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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第71話 気づかなかった彼女

七月一日の夕方。


 家に帰ると、母に腕のことを聞かれた。


「痛み、強くなってない?」


「大丈夫」


「今日は早く休みなさいよ」


「分かってる」


「司も反省してたよ」


「別に、司が悪いわけじゃないだろ」


「でも、階段は気をつけないとね」


「ああ」


 昌志は短く答え、自分の部屋へ上がった。


 階段を上がる時も、自然と足元を見てしまった。


 朝のことが、まだ体に残っている。


 部屋に入ると、鞄を机の横に置いた。


 黒い本を取り出す。


 手が少し重かった。


 夕方の彼女。


 会えなかった。


 少なくとも、昌志はそう思っていた。


 黒い本が間違ったのか。


 それとも、自分が間違った場所を歩いたのか。


 どちらなのかを知るためには、開くしかない。


 昌志は椅子に座り、黒い本を開いた。


 七月一日のページは、朝に見た時よりも黒く沈んでいるように見えた。


 そこに、今日の文章が浮かんでいた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――七月一日、朝。


 家を出る時、

 階段で事故に遭った。


 昌志は、

 慎重に階段を下りた。


 痛みを避けようとして、

 一段ずつ確かめて進んだ。


 階段を下り終え、

 玄関から外へ出ようとした時、

 司が階段で足を滑らせた。


 昌志は、

 落ちてきた司にぶつかった。


 腕と肩と膝に、

 少しだけ痛みが残った。


 母は驚き、

 二人を病院へ連れて行った。


 司にも昌志にも、

 大きな怪我はなかった。


 昌志は、

 少し遅れて学校へ行った。


 ――七月一日、夕方。


 街中を歩き回っていた時、

 昌志は佐藤雪とすれ違った。


 佐藤雪は、

 微笑んでいた。


 けれど、

 ひとりで悩みを抱えていた。


 昌志は、

 それに気づかなかった。


 昌志は、

 佐藤雪に声をかけなかった。


 佐藤雪も、

 昌志に気づかなかった。


 二人は、

 挨拶もせずに通り過ぎた。


 佐藤雪は、

 しばらく笑っていた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、文章を読んだまま固まった。


「……誰だよ」


 声が出た。


 佐藤雪。


 知らない名前だった。


 遥ではない。


 美月でもない。


 どちらでもなかった。


 しかも、会っていなかったわけではない。


 黒い本には、すれ違ったと書いてある。


 街中を歩き回っていた時。


 昌志は、佐藤雪とすれ違っていた。


 でも、自分は気づかなかった。


 声もかけなかった。


 相手も、昌志に気づかなかった。


 挨拶もせずに通り過ぎた。


 ただ、それだけ。


「佐藤雪って……誰なんだよ」


 もう一度、同じことを呟いた。


 名前が出ている。


 黒い本の結果には、はっきりと名前が出ている。


 それなのに、昌志には誰なのか分からない。


 今まで、名前が出る相手は、自分に近い人間だと思っていた。


 圭佑。


 美月。


 遥。


 司。


 自分の周りにいる人間。


 少なくとも、顔が分かる人間。


 そう思っていた。


 でも、佐藤雪は違う。


 名前を見ても、顔が浮かばない。


 どこかで聞いたことがあるような気もする。


 でも、それが本当に記憶なのか、ただ名前を見たせいでそう思っているだけなのかも分からない。


 昌志は、黒い本の文章を何度も読み返した。


 佐藤雪は、微笑んでいた。


 けれど、ひとりで悩みを抱えていた。


 昌志は、それに気づかなかった。


 彼女は微笑んでいる。


 けれど、目だけで助けを訴えている。


 昨日の予告とつながる。


 つながってしまう。


 自分は、見つけたのだ。


 いや、正確にはすれ違った。


 でも、気づかなかった。


 気づけなかった。


 だから、助けられなかった。


 黒い本は間違っていない。


 朝の事故も起きた。


 夕方の彼女にも会っていた。


 ただ、昌志がそれに気づかなかっただけだ。


「……こんなの、分かるわけないだろ」


 声が低くなった。


 街中。


 彼女。


 微笑んでいる。


 それだけで、どうやって佐藤雪を見つければよかったのか。


 遥か美月だと思った。


 それが自然だと思った。


 でも違った。


 まったく知らない名前が、結果に出た。


 これまでのルールと違う。


 いや、そもそも昌志が勝手にそう思っていただけなのかもしれない。黒い本は、最初からそんなルールを説明していない。


 名前が出る相手は親しい人間だけだなんて、どこにも書いていない。


 ただ、自分がそう思っていただけだ。


 昌志はページの端を見た。


 黒い滲みが、朝より濃くなっているように見えた。


 七月に入ってから、黒い本は分かりにくくなった。


 でも、分かりにくくなっただけではない。


 自分が分かったつもりでいたものまで、壊してくる。


 佐藤雪。


 その名前だけが、妙に目に残った。


 知らない相手。


 でも、今日、すれ違った相手。


 悩みを抱えていた相手。


 自分が気づかなかった相手。


 助けられなかった相手。


 昌志は、椅子にもたれた。


 腕が痛む。


 朝の痛みは少しで済んだ。


 でも、夕方の方は、痛みがない。


 痛みがないのに、胸の奥が重かった。


 彼女は、しばらく笑っていた。


 その一文が、嫌だった。


 笑っていた。


 助けを求めていたのに。


 ひとりで悩みを抱えていたのに。


 それでも、笑っていた。


 自分は、その前を通り過ぎた。


「……何なんだよ、本当に」


 昌志は黒い本を閉じようとして、手を止めた。


 閉じれば終わるわけではない。


 黒い本が予定表ではないなら、起きたことは文章になる。


 選ばなかったものは、消えたとは限らない。


 気づかなかったものも、消えたとは限らない。


 そう言われている気がした。


 昌志はしばらく、佐藤雪という名前を見続けた。


 それでも、何も思い出せなかった。


 * *


 夜が深くなった。


 夕飯を食べ、風呂に入り、昌志はまた部屋に戻った。


 母には早く休めと言われた。


 司にも、寝る前に小さく謝られた。


「兄ちゃん、ごめんね」


「いいよ。大したことなかったし」


「でも、痛かったでしょ」


「少しな」


「本当にごめん」


「次から気をつけろ」


「うん」


 司はいつもよりしおらしくうなずいた。


 その顔を見ていると、怒る気にはなれなかった。


 午前零時が近づく。


 昌志は机の前に座っていた。


 黒い本は、開いたままだ。


 七月一日の結果が、まだそこにある。


 佐藤雪。


 知らない名前。


 気づかなかった彼女。


 その文字を見ているうちに、日付が変わった。


 午前零時。


 七月二日になった。


 けれど、ページは変わらなかった。


 新しい文字は浮かばない。


 日付も出ない。


 ただ、七月一日の文章だけが、黒く沈んだページの上に残っていた。


「……何もない、ってことか」


 昌志は小さく呟いた。


 黒い本は、何もない日をわざわざ書かない。


 出来事がなければ、日付ごと飛ばす。


 それは前からそうだった。


 だから、七月二日は何もないのかもしれない。


 少なくとも、黒い本が書くようなことは。


 けれど、佐藤雪という名前は消えない。


 七月二日の文字が出なかった分だけ、今日の失敗がそこに残り続けているように見えた。


 昌志は黒い本を閉じた。


 何も起きない日が、安心できる日とは限らない。


 そう思いながら、しばらく机の前から動けなかった。

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