表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
77/121

第70話 見つからなかった二人

 七月一日の昼。


 昼休みになっても、昌志はすぐには席を立たなかった。


 腕の痛みは、まだ少し残っている。


 湿布の貼られた場所が、制服の袖の下で妙に気になった。


 朝、階段で事故に遭った。


 自分は慎重に下りた。


 それでも、司が階段で滑ってきて、怪我をした。


 結果として、黒い本に書かれていたことは起きた。


 避けられたわけではない。少しで済んだだけだ。ただ司を助けられたことは幸いだった。


 そのことを考えると、昼休みのざわめきも、どこか遠く聞こえた。


 昌志の頭の中にあるのは、もう一つの文章だった。


 七月一日、夕方。


 街中で、彼女と会う。


 彼女は微笑んでいる。


 けれど、目だけで助けを訴えている。


 昌志が気づけば、彼女はひとりで抱え込まずに済む。


 昌志が気づかなければ、彼女はしばらく笑っている。


 彼女。


 やはり、誰なのか分からない。


 けれど、黒い本が「彼女」と書いている以上、まったく知らない相手とは思えなかった。


 少なくとも、これまでの黒い本はそうだった。


 名前が出ない時でも、昌志に関係のある人物だった。だから今回も、そうだと思っていた。


「昌志」


 圭佑に呼ばれて、昌志は顔を上げた。


「飯、食わないのか?」


「ああ。食う」


「ずっと考え込んでたぞ」


「ちょっとな」


 昌志は鞄から弁当を出した。


 母が朝の病院の後で、慌ただしく用意してくれたものだった。


 いつもより少し雑に詰められている。


 それが、妙に申し訳なかった。


「腕、まだ痛むのか?」


「少し」


「無理すんなよ」


「分かってる」


 圭佑は机を寄せてきた。


 昌志も弁当の蓋を開ける。


 食べながらも、考えは止まらなかった。


 夕方。


 街中。


 この二つが曖昧すぎる。


 夕方とは何時なのか。


 放課後すぐなのか。


 日が傾いてからなのか。


 駅前へ向かう時間帯なのか。


 それとも、もっと後なのか。


 街中というのも広い。


 正直、どこを歩けばいいのか分からない。


 黒い本は、前よりずっと不親切になっている。


 昌志は卵焼きを口に入れながら、眉を寄せた。


「また難しい顔してる」


 圭佑が言った。


「してない」


「してる。朝よりしてる」


「朝は事故った後だったからだろ」


「今も何か事故りそうな顔してるぞ」


「どういう顔だよ」


「知らんけど」


 圭佑は軽く笑った。


 その笑い方に、昌志も少しだけ口元を緩めた。でも、頭の中は夕方のことでいっぱいだった。


 彼女がようなら、駅前にいる可能性がある。


 遥は隣町の女子校に通っている。


 帰りに駅前を通ることはあるはずだ。


 美月なら、ファミレスの近くかもしれない。圭佑の妹だから、駅前で会っても不思議ではない。


 見かけたら声をかければいい。


 困っていそうなら、助ければいい。


 それだけのはずだった。


 ただ、見かけられなければ意味がない。


 黒い本は、場所も時間もぼかしている。


 自分がそこに行かなければ、会えない。


 会えなければ、気づけない。


 気づけなければ、彼女はしばらく笑っている。


 その言葉だけが、嫌に残った。


 *    *


 午後の授業は、思ったよりちゃんと受けられた。


 朝の事故のせいで体が疲れているはずなのに、昌志はいつもよりノートを取っていた。


 黒板を見る。


 先生の説明を聞く。


 必要なところを書き写す。


 それだけを繰り返していると、余計なことを考えずに済む瞬間があった。


 完全に忘れられるわけではない。


 けれど、授業中ずっと窓の外を見ているよりはましだった。


 休み時間、圭佑が少し感心したように言った。


「珍しいな」


「何が?」


「昌志がちゃんと集中してる」


「俺はいつもしてる」


「それ、自分で言うか?」


「言うだろ」


「いや、言わないだろ」


 圭佑は笑った。


 昌志はシャーペンを指で回しながら、軽く肩をすくめる。


「まあ、ぼーっとしてるよりはいいだろ」


「それはそうだけど。腕痛いんだから、無理すんなよ」


「分かってる」


「分かってるやつの顔じゃないんだよな」


「どんな顔だよ」


「何か、放課後にやることある顔」


 昌志の指が止まった。


 圭佑は、冗談半分の顔をしていた。


 でも、その言葉は妙に鋭かった。


「別に」


「本当か?」


「本当だよ」


 昌志は目をそらした。


 放課後にやることはある。


 でも、言えるわけがない。


 黒い本に、夕方、街中で彼女と会うと書いてあった。


 だから、駅前を歩き回るつもりだ。


 そんなことを言えるはずがない。


「まあ、怪我してるんだから、今日はまっすぐ帰れよ」


「分かってる」


 嘘だった。


 まっすぐ帰るつもりはなかった。


 放課後になったら、すぐ駅前へ行く。


 夕方がいつなのか分からないなら、学校が終わってすぐ動くしかない。


 遅れたせいで会えなかったら、意味がない。


 昌志は、もう一度ノートを開いた。


 考える時間は、放課後になってからでいい。


 今は、授業を受ける。


 そう決めた。


 *    *    *


 放課後になった。


 終礼が終わり、教室が一気に騒がしくなる。


 部活へ向かう生徒。


 友達と話しながら帰る生徒。


 スマホを見ながら席を立つ生徒。


 いつもの放課後だった。


 昌志は、いつもより早く鞄を持った。


 机の横に掛けていた鞄を肩にかけ、教室を出ようとする。


「昌志」


 圭佑が呼んだ。


「帰るのか?」


「ああ」


「一緒に――」


「悪い。ちょっと寄るところある」


「おい、怪我してるんだからまっすぐ帰れって」


「大したことない」


「いや、さっき自分で病院行ったって言ってただろ」


「すぐ終わる」


 昌志はそれだけ言って、駆け足で教室を出た。


 背後で圭佑が何か言った気がした。


 けれど、足を止めなかった。


 夕方。


 街中。


 どちらも曖昧だ。


 だから、時間がかかる。それなら、少しでも早く行くしかない。


 昌志は階段を下りる時、今朝のことを思い出して足を止めそうになった。


 でも、学校の階段では何も起きなかった。


 手すりを見ながら、いつもより慎重に下りる。


 それから校舎を出て、駅前へ向かった。


 *   *


 駅前に着く頃には、空の色が少しだけ変わり始めていた。


 夕方と言えば夕方だ。


 でも、まだ明るい。


 人通りも多い。


 学校帰りの生徒。


 買い物帰りの大人。


 駅へ急ぐ会社員。


 店の前で立ち止まる人。


 その中から、誰かを見つけなければならない。


「……どこだよ」


 昌志は小さく呟いた。


 まず、駅前広場を歩いた。


 遥がいるかもしれない。


 美月がいるかもしれない。


 そう思って、人の顔を見る。


 けれど、遥はいない。


 美月もいない。


 次に、本屋へ向かった。


 遥とは本屋で会ったことがある。


 もし遥なら、本屋の近くにいる可能性は高い。


 店内に入る。


 新刊の棚。


 参考書の棚。


 文庫の棚。


 人はいる。


 でも、遥はいない。


 昌志は店内を一周し、何も買わずに出た。


 次に、ファミレスの近くへ向かった。


 美月と会った場所。


 圭佑のことを話した場所。


 もし美月が何か悩んでいるなら、またこのあたりにいるかもしれない。


 けれど、店の外にも、窓際の席にも、美月の姿はなかった。


 昌志は駅前通りを歩いた。


 広場に戻る。


 商店街の入口まで行く。


 横道を見る。


 人混みの中に、遥のショートカットを探す。


 美月の顔を探す。


 それらしい後ろ姿を見るたびに、足が止まりそうになる。


 でも、違う。


 また違う。


 何度歩いても、二人には会えなかった。


 時間だけが過ぎていく。


 夕方という言葉が、どんどん曖昧になっていく。


 今が夕方なのか。


 もう夕方なのか。


 まだ夕方ではないのか。


 分からない。


 昌志は駅前広場の端で立ち止まった。


 腕が少し痛い。


 病院で貼られた湿布の感覚が、また気になり始めた。


 朝の事故は起きた。


 黒い本は間違っていなかった。


 なら、夕方の彼女もいるはずだ。


 でも、いない。


 遥にも会わない。


 美月にも会わない。


 本が間違ったのか。


 それとも、自分が歩いた場所が間違っているのか。


 街中という言葉が広すぎる。


 駅前ではないのかもしれない。


 もっと別の場所なのかもしれない。


 でも、どこへ行けばいいのか分からない。


「……無理だろ、こんなの」


 声が小さく落ちた。


 それでも、昌志はもう一度歩いた。


 本屋の前。


 駅前広場。


 ファミレスの前。


 商店街の入口。


 そこを何度か回った。


 けれど、遥にも美月にも会えなかった。


 彼女が誰なのかも分からなかった。


 日が少しずつ落ちていく。


 人の流れが変わる。


 学校帰りの生徒が減り、仕事帰りの大人が増える。


 昌志は、結局誰にも声をかけなかった。


 誰からも声をかけられなかった。


 やがて、諦めるしかなくなった。


 思った通り、誰かを見つけることなんてできなかった。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ