第77話 彼女が気にしていること
七月二日の夜。
圭佑の家を出た時には、もう夜になっていた。
外の空気は、昼間より少しだけ冷えている。
昌志はゆっくりと歩きながら、今日一日のことを思い返していた。
文芸部に行った。
佐藤雪と再会した。
成沢雪だった頃のことを、少しだけ思い出した。
美月を文芸部に誘うことになった。
そして、圭佑の家で、美月が文芸部に入ることになった。
ただし、条件つきで。
昌志も一緒に入ること。
それを言われた時、美月は真剣だった。
昌志としては、美月が一人で知らない部活に入るより、自分も一緒にいた方が安心するのだろうと思った。
圭佑には、また呆れた顔をされた。
たぶん、何かを間違えているのだろう。
けれど、文芸部は助かる。
雪も少しだけ安心していた。
美月も、嬉しそうに見えた。
なら、それでいいのかもしれない。
そう思う一方で、妙に疲れていた。
何か大きな事件があったわけではない。
誰かを助けるために走り回ったわけでもない。
それなのに、人の気持ちに触れすぎたような疲れが残っていた。
圭佑は何も知らない。
少なくとも、昌志はそういうことにしている。
けれど、前よりもずっと近いところにいる気がした。
家に着くと、玄関の明かりがついていた。
昌志は小さく息を吐き、扉を開ける。
「ただいま」
声はできるだけ普通に出した。
廊下の奥から母の声が返ってくる。
「おかえり。遅かったわね」
「圭佑の家に寄ってただけ」
「そう。ご飯は?」
「食べてきた」
「分かった。お風呂、空いてるからね」
「うん」
それだけ答えて、昌志は靴を脱いだ。
階段を上がる途中、司の部屋の前を通る。
扉は閉まっていた。
中から物音はしない。
昌志は一瞬だけ足を止めた。
今日のことを司に話したら、どうなるだろう。
文芸部に入ることになった。
しかも、美月と一緒に。
そう言えば、きっと面倒な反応をされる。
昌志はそう判断して、声をかけなかった。
そのまま自分の部屋へ入る。
鞄を床に置く。
部屋の明かりをつける。
机の上には、黒い本があった。
閉じられている。
ただそれだけなのに、そこだけが部屋の中で妙に目立っていた。
昌志はしばらく、その黒い表紙を見つめた。
気にならないわけではない。
けれど、今はまだ七月二日の夜だった。
黒い本が翌日のことをはっきり書き出すのは、日付が変わってからだ。
今開いても、白いページがあるだけだろう。
昌志は椅子に座りかけて、やめた。
明日は、少し早く家を出た方がいいかもしれない。
そんな予感だけはあった。
それに、放課後には美月と一緒に文芸部へ入部届を出しに行くことになる。
その予定は、もう決まっていた。
文芸部へ行けば、美月とは会う。
雪にも会うかもしれない。
だから、もし黒い本にまた誰かのことが出たとしても、それが誰なのかは簡単には分からない。
文芸部で会う相手なのか。
そのあと、街中で会う相手なのか。
それとも、まったく別の誰かなのか。
昌志は考えるのをやめ、先に鞄の中身を確認することにした。
教科書を入れ直す。
筆箱を確認する。
明日、慌てなくて済むように、机の横へ鞄を置く。
それから、もう一度だけ黒い本を見た。
黒い表紙は、何も答えなかった。
* *
午前零時を過ぎた。
部屋の中は静かだった。
家族の物音も、もうほとんどしない。
昌志は机の前に座り、黒い本へ手を伸ばした。
表紙に触れる。
指先に、少しだけ冷たい感触が残った。
ゆっくりと開く。
そして、目を細めた。
白かったページに、黒い文字が浮かび上がっていた。
紙の奥から、ゆっくりと染み出してきたように見えた。
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――七月三日、朝。
家を出る時、
少しだけ早く動く。
早く出れば、
小さな遅れを避けられる。
いつも通りに出れば、
少しだけ急ぐこと になる。
――七月三日、夕方。
街中で、
彼女と会う。
彼女は、
楽しそうに話す。
けれど、
ひとつだけ、
気になっていることがある。
昌志がそれに気づけば、
彼女は少しだけ安心する。
昌志が気づかなければ、
彼女はそのまま笑って別れる。
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昌志は、まず朝の文章を見た。
「少しだけ早く動く、か」
難しいことではない。
いつもより十分か十五分早く起きる。
朝食を早めに済ませる。
鞄はもう準備してある。
玄関で司に絡まれても、すぐに出られるようにしておく。
それくらいならできる。
小さな遅れ。
それが何を意味しているのかは分からない。
電車なのか、信号なのか、学校へ着く時間なのか。
けれど、早く動けば避けられると書いてある。
なら、明日の朝は早めに出ればいい。
昌志はそう決めて、もう一度黒い本へ視線を戻した。
「……彼女」
今度は、夕方の文章だった。
名前は書かれていなかった。
少し前なら、もっとはっきりしていた。
相手の名前。
場所。
時間。
そういうものが、もう少し分かりやすく書かれていた。
けれど、今は違う。
七月三日、夕方。
街中。
彼女。
それだけだった。
昌志はページを見つめる。
悪い内容ではない。
楽しそうに話す。
少しだけ安心する。
そこに、火事の時のような危険はない。
誰かが大きく傷つくような言葉もない。
ただ、ひとつだけ気になっていることがある。
その程度だった。
それでも、気になった。
彼女はそのまま笑って別れる。
その一文だけが、妙に引っかかる。
笑っているなら、周りから見れば普通だ。
楽しそうに話しているなら、なおさら分からない。
でも、黒い本は書いている。
気づけば、少しだけ安心する。
気づかなければ、そのまま笑って別れる。
つまり、見逃しても大きな事件にはならない。
けれど、気づいた方がいい。
そういうことなのだろう。
「誰だよ……」
昌志はページを見つめたまま、眉を寄せた。
遥かもしれない。
加藤あいかもしれない。
それとも、別の誰かかもしれない。
美月や雪の可能性も、ないとは言い切れなかった。
けれど、七月三日の放課後には、美月と一緒に文芸部へ入部届を出しに行く予定がある。
文芸部に行けば、雪にも会うかもしれない。
それはもう、決まっている予定だった。
だとしたら、黒い本がわざわざ「街中で」と書いている相手は、美月や雪ではないのかもしれない。
文芸部で会う誰かではなく、そのあと街中で会う誰か。
そう考えると、遥か、加藤あいか。
けれど、それだけとも限らない。
雪のように、知っているのに思い出していなかった相手が、まだ他にもいるのかもしれない。
中学の同級生。
昔、少しだけ話したことのある誰か。
顔を見れば思い出すのに、名前だけでは結びつかない誰か。
黒い本が「彼女」と書いている以上、昌志がまったく知らない相手ではないような気がした。
少なくとも、そう思いたかった。
予定があるからこそ、余計に分からない。
黒い本が書いている「彼女」が、文芸部の予定の先にいる誰かなのか。
それとも、予定の外で会う誰かなのか。
昌志には判断できなかった。
朝は、少し早く家を出る。
夕方は、街中に行く。
それで、誰かと会う。
そこで、何かに気づく。
書かれていることは、それだけだ。
昌志は黒い本を閉じた。
閉じても、文字は頭の中に残っていた。
彼女は、楽しそうに話す。
けれど、ひとつだけ、気になっていることがある。
それが誰のことなのか。
何を気にしているのか。
今の昌志には、まだ分からなかった。




