第69話 それでも事故は起きる
七月一日の朝。
昌志は、目が覚めてすぐに天井を見た。
昨日の夜、黒い本に浮かんだ文章が、頭の中に残っている。
家を出る時、階段で事故に遭う。
慎重に進めば、痛みは少しで済む。
急いで進めば、しばらく痛みが残る。
避けられるとは書かれていなかった。
けれど、慎重に進めば痛みは少しで済む。
なら、できることはそれだけだった。
「……慎重に行けばいいんだろ」
昌志は小さく呟いて、起き上がった。
いつもより少しだけ早く着替えた。
鞄の中身を確認する。
教科書。
ノート。
筆箱。
スマホ。
財布。
黒い本。
黒い本を入れる時、指が少し止まった。
持っていかなければいい。
そう思うことは、何度もある。
でも、持っていかなければ、夕方のことが分からない。
街中で、彼女と会う。
彼女は微笑んでいる。
けれど、目だけで助けを訴えている。
その文章も、昨日の夜から消えない。
昌志は黒い本を鞄に入れた。
階段で事故に遭う朝。
その後に、彼女と会う夕方。
今日は、そういう日だ。
昌志は深く息を吐き、部屋を出た。
朝食は、いつも通りだった。
母が用意したご飯と味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
司は眠そうな顔で箸を動かしていた。
「司、眠そうだな」
「眠い」
「そのまんまだな」
「兄ちゃんだって、顔怖いよ」
「元からだ」
「それ、自分で言うんだ」
司が小さく笑う。
母が二人を見て、少し安心したように笑った。
「昌志、今日は早く出るの?」
「普通に出る」
「あんまり急がないでね」
その言葉に、昌志は少しだけ箸を止めた。
急がない。
慎重に進めば、痛みは少しで済む。
黒い本の文章が、また頭に浮かぶ。
「……分かってる」
「どうしたの?」
「いや。今日は急がない方がいい気がしただけ」
「珍しいこと言うね」
母は軽く笑った。
昌志は曖昧に返して、残りを食べた。
食事を終える。
歯を磨き、鞄を持つ。
いつもなら、そのまま何も考えずに階段を下りる。
けれど今日は違う。
自分の部屋から一階へ下りる階段。
家を出る時の階段。
黒い本が言っているのは、多分ここだ。
ほかに思い当たる場所はない。
駅の階段かもしれない。
学校の階段かもしれない。
でも、家を出る時と書かれている以上、まずはこの階段だ。
昌志は階段の上に立ち、手すりを見た。
一段目。
二段目。
ゆっくり足を置く。
いつもなら、もっと雑に下りる。
今日は違う。
急がない。
足元を見る。
手すりに軽く手を添える。
一段ずつ下りる。
馬鹿みたいだと思った。
たかが家の階段だ。
毎日上り下りしている場所だ。
ここで事故に遭うなんて、普通なら考えない。
でも、黒い本には書いてあった。
だから昌志は、慎重に下りた。
一段。
また一段。
足を滑らせない。
鞄を壁にぶつけない。
段差を踏み外さない。
何も起きない。
何も起きないまま、昌志は一階へ下りた。
「……ほら」
小さく呟く。
大丈夫だった。
慎重に下りれば、事故にならない。
そう思った。
玄関へ向かう。
靴を履く。
鞄を肩にかけ直す。
あとは扉を開けて外へ出るだけだった。
「行ってきます」
そう言って、玄関のドアに手を伸ばした。
その時だった。
「わっ」
背後から、司の声がした。
反射的に振り返る。
階段の途中で、司の足が滑っていた。
まだ寝ぼけていたのか。
急いで下りようとしたのか。
司の体が大きく傾き、そのまま階段を滑るように落ちてくる。
「司!」
昌志はとっさに手を伸ばした。
受け止めようとした。
けれど、間に合わなかった。
司の体が昌志にぶつかる。
鞄が肩からずれ、昌志の背中が玄関脇の壁に当たった。
鈍い音がした。
「っ……!」
腕に痛みが走る。
肩も壁にぶつけた。
足元の靴がずれて、膝も玄関の段差に当たった。
痛い。
けれど、立てないほどではない。
「司、大丈夫か!」
昌志は痛みをこらえて、司を見た。
司は床に座り込んでいる。
驚いた顔で、目を丸くしていた。
「……い、痛い」
「どこ」
「お尻と、足」
「頭は?」
「打ってない、と思う」
「本当か?」
「うん……たぶん」
母が台所から飛び出してきた。
「何!? 今の音!」
「司が階段で滑った」
「司!」
母が慌てて駆け寄る。
司の肩や頭を確認し、顔色を見る。
その後、昌志にも目を向けた。
「昌志もぶつかったの?」
「少し」
「少しじゃないでしょ、すごい音したよ」
「壁に当たっただけ」
「だけじゃない。腕、見せて」
昌志は言われるまま、腕を出した。
肘のあたりが赤くなっている。
肩も少し痛い。
膝もじんじんしていた。
でも、動かせる。
骨がどうこうという感じではない。
「大したことない」
「それは病院で見てもらってから言いなさい」
「学校あるんだけど」
「遅れるって連絡するから。司も一応見る」
「え、私も?」
「当たり前でしょ。階段から滑ったんだから」
司がしゅんとした顔になる。
昌志は壁に手をつきながら、立ち上がった。
痛みはある。
けれど、少しで済んだ。
黒い本に書かれていた通りだった。
慎重に進めば、痛みは少しで済む。
昌志は、階段を下りる時は慎重だった。
でも、事故は起きた。
自分が足を滑らせたわけではない。
司が滑った。
階段から落ちてきた。
それに巻き込まれた。
避けようがなかった。
「……そういうことかよ」
「昌志?」
母が振り向く。
「何でもない」
昌志は首を振った。
黒い本に書かれたことは、やっぱり起きる。
慎重にしたから、少しで済んだだけだ。
起きないわけではなかった。
そのことが、朝からはっきり分かってしまった。
* *
病院では、二人とも大きな怪我はないと言われた。
司は尻もちと足の打撲。
昌志は腕と肩、それから膝を軽く打っただけ。
湿布を貼られ、無理をしないようにと言われた。
それだけだった。
母は学校へ連絡してくれていた。
* *
だから昌志が教室に入った時、先生から特に何かを言われることはなかった。
「岐阜、体調は大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
「無理するなよ」
「はい」
短いやり取りだけで済んだ。
席へ向かう。
周囲の何人かが、ちらっとこちらを見る。
遅れてきたからだろう。
昌志はなるべく普通の顔で席に座った。
鞄を置くと、圭佑がすぐに体を寄せてきた。
「おい、昌志。どうしたんだよ」
「ちょっと家で事故った」
「事故?」
「階段」
「お前が落ちたのか?」
「違う。司が滑ってきた」
「司ちゃん?」
圭佑の顔が一瞬で真面目になる。
「司ちゃん、大丈夫だったのか?」
「お前、先に俺の心配しろよ」
「いや、お前はここにいるし」
「俺も病院行ったんだけど」
「でも普通に座ってるじゃん」
「薄情だな」
昌志がそう言うと、圭佑は少し笑った。
その笑い方がいつも通りで、昌志も少しだけ力が抜けた。
「で、本当に大丈夫なのか?」
「司も俺も大したことなかった。少し打っただけ」
「ならよかった」
「俺の方はついでかよ」
「お前は大丈夫そうだから」
「大丈夫そうに見えるだけかもしれないだろ」
「じゃあ、痛いのか?」
「少し」
「少しなら大丈夫だな」
「雑だな」
圭佑は笑ってから、少し声を落とした。
「でも、気をつけろよ。階段って地味に危ないからな」
「ああ」
昌志は短く答えた。
気をつけていた。
今日だけは、いつもよりずっと気をつけていた。
それでも事故は起きた。
そのことは、圭佑には言えない。
黒い本に書かれていたから慎重に下りた。
それでも司が滑ってきた。
だから黒い本は絶対だと思った。
そんなことを言えるはずがない。
昌志は机の下で、鞄の中に入れた黒い本を意識した。
重い。
実際の重さは変わらない。
でも、今日はいつもより重く感じた。
授業中、昌志は何度も腕の痛みを感じた。
シャーペンを持つ時。
ノートを取る時。
机に肘を置いた時。
そのたびに、黒い本の文章が蘇る。
慎重に進めば、痛みは少しで済む。
確かに、少しで済んだ。
病院に行って、湿布を貼られて、遅れて学校へ来られる程度で済んだ。
もし急いでいたら。
もし手すりも見ずに、いつものように雑に下りていたら。
司が落ちてきた時、もっと変な姿勢でぶつかっていたかもしれない。
階段の途中で巻き込まれていたかもしれない。
そう考えると、黒い本は外れていない。
むしろ、正しかった。
嫌になるくらい正しかった。
けれど、昌志が考えていたのは、それだけではない。
もう一つの文章。
七月一日、夕方。
街中で、彼女と会う。
彼女は微笑んでいる。
けれど、目だけで助けを訴えている。
昌志が気づけば、彼女はひとりで抱え込まずに済む。
昌志が気づかなければ、彼女はしばらく笑っている。
彼女。
誰なのかは書かれていない。
昨日の夜から、何度考えても分からなかった。
遥か。
美月か。
昌志が「彼女」と言われてすぐに思い浮かべるのは、その二人しかいなかった。
遥なら、駅前で会う可能性はある。
昨日も駅前で会った。
学校は違うが、帰りに駅を使うなら、街中で会っても不思議ではない。
美月もあり得る。
圭佑の妹で、駅前のファミレスで会った。
また何か圭佑のことで悩んでいるのかもしれない。
けれど、どちらにしても、場所が曖昧すぎる。
街中。
それだけだ。
駅前なのか。
本屋の近くなのか。
商店街なのか。
どこを歩けば会えるのか分からない。
ただ、これまでの流れを考えると、駅前に行くのが一番可能性が高い。
駅前。
本屋。
広場。
ファミレスの近く。
そのあたりを歩けば、会えるのかもしれない。会えるというより、見つけなければならない。
彼女は微笑んでいる。
けれど、目だけで助けを訴えている。
つまり、普通に見ただけでは分からない。
笑っているように見える。
困っていないように見える。
それでも気づかなければならない。助けるために。
昌志は窓の外を見た。
授業の声が遠く聞こえる。
腕の痛みが、また少しだけ強くなった。
朝の事故は、もう起きた。
残っているのは夕方の彼女だ。
昼休みの予鈴が鳴る。
教室の空気が少し緩んだ。
昌志はノートを閉じながら、もう一度だけ考えた。
遥かなのか美月か。
そこまで考えて、昌志は首を振った。
分からない。
分からないなら、探すしかない。
昼休みになった。




