第68話 黒く滲む七月
六月三十日の夜。
昌志は、机の前に座っていた。
今日は何もなかった。
そう言っていいのかは分からない。
学校では、火事の話題がまだ残っていた。
赤ん坊を助けた高校生が名乗り出ないことについて、好き勝手に話す声も聞こえた。
なぜ出てこないのか。
家族があれだけ訴えているのに。
もしかして、火事場泥棒だったのではないか。
冗談のように言われたその言葉が、思ったより長く胸の奥に残っていた。
でも、黒い本に書かれた出来事はなかった。
朝、ページを開いた時、そこには新しい候補がなかった。
だから昌志は学校へ行き、授業を受け、圭佑と話し、普通に帰ってきた。
それだけの日だった。
何もなかった日。
そう思いたかった。
昌志は机の上に置いた黒い本を見た。
黒い表紙は、いつもと同じように見える。
ただ、今日は妙に開くのが怖かった。
候補がなかった日ほど、次に何が来るのか分からない。
六月二十九日のページには、遥の髪留めのことが残っている。
その文章を思い出すと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
黒い本は、あったことだけを書いている。
でも、書かれた文章を読むたびに、自分の中の何かまで見られている気がした。
「……今日は、もう何もないだろ」
昌志はそう言ってから、自分で少し嫌になった。
黒い本に向かって言い訳をしているみたいだった。
時計を見る。
午後十一時五十分を過ぎている。
もうすぐ日付が変わる。
六月が終わる。
四月に黒い本を買ってから、まだ二か月半ほどしか経っていない。
それなのに、ずっと長い時間が過ぎたように思えた。
最初は、小さな幸運だけだった。
雨を避けること。
小テストの範囲を知ること。
体育で怪我をしないこと。
自販機で当たりが出ること。
そういう、どうでもいいようなことから始まった。
でも今は違う。
火事。
赤ん坊。
遥。
圭佑。
美月。
司。
黒い本の外側にも、出来事が広がっている。
昌志は、黒い本を開いた。
六月二十九日の文章がある。
遥の小さな飾りが落ちたこと。
昌志が拾ったこと。
遥が、大切なものだからお礼をしたいと言ったこと。
名前で呼び合うことになったこと。
その下には、まだ何もない。
白い余白がある。
昌志は少しだけ息を吐いた。
このまま何も出なければいい。
六月三十日は、何もなかった日として終わる。
それでいい。
そう思った。
けれど、日付が変わる少し前だった。
ページの端が、妙に黒く見えた。
「……ん?」
昌志は顔を近づけた。
紙が汚れているわけではない。
インクが垂れたわけでもない。
ただ、白いはずの余白の端に、薄い黒さが滲んでいるように見えた。
前にも、黒い文字は浮かんできた。
けれど、これは少し違う。
文字が出る前に、紙そのものが黒くなっていくようだった。
黒いものが、紙の奥から染み出してくる。
そんなふうに見えた。
「何だよ、これ」
昌志は指先でページの端に触れた。
指にインクはつかない。
濡れてもいない。
紙の感触も変わらない。
それなのに、黒さだけがそこにある。
時計の針が、午前零時を越えた。
六月が終わった。
七月一日になった。
その瞬間、黒い滲みの中に、ゆっくりと文字が浮かび上がった。
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これは予定表ではない。
これは、
まだ書かれていない自叙伝である。
選ばなかったものは、
消えたとは限らない。
――七月一日、朝。
家を出る時、
階段で事故に遭う。
慎重に進めば、
痛みは少しで済む。
急いで進めば、
しばらく痛みが残る。
――七月一日、夕方。
街中で、
彼女と会う。
彼女は微笑んでいる。
けれど、
目だけで助けを訴えている。
昌志が気づけば、
彼女はひとりで抱え込まずに済む。
昌志が気づかなければ、
彼女はしばらく笑っている。
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昌志は、しばらく文字を見つめていた。
これは予定表ではない。
これは、まだ書かれていない自叙伝である。
選ばなかったものは、消えたとは限らない。
六月にも読んだ文章だった。
初めて読んだ時は、意味が分からなかった。
予定表ではない。
自叙伝。
選ばなかったものは、消えたとは限らない。
その言葉を、ただ不気味だと思った。
でも、今は少し違う。
六月を過ごした後で読むと、その意味が前より重く感じられた。
黒い本は、予定を教えているだけではない。
起きるかもしれない出来事を並べているだけでもない。
自分が選んだこと。
自分が避けたこと。
自分が見なかったことにしたもの。
それらを、あとから文章にしていく。
そして、選ばなかったものは、消えたとは限らない。
その一文が、七月のページの黒い滲みの中に浮かんでいる。
それが嫌だった。
昌志は、下の文章へ目を移した。
七月一日。
朝。
家を出る時。
階段で事故に遭う。
そこには、細かいことは書かれていない。
何が原因なのか。
どんなふうに事故になるのか。
それは分からない。
ただ、家を出る時、階段で事故に遭う。
それだけが書かれている。
「……事故って何だよ」
小さく呟いた。
慎重に進めば、痛みは少しで済む。
急いで進めば、しばらく痛みが残る。
避けられるとは書いていない。
慎重にすれば、事故そのものがなくなるとは書いていない。
痛みが少しで済むだけだ。
その書き方が、嫌だった。
六月までなら、もう少し分かりやすかった気がする。
どこへ行くのか。
何が落ちるのか。
誰を助けるのか。
少なくとも、そういうものが少しは見えていた。
でも今は違う。
階段で事故に遭う。
それだけ。
原因も、場所も、詳しくは分からない。
黒い本は、少しずつ不親切になっている。
それとも、悪くなっているのは本ではなく、自分の方なのか。
昌志には分からなかった。
朝の文章から目を離し、下の文章を見る。
七月一日、夕方。
街中で、彼女と会う。
彼女。
名前はない。
遥ではない。
美月でもない。
ただ、彼女。
昌志は眉を寄せた。
今の黒い本なら、名前が出ないことがある。
前よりも曖昧になっている。
けれど、彼女と書かれている以上、完全に知らない相手ではないような気もした。
昌志がまず思い浮かべたのは、遥だった。
昨日まで何度も名前が出ていた。
髪留めを拾った。
名前で呼び合うことになった。
黒い本が「彼女」とぼかしているだけで、本当は遥のことかもしれない。
次に、美月の顔が浮かんだ。
圭佑の妹。
駅前のファミレスで話した。
圭佑のことを心配していた。
彼女と言われて、思い浮かべる相手がいるとしたら、その二人くらいだった。
それ以外は、すぐには浮かばなかった。
文章は、それ以上を教えてくれない。
街中で会う。
彼女は笑っている。
けれど、目だけで助けを訴えている。
昌志は、その一文を何度も読んだ。
笑っている。
けれど、助けを訴えている。
声は出していない。
周りには分からない。
でも、目だけは助けてほしいと言っている。
嫌な文章だった。
良い方に見える。
誰かを助ける文章だ。
でも、気持ち悪い。
助けられるなら助けた方がいいに決まっているのに、その前にある状況が嫌だった。
笑っていなければならない。
目だけで助けを訴えなければならない。
そんな状況に、誰かがいる。
昌志は、ページの端の黒い滲みを見た。
文字の周りまで、薄く黒く見える。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいには見えなかった。
七月になった。
それだけで、黒い本は変わった。
そんな気がした。
昌志は朝の文章に戻る。
階段で事故に遭う。
家を出ないという考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
でも、すぐに消えた。
家を出なければ、学校へ行けない。
学校へ行かなければ、夕方に街中へ向かうこともできない。
夕方の彼女に気づけないかもしれない。
彼女が遥なら。
美月なら。
どちらでもなくても。
目だけで助けを訴えている誰かがいるなら、見ないふりはできない。
だから、家は出るしかない。
階段で事故に遭うと分かっていても、出るしかない。
「……慎重に行くしかないか」
昌志は小さく言った。
慎重に進めば、痛みは少しで済む。
そう書かれている。
事故そのものは完全に避けられないとしても、痛みを少しにすることはできるのかもしれない。
でも、その考え方自体が、もう黒い本に合わせて動いているようで嫌だった。
何をすればいいかではなく、どの痛みを選ぶか。六月の終わりには、まだそこまで思わなかった。
七月一日の最初の文章が、もうそれだった。
昌志は黒い本を閉じた。
閉じても、黒い滲みが目の奥に残っている。
朝、階段で事故に遭う。
夕方、街中で彼女と会う。
彼女は笑っている。
けれど、目だけで助けを訴えている。
明日は、そういう日になる。
そう決まっているように思えた。
昌志は椅子にもたれ、天井を見た。
今日は何もなかった。
六月三十日は、何もなかった。
でも、何もない日は終わった。
黒い本は、七月を黒く滲ませながら始めていた。




