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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第73話 成沢雪だった人

七月二日の午後。


■教室


 昼休みが終わった。


 圭佑は、五時間目が始まる少し前に戻ってきた。


 息が切れているわけではない。


 けれど、いつもより少しだけ急いでいたように見えた。


 昌志は、席に戻ってきた圭佑を見る。


「どこ行ってたんだよ」


「ちょっとな」


「ちょっとで昼飯抜くか?」


「食ってないわけじゃない。途中で少し食った」


「それ、食ったって言うのか」


「言うだろ」


 圭佑はそう言って、自分の席に座った。


 そのまま授業が始まるのかと思った時、圭佑が小声で言った。


「昌志」


「何だよ」


「放課後、時間あるか?」


 昌志は眉を寄せた。


「何で突然?」


「朝、お前が言ってた名前」


「佐藤雪?」


「ああ。それについて、ちょっと分かった」


 昌志の手が止まった。


 佐藤雪。


 その名前を聞いただけで、昨日の黒い本の文章が頭に浮かぶ。街中を歩き回っていた時、昌志は佐藤雪とすれ違った。


 佐藤雪は微笑んでいた。


 けれど、ひとりで悩みを抱えていた。


 昌志は、それに気づかなかった。


「分かったなら、今ここで言えよ」


「それじゃ面白くないだろ」


「面白さを求める話じゃないだろ」


「いや、これは直接見た方がいい」


「何だよ、それ」


「放課後、俺についてきてくれ」


 圭佑は、いつもの軽さを残した声で言った。けれど、目は少し真面目だった。


「連絡は取った。向こうもいいって言ってる」


「向こう?」


「会えば分かる」


「だから、今言えって」


「だから、直接見た方が早いんだって」


 昌志は、圭佑を見た。


 何を隠しているのか分からない。


 佐藤雪という名前を聞いてから、圭佑は午前中ずっと動いていた。


 休み時間のたびにどこかへ行き、スマホで誰かと連絡を取っていた。


 昼休みまで使って調べていた。


 その結果、放課後についてこいと言う。


 わけが分からない。


 けれど、佐藤雪のことを最初に聞いたのは昌志だ。自分が分からなかった名前について、圭佑が調べてくれた。


 なら、断る理由はなかった。


「分かった。放課後、お前に付き合えばいいんだな」


「ああ」


「どこ行くんだよ」


「それも行けば分かる」


「秘密多すぎだろ」


「多分、お前、会ったらびっくりするぞ」


「何にだよ」


「それも会えば分かる」


「うざいな」


 圭佑は少し楽しそうに笑った。


「楽しみにしとけ」


「別に楽しみではない」


「じゃあ、気にしとけ」


「それはもうしてる」


「なら十分だ」


 そこで先生が教室へ入ってきた。


 圭佑は前を向く。


 昌志もノートを開いた。


 けれど、授業の内容はなかなか頭に入ってこなかった。


 佐藤雪。


 圭佑が、会えば分かると言った相手。


 自分が会えばびっくりすると言われた相手。


 誰なのか。


 やはり、自分が忘れている誰かなのか。


 今まで、黒い本に「彼女」と出た相手は、昌志と何らかの関わりがある相手だった。


 だから今回もそうだと思っていた。


 でも、名前を見ても思い出せなかった。


 顔も浮かばなかった。


 その気持ち悪さが、ずっと残っていた。


 放課後まで待つしかない。


 そう分かっていても、時間はやけに遅く進んだ。


 *      *


 放課後になった。


 終礼が終わると、圭佑はすぐに立ち上がった。


「行くぞ」


「本当に今からか」


「今から」


「駅前じゃないのか?」


「違う」


「じゃあ、どこだよ」


「ついてくれば分かる」


 圭佑はそう言って、教室を出た。


 昌志は仕方なく鞄を持って、その後を追う。


 いつもの昇降口とは少し違う方向へ進む。


 運動部の声が遠くに聞こえる。


 校舎の奥へ向かう途中で、昌志は眉を寄せた。


「おい、こっちって文化部の方だろ」


「そうだな」


「何で文化部の方に行くんだよ」


「用があるから」


「俺に?」


「お前に」


「佐藤雪って、ここの生徒なのか?」


「まあ、そうだな」


「同じ学校?」


「そういうことになるな」


「何でそんな大事なことを先に言わないんだよ」


「直接見た方が早いから」


 圭佑はそればかり言う。


 昌志は少し苛立ちながらも、足を止めなかった。


 やがて、二人は文化部棟の一角に着いた。


 あまり来たことのない場所だった。


 運動部の部室とは違い、廊下は静かで、少し古い紙の匂いがした。


 掲示板には、美術部や写真部、新聞部の活動報告が貼られている。


 その奥に、小さな札がかかった扉があった。


 文芸部。


 昌志は扉の前で足を止めた。


「ここどこだよ」


「見れば分かるだろ。文芸部」


「何で文芸部なんだよ」


「まあ、入ってみよう」


「説明しろよ」


「中でまとめてする」


 圭佑は軽くノックした。


 中から、女子の声がする。


「どうぞ」


 圭佑が扉を開けた。


 昌志は一瞬ためらってから、後に続いた。


 ■文芸部部室


 文芸部の部室には、女子が四人いた。


 机がいくつか寄せられ、その上にはノートやプリント、数冊の文庫本が置かれている。


 本棚には古い部誌らしいものが並んでいた。


 壁には、手書きのポスターが貼られている。


 部員募集。


 文芸部。


 小説、詩、短歌、読書感想。


 そんな文字が見えた。


「いらっしゃい」


 一番手前に座っていた女子が、にこやかに言った。体つきはややふっくらしていて、雰囲気が明るい。


 同学年くらいに見える。


「相沢さん、本当に連れてきてくれたんだ」


「まあな」


 圭佑は軽く手を上げた。


 昌志は、その会話の意味が分からずに立っていた。


 四人の女子が、そろってこちらを見る。


 初めて入る部室。


 知らない女子たち。


 何を言えばいいのか分からない。


 とりあえず、昌志は頭を下げた。


「初めまして。岐阜昌志です」


 その瞬間、部室の空気が少し止まった。


 次の瞬間、四人のうち何人かが笑い出した。


 圭佑まで笑っている。


「何で笑うんだよ」


 昌志は思わず圭佑を見る。


「いや、悪い」


「悪いって顔じゃないだろ」


「だって、初めましてって」


「初めてだろ」


「お前、まだ言うか」


 圭佑は笑いながら肩を震わせている。


 昌志は余計にわけが分からなくなった。


「何なんだよ。挨拶したら笑われるってどういう状況だよ」


 一番手前の女子が、笑いをこらえながら手を上げた。


「ごめんごめん。じゃあ、ちゃんと自己紹介するね。二年の矢部です」


「矢部さん」


「一応、今の文芸部ではまとめ役みたいなことをしてる」


 矢部がそう言うと、隣にいた一年らしい女子が軽く頭を下げた。


「一年の大井です」


 もう一人も続く。


「同じく一年の大葉です」


 昌志は順番に頭を下げた。


 そして最後に、奥に座っていた女子がこちらを見た。


 背筋がすっと伸びている。


 長い髪が肩に落ち、黒縁の眼鏡の奥に落ち着いた目があった。


 静かな雰囲気なのに、地味というより、知的で整った印象の方が強い。


 すらっとしていて、制服の着方もきちんとしている。


 その女子が、少しだけ微笑んだ。


「三年の佐藤雪です」


 昌志は、その名前を聞いて目を見開いた。


「君が、佐藤雪?」


「はい」


 佐藤雪は、困ったように笑った。


 昌志は思わず圭佑を見る。


「おい、圭佑」


「何だよ」


「この人が佐藤雪なのか?」


「そうだって言ってるだろ」


「俺、知らないんだけど」


 そう言った瞬間、圭佑がまた笑った。


 矢部も、大井も、大葉も、どこか楽しそうにこちらを見ている。


 佐藤雪だけが、少し苦笑していた。


「お前、本当にまだ気づいてないのか」


 圭佑が言った。


「何にだよ」


「こいつ、成沢だぞ」


 その名前を聞いた瞬間、昌志の頭の中で何かが引っかかった。


 成沢。


 成沢雪。


 中学の時。


 同じクラス。


 何度も話した。


 読書が好きで、休み時間によく本を読んでいた女子。


 黒縁の眼鏡。


 前髪が少し重くて、声が小さくて、どこか暗い印象があった。


 でも、話してみると意外とよく笑った。


 昌志も何度か本を借りたことがある。


 圭佑も一緒に話したことがある。


 中学の頃は、確かにそれなりに親しかった。


 その記憶が、一気に戻ってくる。


「成沢……雪?」


「そう」


 佐藤雪が少し恥ずかしそうにうなずいた。


「今は、佐藤だけど」


「え、でも……あれだよな。成沢って、黒縁眼鏡で、暗い感じの、地味なやつだよな」


 言った瞬間、部室が静かになった。


 佐藤雪が目を細める。


「ひどい」


「あ、いや」


「暗い感じの地味なやつって」


「違う。悪い意味じゃなくて」


「悪い意味しかないと思うけど」


 佐藤雪はそう言いながらも、少し笑っていた。


 矢部が腹を抱えるように笑う。


「ひどいね、昌志君」


「いや、本当に違うんです。昔の印象が」


「昔はそんな感じだったんですか、佐藤先輩」


 大井が興味津々で聞いた。


 大葉も身を乗り出す。


「全然想像できないです」


「私も聞きたいです」


「聞かなくていいから」


 佐藤雪が少しだけ頬を赤くする。


 圭佑は笑いながら言った。


「まあ、俺も最初に見た時びっくりした。全然面影ないからな」


「圭佑君まで」


「いや、いい意味でだって」


「本当に?」


「本当に。中学の時より、かなり変わった」


 昌志は、改めて佐藤雪を見た。


 成沢雪。


 言われてみれば、確かに面影はある。


 目元。


 笑い方。


 少し困った時の表情。


 でも、すぐには分からなかった。


 苗字が変わっている。


 見た目も変わっている。


 髪は長く、雰囲気も落ち着いていて、昔よりずっと大人びている。


 中学の記憶の中にいる成沢雪とは、すぐに結びつかなかった。


「……本当に、成沢なのか」


「うん。久しぶり、昌志君」


 佐藤雪が微笑んだ。


 昨日、黒い本に書かれていた言葉が頭をよぎる。


 彼女は微笑んでいる。


 けれど、目だけで助けを訴えている。


 今も、佐藤雪は微笑んでいる。


 でも、その笑顔の奥に何があるのか、昌志にはまだ分からなかった。


 圭佑が軽く咳払いした。


「で、俺が昼に連絡取ったのが成沢……今は佐藤さんな」


「呼び方、どっちでもいいよ。圭佑君は成沢で慣れてるだろうし」


「じゃあ、成沢で」


「うん」


 圭佑は昌志を見る。


「午前中に名前を聞いて、何か引っかかってさ。で、部活関係をちょっと当たったら、文芸部に佐藤雪って名前があって」


「それで?」


「まさかと思って、直接確認した。そしたら成沢だった」


「直接?」


「休み時間にちょっと会いに来た」


「お前、そんなことしてたのか」


「だから言っただろ。調べてるって」


 圭佑は肩をすくめた。


「それで、昌志を連れてきてもいいかって聞いた。そしたら、部長の矢部さんが、文芸部の部室に連れてきていいって、成沢も会いたいって」


 矢部は微笑んでいた。


 昌志は佐藤雪を見る。


「俺を?」


「うん。圭佑君から、昌志君が私の名前を気にしてたって聞いたから」


「それは……」


 黒い本に出たから。


 そう言えるはずがない。


 昌志は言葉に詰まった。


 佐藤雪は、それを追及しなかった。


 代わりに、少しだけ笑う。


「でも、初めましてって、言われるとは思わなかった」


「それは悪かった」


「うん。少し傷ついた」


「本当に悪かった」


「冗談だよ。変わったのは私の方だし」


 佐藤雪はそう言った。


 その言い方は軽かった。


 けれど、少しだけ引っかかった。


 変わったのは私の方。


 その言葉の奥にも、何かがあるような気がした。


 けれど、昌志はまだ聞けなかった。


 今は、それよりも先に整理しなければならないことがある。


 佐藤雪は、成沢雪だった。


 中学の時、同じクラスで、それなりに親しかった相手。


 忘れていたわけではない。


 名前が変わっていた。


 見た目も変わっていた。


 だから分からなかった。


 黒い本が「彼女」と書いた理由は、間違っていなかった。


 まったく知らない人間ではなかった。


 自分と関わりのある相手だった。


 そこだけは、昌志の思った通りだった。


 そのことに、昌志は少しだけ安心してしまった。


 ルールが全部壊れたわけではない。


 黒い本は、知らない誰かを突然「彼女」と書いたわけではなかった。


 ただ、自分が気づけなかっただけだ。


 それはそれで嫌だった。


 でも、何もかも分からなくなったわけではない。


 昌志は胸の奥で、小さく息を吐いた。


 佐藤雪は、まだ微笑んでいる。


 文芸部の部室で。


 矢部、大井、大葉に囲まれて。


 圭佑に連れてこられた昌志を見て。


 昨日すれ違った時と同じように、たぶん微笑んでいる。


 けれど、黒い本は書いていた。


 彼女は、ひとりで悩みを抱えていた。


 昌志は、まだその中身を知らない。


 ただ、佐藤雪が成沢雪だったことだけを、ようやく知った。

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