授業が進む。
時間が過ぎる。
やがて、放課後が近づいてきた。
まずは、美月と一緒に文芸部へ行く。
入部届を出す。
そのあと、街中へ向かう。
黒い本に書かれていた「彼女」が誰なのか
は、まだ分からない。
けれど、予定はもう決まっている。
昌志はそう考えながら、最後の授業が終わるのを待った。




