第74話 雪と文芸部
七月二日の放課後。
■文芸部部室
佐藤雪は、成沢雪だった。
最初に名前を聞いた時、昌志はすぐには結びつけなかった。
雪。
その音だけなら、珍しい名前ではない。
それに、昌志は勝手に別の字を想像していた。
幸せの「幸」かもしれない。
由紀かもしれない。
そういう、どこにでもある名前の一つだと思っていた。
けれど、部室に貼られていた部員名簿に書かれていた字を見て、ようやく引っかかった。
佐藤雪。
降ってくる雪の方だった。
その瞬間、中学の時の記憶が少しだけ戻ってきた。
成沢雪。
中学の時、昌志や圭佑と同じクラスだった女子。
黒縁の眼鏡をかけていて、本をよく読んでいて、休み時間になると教室の隅で静かにしていることが多かった。
けれど、話しかければ普通に話した。
むしろ、本の話になると、少しだけ声が明るくなった。
昌志も何度か本を借りたことがある。
その相手が、今は佐藤雪と名乗り、文芸部の部室に座っている。
長い髪。
黒縁の眼鏡。
すらっとした立ち姿。
昔の地味な印象はほとんど残っていない。
昌志がすぐに気づけなかったのも、無理はないと思った。
ただ、気づけなかったことが、少しだけ引っかかる。
昨日、街中ですれ違っていたのに。
黒い本は、佐藤雪のことを「彼女」と書いていた。
完全に知らない人間ではなかった。
そこは、自分の思っていた通りだった。
でも、分からなかった。
それが、まだ気持ち悪かった。
「それにしても、お前」
圭佑が少し呆れたように言った。
「雪って名前を聞いても気づかなかったのかよ」
「音だけじゃ分からないだろ」
「中学の時、名前で呼んでただろ」
「三年経ってるし、苗字も違うし、見た目も変わってたし」
昌志が言い訳のように言うと、佐藤雪が小さく笑った。
「ひどい」
「悪い」
「いいけど。私も、昌志くんだってすぐには分からなかったし」
「ほら」
「でも、私はちゃんと思い出したよ」
「……悪かったって」
佐藤雪は少しだけ楽しそうに笑った。
その笑い方に、中学の頃の面影が少しだけ残っていた。
「でも、何で苗字が違うんだ?」
昌志が聞くと、佐藤雪は少しだけ困ったように笑った。
「あんまり楽しい話じゃないんだけど……両親が離婚して」
「あ」
「うん。それで、今は佐藤」
「悪い」
「いいよ。別に隠してるわけじゃないから」
佐藤雪は、そう言ってから少し目を伏せた。
「中学の終わり頃に、私、転校したでしょ」
「ああ。そういえば」
そこまで言われて、昌志は思い出した。
成沢雪は、中学の終わり頃に急にいなくなった。
引っ越すことになったと聞いた気がする。
その後、特に連絡を取ることもなくなった。
中学の頃はそれなりに話していたのに、高校に入ってからは思い出すことも少なくなっていた。
「また戻ってきたのか?」
「うん。この高校には入ってたんだけど、いろいろあって少し離れてて。先週から、ここの三年に編入したの」
「先週?」
「うん」
昌志は、心の中で小さく思った。
それでか。
名前が変わっていた。
見た目も変わっていた。
しかも、最近この学校に戻ってきたばかり。
それなら、すぐに分からなくても仕方がない。
昨日、街中ですれ違っても気づけなかった理由にはなる。
けれど、黒い本は気づいていた。
佐藤雪とすれ違った、と書いた。
今の名前で。
今の姿で。
昌志より先に、黒い本だけが知っていた。
それが、少しだけ嫌だった。
「お前、昨日、街中を歩いてたよな?」
昌志が聞くと、佐藤雪は少し驚いたように目を上げた。
「昨日?」
「駅前の方」
「あ……うん。歩いてたと思う」
「何で俺に声かけなかったんだよ」
「え?」
「いや、俺も全然気づかなかったけど」
「ごめんね。私、考え事してたから」
佐藤雪は申し訳なさそうに言った。
「それに、昌志くんも見た目が変わってたし」
「俺はそんなに変わってないだろ」
「変わってるよ。中学の頃より、ずっと大人っぽくなった」
「そうか?」
「うん」
佐藤雪は、少しだけ微笑んだ。
その顔を見た瞬間、昨日の黒い本の文章が頭をよぎった。
彼女は微笑んでいる。
けれど、目だけで助けを訴えている。
今も、佐藤雪は微笑んでいる。
でも、本当にただ笑っているだけなのかは分からなかった。
昌志は少し迷ってから、口を開いた。
「なあ、成沢」
「今は佐藤だけど、成沢でもいいよ」
「じゃあ、雪」
佐藤雪が少し目を丸くした。
「え?」
「中学の時、そう呼んでた気がする」
「うん。呼んでた」
「じゃあ、雪」
「……うん」
佐藤雪は、少し照れたようにうなずいた。
昌志は、その反応をあまり気にせず続けた。
「お前、何か困ってることあるのか?」
その瞬間、部室の空気が変わった。
佐藤雪だけではない。
矢部も、大井も、大葉も、圭佑まで昌志を見る。
圭佑は、少しだけ表情を変えていた。
驚いた顔だった。
けれど、ただ驚いているだけではない。
何かを考え込むような目で、昌志を見ていた。
昌志には、その意味までは分からなかった。
ただ、圭佑が何かに引っかかったことだけは分かった。
佐藤雪は、はっきりと驚いた顔をしていた。
「どうして分かったの?」
「いや……何となく」
黒い本に書いてあったから。
そんなことは言えない。
昌志は少し視線を外した。
「昨日のこと聞いたら、そういう感じなのかと思っただけだ」
「顔を見ただけで分かるんですか?」
一年の大井が、感心したように言った。
大葉も目を輝かせる。
「すごいですね。雪先輩が困ってるって、そんなに分かるんですか」
「いや、別にすごくはない」
「でも、雪先輩、あんまり顔に出さないですよ」
「そうなんだ」
「昌志くんは、昔からそういうところがあったから」
佐藤雪が小さく言った。
昌志は首をかしげる。
「そういうところ?」
「人が本当に嫌がってる時とか、困ってる時とか、変に気づくところ」
「そんなことあったか?」
「あったよ」
佐藤雪は少し懐かしそうに微笑んだ。
「中学の時も、私が本のことで困ってた時、昌志くんだけ気づいたことあったし」
「覚えてない」
「ひどい」
「悪い」
矢部が面白そうに二人を見た。
「雪先輩、岐阜先輩とかなり仲よかったんですね」
「かなりってほどじゃないよ」
佐藤雪は少し照れたように否定した。
「中学時代に、ちょっと親しかっただけ」
「ちょっと?」
圭佑が笑う。
「雪、昌志と本の話ばっかりしてただろ」
「圭佑くんも一緒に話してたでしょ」
「俺は横で聞いてただけだろ。お前ら二人の話、だいたい本の内容だったし」
「そんなこともあったな」
昌志は少しずつ思い出していた。
昼休み。
教室の端。
佐藤雪ではなく、成沢雪だった頃。
昌志が読んだ本の話をして、雪が次に読む本を勧めてくれたこと。
雪が持っていた文庫本を借りたこと。
逆に、昌志が持っていた本を貸したこと。
そういう記憶が、少しずつ戻ってくる。
忘れていたわけではない。
思い出すきっかけがなかっただけだ。
けれど、忘れていたのと同じことかもしれない。
「それで、何に困ってるんだ?」
昌志が聞くと、佐藤雪は視線を落とした。
答えたのは、矢部だった。
「文芸部のことです」
「文芸部?」
「はい。今、部員が足りなくて」
昌志は部室の中を見回した。
佐藤雪。
矢部。
大井。
大葉。
四人いる。
「四人いるじゃないか」
「今は、です」
矢部が言った。
「でも、雪先輩は三年生なので、来年はいません」
「ああ」
昌志はそこで理解した。
今は四人。
でも、三年生が抜ければ三人になる。
「文芸部を存続させるには、最低四人必要なんです」
矢部は続けた。
「だから、来年のことを考えると、一年か二年をもう一人入れないといけなくて」
「俺が入っても駄目ってことか」
「昌志くんも三年生だよね?」
佐藤雪が言う。
「ああ」
「圭佑くんも」
「俺も三年」
圭佑が答える。
昌志は軽く息を吐いた。
「じゃあ、俺たちが入っても意味ないんだな」
「意味がないわけじゃないですけど、存続には足りません」
矢部が申し訳なさそうに言った。
「部活動として残るには、来年も四人必要なので」
「なるほどな」
「私も先週入ったばかりで、この前知ったんです」
佐藤雪が静かに言った。
「文芸部がなくなるかもしれないって聞いて、何とかならないかなって思って」
「先週入ったばかりなのに?」
「うん」
「それで悩んでたのか」
「うん」
佐藤雪は小さくうなずいた。
大井が少し身を乗り出す。
「雪先輩、入ったばかりなのに、すごく部のこと考えてくれるんです」
「部員募集の紙も一緒に作ってくれて」
大葉も言う。
「声をかけられそうな人がいないか、ずっと考えてくれてました」
「でも、なかなか入ってくれる人がいなくて」
矢部が苦笑した。
「それで、雪先輩に、一年か二年で心当たりがないか聞いてたんです」
「私も、あまり知り合いがいなくて」
佐藤雪は困ったように笑った。
「編入してきたばかりだから、声をかけられる相手も少なくて」
「それで、昨日街中で俺に気づかなかったわけか」
「たぶん、すごく考え込んでたんだと思う」
「なるほどな」
黒い本の文章が、ようやく形になっていく。
彼女は微笑んでいた。
けれど、ひとりで悩みを抱えていた。
文芸部。
部員不足。
廃部。
それを、入ったばかりの雪が抱えていた。
昌志は昨日、彼女の横を通り過ぎた。
声もかけなかった。
気づけなかった。
そのことが、少しだけ胸に残る。
でも、今ならまだ何かできるかもしれない。
昌志はふと、ある名前を思い出した。
「圭佑」
「何だよ」
「美月ちゃんって、どこか部活入ってたか?」
圭佑の動きが止まった。
「美月?」
「ああ」
「たしか、入ってないと思うけど」
「最近、本読んでるんだよな?」
「まあ、そうだな」
「文芸部、合うんじゃないか?」
圭佑は、少し考え込んだ。
「いや、無理だろ」
「無理か?」
「あいつ、知らない場所に一人で入っていくタイプじゃないし」
「そうか」
昌志は少し残念に思った。
けれど、圭佑はそこで黙り込む。
何かを考えている顔だった。
「……いや」
「何だよ」
「お前が頼めば、いけるかもしれない」
「俺が?」
「たぶん」
「何で俺なんだよ」
「お前、本当に鈍いな」
「何が」
「何でもない」
圭佑は頭をかいた。
「ただ、条件として、お前も入るように言うかもしれないぞ」
「俺が入っても三年だから意味ないんだろ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「何だよ」
「もういい」
圭佑は諦めたように言った。
佐藤雪が、少し身を乗り出す。
「圭佑くんの妹さん、入ってくれそうなんですか?」
「一年生なんだ」
圭佑が答える。
「本読むのは好きだと思う。最近は特に」
「一年生なら、すごく助かります」
矢部の顔が明るくなった。
大井と大葉も、期待したように昌志を見る。
「昌志くんが頼めば、入ってくれそうなの?」
佐藤雪が聞いた。
「いや、俺には分からないけど」
「多分、入る」
圭佑が言った。
「多分入るだろうな」
「圭佑が言うなら、そうなのか?」
「だから、お前が頼めばな」
佐藤雪が立ち上がった。
そして、昌志の前まで来る。
近い。
昔より背が伸びたのか、立って向き合うと、思ったより目線が近かった。
佐藤雪は、真剣な顔で昌志を見た。
「もし頼めるなら、お願いします」
「え」
「文芸部を残したいんです」
その言葉に、矢部たちも立ち上がった。
「お願いします、岐阜先輩」
「お願いします」
「もし本当に頼めるなら、お願いします」
三人に続けて頭を下げられ、昌志は少し後ろへ引いた。
「いや、まだ入るって決まったわけじゃないから」
「それでも、声をかけてもらえるだけで助かります」
矢部が言う。
佐藤雪も、真剣なままだった。
「昌志くん。お願い」
中学の頃と同じ呼び方。
その声を聞くと、断りにくかった。
昌志は圭佑を見る。
「本当に、俺が頼んだら大丈夫なのか?」
「多分大丈夫だ」
「多分かよ」
「でも、普通に頼むよりはずっと可能性ある」
「分かった」
昌志はスマホを取り出した。
「ちょっと席を外す。電話してみる」
四人の女子が一斉に明るい顔をした。
「お願いします!」
その声に押されるように、昌志は部室を出た。
■文芸部部室前
廊下に出ると、昌志は美月の番号を探した。
駅前のファミレスで会った時に交換した連絡先。
あの時は、圭佑のことを聞くためだった。
まさか、文芸部の勧誘で電話することになるとは思わなかった。
呼び出し音は、長く続かなかった。
すぐに、美月が出た。
『はい。昌志先輩?』
「美月ちゃん」
『どうしたんですか?』
「突然だけど、美月ちゃんに大事な話があるんだ」
昌志はよく分からなかったが、助けになると思い、美月に連絡する。それがまた新たな誤解となるのも知らず。




