第78話 少しだけ早く動く
七月三日の朝。
目覚ましが鳴る前に、昌志は目を開けた。
眠気は残っている。
けれど、布団の中でだらだらしているわけにはいかなかった。
黒い本には、少しだけ早く動けば、小さな遅れを避けられると書かれていた。
何が遅れるのかは分からない。
電車なのか。
信号なのか。
学校へ着く時間なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
分からないからこそ、早く動くしかない。
昌志は布団から起き上がった。
昨日のうちに鞄の中身は確認してある。
教科書も筆箱も入っている。
忘れ物は、たぶんない。
それでも、昌志はもう一度だけ鞄を開けた。
中を確認する。
何も変わっていない。
それを見て、少しだけ息を吐いた。
今日は、放課後に文芸部へ行く。
美月と一緒に、入部届を出すことになっている。
昌志自身も、入ることになった。
美月が条件として出したからだ。
文芸部を残すため。
雪の困っていることを少しでも軽くするため。
そう考えれば、別に悪いことではない。
ただ、まだ実感はなかった。
自分が文芸部に入る。
しかも、美月と一緒に。
それを司に知られたら、また何か言われる気がした。
昌志は鞄を閉じる。
それから、机の上の黒い本を見た。
閉じられた黒い表紙は、何も言わない。
朝は、少し早く動く。
夕方は、街中で彼女と会う。
彼女が気にしていることに気づけるかどうか。
その二つだけが、頭に残っていた。
「……まずは朝だな」
昌志は小さく呟いて、部屋を出た。
階段を下りる。
いつもより少し早いせいか、家の中はまだ静かだった。
けれど、リビングの明かりはついていた。
昌志が入ると、テーブルの前に司がいた。
眠そうな顔で、椅子に座っている。
制服を着ていた。
白い襟に、紺色の線が入っている。
いわゆるセーラー服だった。
昌志は、少しだけ目を止めた。
「何?」
司が低い声で言った。
「いや」
「今、見てたでしょ」
「見てたっていうか」
「何」
「セーラー服って、最近だと少し珍しいなと思って」
司の目が、さらに細くなった。
「朝から妹の制服をじろじろ見る兄って、かなり終わってると思うんだけど」
「じろじろは見てない」
「見てた!」
「見てない」
「お母さん」
司が台所の方へ声を投げた。
「お兄ちゃんが気持ち悪い!」
「いきなりそこまで言うなよ」
台所から母が顔を出した。
「朝から喧嘩しないの」
「喧嘩じゃない。被害報告」
「被害って何だよ!」
「精神的被害」
「大げさだろ」
「大げさじゃない。眠い朝に兄が制服を見てきた。これはかなり重い」
「そんな言い方するなよ」
「事実だから」
母は苦笑しながら、二人の前に朝食を置いた。
「はいはい。二人とも食べなさい。昌志、今日は早いのね」
「うん。ちょっと早めに出る」
「何かあるの?」
「少しだけ」
昌志は曖昧に答えた。
黒い本のことは言えない。
文芸部のことも、今ここで言うと司が面倒な反応をしそうだった。
司は眠そうなまま、昌志を見る。
「何。朝から怪しいんだけど」
「怪しくない」
「早く出る時点で怪しい」
「いつも遅いみたいに言うな」
「いつもぎりぎりじゃん」
「そこまでじゃない」
「そこまでだよ」
母がもう一度、軽く手を叩いた。
「食べる」
「はい」
司は不満そうに返事をした。
昌志も黙って箸を取る。
いつもより早い朝食。
いつもと同じような司との言い合い。
けれど、昌志の頭の中には、黒い本の文章が残っていた。
少しだけ早く動く。
早く出れば、小さな遅れを避けられる。
その「小さな遅れ」が何なのか。
今のところ、分からない。
昌志は食事を終えると、すぐに立ち上がった。
「もう行くの?」
母が少し驚いたように言う。
「うん」
「本当に早いわね」
「たまには」
司がじっと見てくる。
「やっぱり怪しい」
「何でも怪しいって言うな」
「じゃあ何」
「別に」
「怪しい」
「もういい」
昌志は鞄を持った。
玄関で靴を履く。
後ろから司の声が飛んできた。
「転ばないようにね」
「何でだよ」
「早く出る時って、だいたい変なことするから」
「しない」
「どうだか」
昌志は返事をせず、玄関を出た。
外の空気は、まだ少し涼しかった。
朝の光が、道の端に薄く伸びている。
いつもより人が少ない。
それだけで、普段とは少し違う朝に見えた。
昌志は歩きながら、黒い本のことを考える。
少し早く動く。
それは、もうできている。
いつもより早く起きた。
朝食も早く済ませた。
司に絡まれたが、長引かせなかった。
家も早く出た。
これでいいはずだ。
けれど、何を避けたのかは分からない。
角を曲がる。
信号は青だった。
いつもなら、ちょうど赤に変わることもある。
けれど今日は、そのまま渡れた。
それが黒い本の言う「小さな遅れ」だったのかもしれない。
違うかもしれない。
昌志には判断できなかった。
駅へ向かう人の流れも、いつもより少しだけ穏やかだった。
急ぐ必要はない。
立ち止まる必要もない。
何も起きないまま、昌志は学校へ着いた。
教室には、まだ人が少なかった。
昌志は席に鞄を置く。
窓の外を見る。
早く来たせいで、教室の空気もまだ落ち着いていた。
黒い本の通りに動いた。
それで何かを避けたはずだ。
けれど、避けたものが見えないと、何とも言えない。
昌志がそんなことを考えていると、教室の入口から圭佑が入ってきた。
圭佑は昌志を見るなり、少しだけ眉を上げる。
「早いな」
「たまには」
「お前が早いと、逆に心配になるな」
「司にも似たようなこと言われた」
「だろうな」
圭佑は自分の席に鞄を置いた。
それから、少し声を落とす。
「美月、今日のこと楽しみにしてたぞ」
「今日?」
「文芸部。入部届を出すんだろ」
「ああ」
昌志はそこでようやく、朝から頭の隅に置いていた予定をはっきり思い出した。
放課後。
美月と一緒に文芸部へ行く。
入部届を出す。
矢部に渡す。
それで、昌志も美月も文芸部員になる。
「楽しみにしてたのか?」
「朝から妙に落ち着かなかった」
「そんなに?」
「そんなに」
圭佑は呆れたように言った。
「お前、本当に分かってないな」
「何が?」
「もういい」
「またそれかよ」
「お前に説明しても無駄な気がする」
「失礼だな」
「事実だ」
圭佑はそこで少し表情を変えた。
「でも、ありがとな」
「何が」
「美月のこと」
「別に。文芸部に入るかどうかは、美月ちゃんが決めたことだろ」
「それでも、お前がいたから入る気になったんだと思う」
「そうなのか?」
「そうだよ」
圭佑は短く答えた。
それ以上は言わなかった。
昌志も、深く聞かなかった。
美月が楽しみにしている。
そのことだけは、分かった。
放課後に文芸部へ行く予定が、少しだけ重くなった気がした。
嫌な重さではない。
けれど、軽くもない。
人に期待されるというのは、思ったより疲れる。
昌志は席に座り、机の中へ教科書を入れた。
朝の予告は、たぶん回避できた。
小さな遅れ。
それが何だったのかは分からない。
信号かもしれない。
司との言い合いかもしれない。
家を出る時間そのものかもしれない。
何も起きなかったのなら、それでいい。
どうせ、避けなければ少し面倒なことになっていたのだろう。
黒い本がそう書いたのだから。
昌志はそう考えることにした。
やがて教室に人が増えてくる。
いつもの朝になっていく。
黒い本のことも、文芸部のことも、夕方の「彼女」のことも、消えるわけではない。
けれど、授業は普通に始まる。
教師が教室に入り、出席を取り、黒板に文字を書いていく。
昌志はノートを開いた。
午前中は、何も起きなかった。
少なくとも、昌志に分かる範囲では。
ただ普通に授業を受けている間も、頭の隅にはずっと、黒い本の文章が残っていた。
七月三日、夕方。
街中で、彼女と会う。
彼女は楽しそうに話す。
けれど、ひとつだけ、気になっていることがある。
その相手が誰なのか。
何を気にしているのか。
それはまだ、分からないままだった。




