第72話 佐藤雪という名前
七月二日の朝。
黒い本は、何も変わらなかった。
午前零時を過ぎても、新しい日付は浮かばなかった。
七月二日という文字もない。
黒い本は、何もない日をわざわざ書かない。
それは前からそうだった。
だから、今日は何もないのかもしれない。
少なくとも、黒い本に書かれるようなことは。
それでも、昌志の頭の中は静かではなかった。
佐藤雪。
昨日の夜、黒い本に出てきた名前。
街中を歩き回っていた時、昌志は佐藤雪とすれ違った。
佐藤雪は微笑んでいた。
けれど、ひとりで悩みを抱えていた。
昌志はそれに気づかなかった。
昌志は佐藤雪に声をかけなかった。
佐藤雪も昌志に気づかなかった。
二人は、挨拶もせずに通り過ぎた。
何度思い返しても、顔が浮かばない。
遥でもない。
美月でもない。
それどころか、知っている相手なのかどうかも分からない。
黒い本は「彼女」と書いていた。
だから、昌志は勝手に、自分と関係のある相手だと思っていた。
今までの「彼女」は、そういう相手だった。少なくとも、昌志が顔を知っている人間だった。
でも、佐藤雪という名前は分からない。
見覚えもない。
聞き覚えがあるような気もする。
けれど、それは黒い本で名前を見たからそう感じているだけかもしれなかった。
「昌志」
母の声で、昌志は顔を上げた。
「何?」
「何じゃなくて。箸、止まってる」
「ああ」
昌志は慌てて味噌汁に手を伸ばした。
少しぬるくなっている。
母が心配そうにこちらを見る。
「昨日ぶつけたところ、まだ痛む?」
「少し。大丈夫」
「本当に?」
「病院でも大したことないって言われただろ」
「そうだけど、考え事してるみたいだったから」
「考え事なんかしてない」
昌志がそう言うと、向かいに座っていた司が顔を上げた。
「何も考えてないの?」
「そう言っただろ」
「何も考えてないなら、ちょっと馬鹿みたいだね」
「お前に言われたくない」
「私、何も考えてないとは言ってないもん」
「昨日階段で滑ったやつが何言ってんだよ」
「それは関係ないでしょ!」
「関係あるだろ。俺まで巻き込まれたんだから」
「謝ったじゃん!」
「謝れば全部終わると思ってるのか」
「兄ちゃん、意地悪!」
「お前が先に言ったんだろ」
「二人とも」
母の声が少し強くなった。
昌志と司は、同時に口を閉じた。
母はため息をつく。
「朝から喧嘩しない。司も、昨日のことは反省してるんだから蒸し返さない。昌志も、妹相手に本気で返さない」
「本気じゃない」
「本気っぽかった」
司が小さく言う。
「お前な」
「昌志」
母に名前を呼ばれて、昌志は黙った。
司は少しだけ口を尖らせている。
昨日より元気そうだった。
それはよかった。
けれど、昌志の頭の中から、佐藤雪という名前は消えなかった。
知らない名前。
でも、黒い本に出た名前。
昨日、自分が気づかなかった相手。
朝食を食べ終えても、その名前だけがずっと残っていた。
■通学路
学校へ向かう途中も、昌志は佐藤雪について考えていた。
佐藤。
珍しい苗字ではない。それどころか、ありふれている
同じ学校にも、何人かいるはずだ。
でも、友達に佐藤はいない。
少なくとも、昌志が普段話す相手にはいない。
クラスにも、佐藤という女子はいなかった気がする。
男子ならいたか。
いや、いたとしても「彼女」ではない。
黒い本は、昨日の予告で確かに「彼女」と書いていた。
なら、佐藤雪は女だ。
たぶん、女子。
けれど、昌志の知っている女子の中に、佐藤雪という名前は出てこない。
自分が忘れているだけなのかもしれない。
小学校。
中学校。
塾。
近所。
どこかで会ったことがあるのかもしれない。
でも、顔が出てこない。
名前だけを思い出そうとしても、何も引っかからなかった。
「……誰なんだよ」
小さく呟いた。
昨日、すれ違っていた。
黒い本がそう書いていた。
なら、顔を見れば思い出せたのかもしれない。
でも、昌志は気づかなかった。
その時点で、もう遅い。
昨日の佐藤雪は、しばらく笑っていた。
その文章が、また胸の奥に残った。
■学校、教室
教室に入ると、圭佑はすでに来ていた。
「おはよう」
「ああ」
昌志は席に鞄を置いた。
圭佑がちらっとこちらを見る。
「腕、どうだ?」
「昨日と同じ。大したことない」
「ならよかった」
そこで会話が切れそうになった。
昌志は少し迷ってから、口を開いた。
「圭佑」
「ん?」
「佐藤雪って名前、聞いたことあるか?」
圭佑が眉を寄せた。
「なんだ突然?」
少し圭佑が考え込む。
「佐藤雪?」
「ああ」
「誰?」
「それが分からないから聞いてる」
「いや、知らないな」
「やっぱりそうか」
昌志は短く息を吐いた。
圭佑が知らないなら、自分の周りの人間ではない可能性が高い。
少なくとも、圭佑と共通して知っている相手ではない。
やっぱり知らない人間なのか。
黒い本は、知らない女の名前を出したのか。
そう思った時、圭佑が少しだけ考える顔をした。
「ちょっと待て」
「何だよ」
「佐藤雪……佐藤、雪……」
「知ってるのか?」
「いや、知ってるってほどじゃない。けど、どっかで見たか聞いたかした気がする」
「どこで」
「それがすぐ出てこない」
「何だよ、それ」
「だから待てって。後でちょっと調べてみる」
「調べる?」
「名前だけなら、どっかに残ってるかもしれないだろ。学校関係か、部活関係か、委員会関係か。まあ、思い違いかもしれないけど」
圭佑はそう言って、スマホを取り出しかけた。
けれど、すぐに先生が教室へ入ってきた。
朝のホームルームが始まる。
「後でな」
圭佑は小声で言い、前を向いた。
昌志も仕方なく前を見る。
後で調べる。
その言葉が、妙に気になった。
圭佑には、何か思い当たるものがあるのかもしれない。自分よりも、圭佑の方が先に佐藤雪へ近づいている。
そう思うと、少し落ち着かなくなった。
* *
一時間目が終わると、圭佑はすぐに席を立った。
「ちょっと行ってくる」
「どこへ?」
「少し」
「少しって何だよ」
「調べ物」
それだけ言って、圭佑は教室を出ていった。
昌志はその背中を見る。
聞き返す間もなかった。
圭佑は軽いようで、こういう時は動きが早い。
それがありがたい時もある。
でも、今は少し不安だった。
佐藤雪。
自分が知らない名前。
圭佑が思い当たるかもしれない名前。
その差が、妙に嫌だった。
二時間目の前に、圭佑は戻ってきた。
特に何も言わない。
「どうだった?」
昌志が聞くと、圭佑は首を横に振った。
「まだ分からん」
「どこ行ってたんだよ」
「ちょっと知り合いに聞いただけ」
「誰に」
「そこまで気にすんな」
「気にするだろ」
「気にするなら、もう少し待て」
圭佑はそう言って、席に座った。
授業が始まる。
昌志はノートを開いたが、なかなか集中できなかった。
昨日は、黒い本に書かれた夕方のことで頭がいっぱいだった。
今日は、佐藤雪という名前で頭がいっぱいだった。
自分が何を知らないのかも分からない。
それが一番気持ち悪かった。
三時間目の休み時間にも、圭佑はどこかへ行った。
今度はスマホを見ながら廊下へ出ていく。
誰かにメッセージを送っているようだった。
戻ってきた時には、少しだけ考え込んでいる顔をしていた。
「何か分かったのか?」
「まだ」
「まだって」
「焦るな」
「焦るだろ」
「名前だけで焦りすぎなんだよ」
「お前が調べるって言ったんだろ」
「だから調べてる」
圭佑は短く返した。
その言い方は、いつもより少しだけ真面目だった。
昌志はそれ以上聞けなかった。
圭佑がふざけていないのは分かる。
だからこそ、余計に気になる。
佐藤雪。
どこかで見たか聞いたかした気がする。
圭佑はそう言った。
なら、完全な知らない人間ではないのかもしれない。
けれど、昌志には分からない。
自分が忘れているのか。
圭佑だけが知っているのか。
それとも、黒い本に出たから無理やり気になっているだけなのか。
何もはっきりしなかった。
* *
午前中の授業が終わった。
昼休みになる。
いつもなら、圭佑と机を寄せて飯を食う。
けれど今日は、圭佑が鞄から弁当を出さなかった。
「悪い、昌志」
「何だよ」
「昼、ちょっと用事ある。先に一人で食っててくれ」
「まだ調べるのか?」
「まあ、そんなとこ」
「何か分かったなら言えよ」
「ちゃんと分かったら言う」
「今は?」
「まだ中途半端」
圭佑はそう言って、スマホをポケットに入れた。
「すぐ戻るかは分からない」
「おい」
「悪いな」
圭佑は軽く手を上げて、教室を出ていった。
昌志は、しばらくその背中を見ていた。
圭佑が昼飯を後回しにしてまで調べる。
それほどのことなのか。
それとも、圭佑は単に面倒見がいいだけなのか。
分からない。
昌志は一人で弁当を出した。
蓋を開けても、あまり食欲は湧かなかった。
佐藤という友達はいない。
少なくとも、昌志の周りにはいない。
それに、黒い本は「彼女」と書いていた。
女だ。
佐藤雪。
昨日、街中ですれ違った女。
微笑んでいた。
ひとりで悩みを抱えていた。
昌志は声をかけなかった。
相手も昌志に気づかなかった。
昨日の自分は、遥か美月だと思って探していた。
それ以外を見ていなかった。
だから、見落とした。
そう考えると、黒い本に責任を押しつけることもできなかった。
場所が曖昧だった。
時間も曖昧だった。
彼女が誰かも分からなかった。
それは確かだ。
でも、佐藤雪はそこにいた。
自分は、その横を通り過ぎた。
昌志は箸を持ったまま、弁当を見下ろした。
圭佑は調べている。
でも、本当は自分が思い出さなければいけないのかもしれない。
自分と佐藤雪の間に何かがあったのなら。
自分が忘れているだけなら。
そう思って、昌志はもう一度、頭の中で名前を繰り返した。
佐藤雪。
佐藤雪。
佐藤雪。
それでも、顔は浮かばなかった。
昼休みの教室は騒がしい。
笑い声も、椅子を動かす音も、誰かが弁当を広げる音も聞こえる。
その中で、昌志だけが、知らない名前に引っかかったまま動けずにいた。




