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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第76話 大事な話の中身

七月二日放課後。


■文芸部部室


 美月と会う約束はできた。


 五時頃、圭佑の家へ行く。


 そのことを伝えると、文芸部の部室ではまた少し笑いが起きた。


 昌志には、やっぱり理由が分からなかった。


 大事な話がある。


 君にしかできないことなんだ。


 そう言っただけだ。


 文芸部を助けられるかもしれない話なのだから、大事な話で間違っていない。


 美月にしかできないかもしれないことなのだから、それも間違っていない。


 なのに、圭佑も佐藤雪も、矢部たちも、どこかおかしそうにしている。


「で、どうするんだ?」


 圭佑が言った。


「どうするって?」


「俺の家に行くんだろ」


「ああ」


「俺とお前だけで行くのか?」


 昌志は少し考えて、佐藤雪を見る。


 文芸部の話をするなら、当事者がいた方がいい。昌志が説明するより、雪が話した方が早いこともある。


「雪も一緒に来た方がいいんじゃないか?」


 そう言うと、佐藤雪は少し驚いたように瞬きをした。


「私も?」


「ああ。元々文芸部の話だし」


「でも、急に行って大丈夫かな?」


「圭佑の家だろ」


「俺の家だからって、何でも大丈夫なわけじゃないぞ」


 圭佑が呆れた顔をする。


 けれど、すぐに肩をすくめた。


「まあ、雪もいた方が話は早いか」


「じゃあ、私も行くね」


 雪はそう言って、矢部たちを見る。


「少し行ってくるから」


「お願いします、雪先輩」


 矢部が真剣な顔で頭を下げた。


 大井と大葉も続く。


「お願いします」


「美月さん、入ってくれるといいですね」


「まだ分からないけどな」


 昌志が言うと、三人はなぜか微妙な顔をした。


「岐阜先輩が頼めば、大丈夫な気がします」


「何で?」


「何となくです」


「何となくで言うなよ」


 昌志がそう返すと、また小さく笑われた。


 やはり、理由は分からなかった。


■帰り道


 学校を出る頃には、夕方の空気になっていた。


 圭佑が前を歩き、昌志と雪が少し後ろを並んで歩く。中学の頃にも、こんなふうに三人で歩いたことがあった気がする。


 圭佑が先に進んで、昌志と雪が本の話をしながら後ろを歩く。


 その記憶は、少し曖昧だった。


 でも、完全には消えていなかった。


「何か、変な感じだな」


 昌志が言うと、佐藤雪がこちらを見る。


「何が?」


「中学の頃に戻ったみたいで」


「そうだね」


 佐藤雪は少しだけ笑った。


「でも、昌志君も圭佑君も、ちゃんと高校生になってる」


「当たり前だろ」


「うん。当たり前なんだけど」


 雪は前を歩く圭佑を見た。


「ちょっと安心した」


「何が?」


「戻ってきても、私を知ってる人がいるんだなって」


 その言葉に、昌志は少しだけ黙った。


 雪は先週、ここの三年生に編入してきた。


 苗字も変わった。


 見た目も変わった。


 きっと、昔の知り合いに会っても気づかれないことは多かったのだろう。


 自分も、その一人だった。


 昨日すれ違ったのに、気づかなかった。


 そのことを思うと、少しだけ胸が重くなる。


「昨日は悪かったな」


「昨日?」


「気づかなかったこと」


「それは私もだから」


「でも、黒……」


 言いかけて、昌志は口を閉じた。


 黒い本。


 言えるはずがない。


 雪は首をかしげる。


「黒?」


「いや。何でもない」


「そう?」


「ああ」


 圭佑が前から振り返った。


「お前ら、昔みたいに本の話でもしてたのか?」


「してない」


「これからするかもしれないけど」


 雪がそう言うと、圭佑は笑った。


「じゃあ、文芸部向きだな」


「俺は別に文芸部に入りに行くわけじゃない」


「どうかな?」


「何だよ」


「何でもない」


 圭佑はそう言って、また前を向いた。


 昌志は少し嫌な予感がした。


 でも、今は美月のことが先だった。


■相沢家


 圭佑の家に着くと、圭佑が玄関を開けた。


「ただいま」


「お邪魔します」


 昌志と佐藤雪が続けて言う。


 奥から、少し慌てたような足音がした。


 美月が出てくる。


「お兄ちゃ――」


 そこで、美月の声が止まった。


 美月は、いつもよりずっと気合いの入った格好をしていた。


 髪はきちんと整えられていて、服も家でくつろぐ時のものではない。


 少しだけよそ行きに近い。


 表情も、どこか緊張している。


 けれど、玄関に立っているのが圭佑と昌志だけではないと分かると、目が大きくなった。


「……三人?」


 小さく呟く。


 雪が、丁寧に頭を下げた。


「初めまして。文芸部の佐藤雪です」


「さ、佐藤さん……?」


「俺たちの中学時代の同級生」


 圭佑が紹介した。


「今は三年で、同じ学校にいる」


「は、はい」


 美月はまだ状況が分かっていない顔でうなずいた。


 視線が昌志に向く。


「昌志先輩」


「うん」


「大事な話が、私にあるんですよね?」


「ああ。美月ちゃんに大事な話がある」


 昌志が真面目に答えると、圭佑が横で笑いをこらえた。


 美月はそれに気づき、兄をにらむ。


「お兄ちゃん、何笑ってるの?」


「いや。美月、お前、すごい気合い入った格好してるなって」


「何で見るの!」


「家族だから見えるだろ」


「見ないで!」


「無茶言うなよ」


 美月は顔を赤くした。


 昌志は不思議に思って、圭佑を見る。


「気合い入った格好って何だよ?」


「お前は黙ってろ」


「何でだよ」


「美月、お前たぶん誤解してるからな?」


「誤解?」


 美月が不安そうに聞き返す。


 圭佑は昌志を指差した。


「こいつ、天然だから」


「天然……?」


「話を聞けば分かる」


 圭佑は靴を脱ぎながら言った。


「とりあえず上がれ。話すなら座ってからだ」


 ■相沢家・居間


 四人は居間に通された。


 美月は慌ててお茶を用意し、全員の前に置いた。


 その動きも、どこかぎこちない。


 昌志は出されたお茶に頭を下げた。


「ありがとう、美月ちゃん」


「い、いえ」


 美月は座ったものの、まだ落ち着かない様子だった。


 昌志を見る。


 雪を見る。


 圭佑を見る。


 それからまた昌志を見る。


「あの」


「うん?」


「大事な話って、四人でするものなんですか?」


 圭佑と佐藤雪が同時に吹き出しかけた。


 昌志は眉を寄せる。


「どういう意味?」


「いえ、その……四人だと、ちょっと話しにくいというか」


「文芸部の話だから、雪がいた方がいいと思って」


「文芸部?」


 美月が固まった。


 圭佑は肩を震わせている。


 佐藤雪も口元を押さえていた。


「何で笑ってるんだよ」


 昌志が聞くと、圭佑が苦しそうに答えた。


「ほら、美月、誤解してただろ?」


「してません!」


「今のはしてただろ」


「してません!」


 美月は赤くなったまま言い返す。


 それから、なぜか昌志に向き直った。


「昌志先輩。もし話しにくいなら、二人で話しましょう」


「二人で?」


「はい。四人じゃ、ちょっと難しい話かもしれないですし」


 圭佑がとうとう声を出して笑った。


 雪も肩を震わせる。


「何なんだよ、本当に」


 昌志は二人を見る。


「俺が何か変なこと言ったか?」


「言ったというか、言い方が全部悪い」


 圭佑が笑いながら言う。


「私も、これは昌志君が悪いと思う」


 雪までそう言った。


「何でだよ」


「大事な話、君にしかできないこと、今日会いたい。これは誤解するよ」


「実際そうだろ」


「そういうところだよ」


 雪は困ったように笑った。


 美月はまだ半分ほど分かっていない顔をしている。


 圭佑が説明を投げるように昌志へ向けた。


「ほら、昌志。何の話なのか言え」


「ああ」


 昌志は美月を見る。


「実は、雪が困ってるんだ」


「雪……?」


 美月の視線が佐藤雪へ向いた。


 その目に、少しだけ警戒のようなものが混じる。


「佐藤さんと、昌志先輩は親しいんですか?」


「中学の時に、けっこう話してた」


 昌志が答える前に、佐藤雪が静かに言った。


「昌志君とは、本の話をよくしてたんです。圭佑君とも同じクラスでした」


「昌志君……」


 美月が小さく繰り返す。


 その声が少しだけ低くなった気がした。


 圭佑が横でにやにやしている。


 昌志は気づかずに続けた。


「雪は今、文芸部にいる」


「文芸部」


「ああ。その文芸部が、部員不足で廃部になりそうなんだ」


 ようやく本題に入ると、美月の表情が少し変わった。誤解で赤くなっていた顔から、真面目に話を聞く顔になる。


 佐藤雪が姿勢を正した。


「突然でごめんなさい。文芸部は今、来年の部員が足りなくて、このままだと存続が難しいんです」


「部員が足りないんですか?」


「はい。私は三年生なので、来年はいません。今の一年生と二年生だけだと人数が足りなくて」


「それで、私に?」


「はい。圭佑君から、美月さんが最近本をよく読んでいると聞いて……」


 美月は少し戸惑った顔をした。


「でも、私は……その、他の人と一緒にそういう活動をするの、あまり得意じゃないんです」


「うん」


 雪は無理に押さなかった。


「急に言われても困るよね」


「すみません」


「謝らなくていいよ」


 美月は視線を落とした。


 昌志は、その顔を見て少し考えた。


 美月が人付き合いを得意としていないことは、何となく分かる。駅前のファミレスで話した時も、兄のことを心配しているわりに、少し遠慮がちだった。


 でも、本を読んでいる。


 文芸部なら、合うかもしれない。


 それに、雪は困っている。


 文芸部がなくなるのを悲しんでいる。


 昨日、昌志はそれに気づけなかった。


 だから、今は気づいた分だけ何かしたかった。


「美月ちゃん」


 昌志は、まっすぐ美月を見た。


「頼むよ」


「え」


 美月の肩が小さく跳ねる。


「文芸部がなくなるかもしれないんだ」


「でも、昌志先輩は文芸部じゃないですよね」


「ああ」


「なのに、どうしてそこまで」


「雪は、中学の時に俺と圭佑と仲がよかったんだ」


 昌志は少し言葉を選んだ。


「三年ぶりに会って、困ってた。だから助けたいと思った、それじゃ駄目かな?」


 佐藤雪が、静かに昌志を見た。


 少し驚いたような、少し嬉しそうな顔だった。


 美月はその表情を見て、また少し複雑そうな顔をした。けれど、昌志から目をそらさない。


「あの……佐藤先輩は、文芸部なんですか?」


「うん。といっても、私も先週入ったばかりなんだけど」


「先週……」


 美月は少しだけ考え込んだ。


「でも、雪は昔から本を読むの好きだったよな」


 昌志が言うと、佐藤雪は小さくうなずいた。


「うん」


「中学の時も、昌志とよく本の話してたしな」


 圭佑が言う。


 美月は、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……そうなんですね」


 それから、昌志を見た。


「……条件があります」


「条件?」


「入ってもいいですよ」


 美月はゆっくり言った。


 雪は喜ぶ。


「でも、昌志先輩も文芸部に入るなら、私も入ります」


「俺も?」


「はい」


「でも、俺は三年生だぞ。入っても存続するための人数にはならないんじゃないか?」


「それはいいんです」


「いいのか?」


「いいです」


 美月ははっきりと言った。


「昌志先輩が入るなら、私も入ります」


 昌志は佐藤雪を見る。


「三年でも入れるのか?」


「入れるよ。私も三年生だし」


「でも、俺が入っても文芸部のためにはあんまり」


「そんなことないよ」


 佐藤雪は微笑んだ。


「美月さんが入ってくれるなら、昌志君が入ってくれる意味はある」


「そういうものか?」


「そういうもの」


 圭佑が横から笑った。


「美月はそういうやつだからな」


「お兄ちゃん、何笑ってるの」


「いや、よかったなと思って」


「何が」


「何でもない」


 美月は少し不満そうにした。


 昌志は腕を組んで考えた。


 文芸部。


 自分が入る。


 今まで部活には入っていなかった。


 黒い本のこともある。


 受験もある。


 毎日顔を出す余裕があるかは分からない。


「毎日は行けないかもしれないぞ」


 昌志が言うと、美月はすぐに答えた。


「毎日じゃなくてもいいです。たまに顔を出してくれれば」


「受験生だし、忙しい時もある」


「分かってます」


「それでもいいなら、別に構わない」


 その瞬間、美月の顔が明るくなった。


「本当ですか?」


「ああ」


「じゃあ、私も入ります」


 佐藤雪が、ほっとしたように息を吐いた。


「ありがとうございます、美月さん」


「いえ」


 美月は少し照れたように目を伏せた。


「私で役に立てるなら」


「すごく助かります」


 佐藤雪の声は、さっきより少し明るかった。


「これで、来年も文芸部を残せるかもしれません」


「よかったな、雪」


 圭佑が言う。


「うん。ありがとう、圭佑君」


「俺は何もしてないだろ」


「昌志君、連れてきてくれたでしょ」


「まあな」


 佐藤雪は、今度は昌志を見る。


「昌志君も、ありがとう」


「まだ入るって言っただけだぞ」


「それが助かったんだよ」


「そうか」


 昌志は少しだけ視線をそらした。


 礼を言われると、どう反応すればいいのか分からなくなる。


 美月が小さく手を上げた。


「あの」


「うん?」


「明日、文芸部に行けばいいですか?」


 佐藤雪がうなずく。


「来てくれると嬉しいです。部室まで案内します」


「昌志先輩も、一緒に行きましょう!」


「ああ。分かった」


「約束です!」


「分かったって」


 美月は少し満足そうにうなずいた。


 圭佑がそれを見て、また笑いそうになっている。


 昌志は睨んだ。


「何だよ」


「いや、何でもない」


「お前も入るか?」


「俺は部活あるから無理」


「そういえばそうだったな」


「忘れるなよ」


 圭佑が呆れる。


 佐藤雪は、二人のやり取りを見て懐かしそうに笑っていた。中学の頃にも、こんなやり取りをしていたのかもしれない。


 昌志はそう思った。


 昨日、黒い本に出た「彼女」は雪だった。


 自分は気づけなかった。


 でも、今日、圭佑がつなげてくれた。


 雪の悩みを知った。


 美月に頼んだ。


 結果として、昌志は文芸部に入ることになった。


 美月も入ることになった。


 それがいいことなのか、黒い本がどう書くのかは分からない。


 けれど少なくとも、今の雪は昨日より少しだけ安心しているように見えた。


 なら、それでよかったのかもしれない。


 昌志は、文芸部員になることになった自分を、まだ少し不思議に思っていた。

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