第67話 何もなかった日
六月三十日の朝。
昌志はいつもより少し早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る前だった。
天井を見たまま、しばらく動かなかった。
昨日のことが、まだ頭の中に残っている。
駅前。
遥の髪留め。
母が若い頃に使っていた、大切なもの。
困っている時に、見つけてくれる人なんですね。
昌志さん。
その声が、妙に耳に残っていた。
昌志は布団から起き上がり、机の上の黒い本を見た。
表紙は黒いままだ。
開く、ページには、昨日の結果以外、何も増えていなかった。
今日、何かを選べとは書かれていない。
「……何もなしか」
小さく呟いた。
何もない。その言葉に、少しだけ安心した。けれど、完全には安心できない。
黒い本に何も書かれていなくても、何も起きないとは限らない。
昨日もそうだった。
学校では火事の話題が残っていた。
テレビでは、赤ん坊の家族が名乗り出てほしいと訴えていた。
司は、どうして出てこないんだろうねと言った。
黒い本が書かなくても、出来事は続いている。
それでも、今日は候補がない。
それだけで、少し息がしやすかった。
昌志は黒い本を閉じ、鞄に入れた。
今日は普通に学校へ行く。
普通に授業を受ける。
普通に帰ってくる。
ただそれだけの日になる。
そう思いたかった。
* *
教室に入ると、圭佑がいつもの席でスマホを見ていた。
昌志が近づくと、圭佑は顔を上げた。
「おはよう、昌志」
「おはよう」
いつも通りの挨拶だった。
けれど、昌志は少しだけ圭佑のスマホに目を向けてしまった。
美月が言っていたことを思い出す。
スマホを見て嬉しそうにしていた。
瑞美さんと電話していた。
昨日からは、昌志自身も呼び方を変えた。
遥。
そう呼ぶことになった。
そのことを圭佑に言うべきか、少し迷った。
でも、朝からわざわざ言うことでもない。
昌志は席に鞄を置いた。
圭佑はスマホを机の中へしまう。
その動きを見て、昌志は昨夜のことを思い出した。
「昨日、電話したか?」
「瑞美さんに?」
「うん。膝、少し擦ってたから」
「ああ。連絡した」
「どうだった?」
「大丈夫だって。大きな怪我じゃないって言ってた」
「そっか」
昌志は少しだけ息を吐いた。
「ならよかった」
圭佑は、そんな昌志を少しだけ見た。
「お前の手も、大したことないんだろ」
「何で知ってるんだよ」
「瑞美さんから聞いた」
「ああ」
昌志は自分の手を見た。
絆創膏は、まだ少しだけずれている。
「本当に大したことない。擦っただけ」
「ならいいけど」
圭佑はそれ以上、追及しなかった。
昌志は机に頬杖をついた。
「髪留め、見つかってよかったって言ってた?」
「言ってた。かなり大事なものだったみたいだな」
「母親のものだったらしい」
「それは、なくしたら焦るな」
「だろ」
会話はそこで少し途切れた。
昌志は、少し迷ってから口を開いた。
「あとさ」
「何」
「俺が遥って呼ぶことになったの、圭佑、変に思ってなかったか?」
圭佑は一瞬だけ動きを止めた。
それから、何でもないように聞き返す。
「何で俺が?」
「いや」
昌志は少し視線を逸らした。
「お前、一応彼氏なんだろ。彼女を他の男が名前で呼ぶの、嫌なやつもいるかと思って」
「……ああ」
圭佑は短く答えた。
その返事の間が、ほんの少しだけ長かった。
「機嫌悪くしたかと思った」
「別に、機嫌悪くなんかしてない」
「ならいいけど」
「瑞美さんが嫌がってないなら、いいんじゃないか?」
「そういうものか」
「そういうものだろ」
圭佑は軽く言った。
けれど、その顔は少しだけ複雑だった。
昌志は、それを彼氏としての余裕なのか、そうでないのか、判断できなかった。
圭佑はいつも通りに見えた。
けれど、何かを知っているようにも見えた。昨日、遥と電話したのなら、どこまで話したのだろう。
髪留めのこと。
膝の傷のこと。
昌志が手を擦ったこと。
名前で呼ぶようになったこと。
それくらいなら、話していてもおかしくない。
昌志はそれ以上聞かなかった。
本人たちの話に、深く踏み込むつもりはなかった。
朝のホームルームが終わって、授業が始まった。
今日は珍しく、昌志は授業に集中できた。
黒板の文字をノートに写す。
教師の説明を聞く。
問題を解く。
それだけの時間が、思ったより楽だった。
黒い本の候補がない。
夕方にどこかへ行かなければならないわけでもない。誰かを助けるかどうかを考え続けなくてもいい。
それだけで、頭の中に少し隙間ができた気がした。
休み時間になると、教室のあちこちでいつものように話し声が広がった。
その中に、まだ火事の話題が混じっていた。
「なあ、あの火事の高校生、まだ出てきてないらしいぞ」
「ニュースでやってたやつ?」
「そう。赤ちゃん助けたってやつ」
「家族が出てきてほしいって言ってたよな」
「顔見てお礼言いたいって」
昌志はノートを閉じながら、聞こえないふりをした。
もう何度も聞いた話だ。
けれど、何度聞いても慣れない。
自分のことを、自分ではない誰かのように話されている。
それが気持ち悪かった。
「でもさ、何で出てこないんだろうな」
「普通、出るだろ。感謝されるんだぞ」
「いや、逆に怖くなったんじゃね?」
「何が」
「火事の中入ったんだろ。後から怖くなったとか」
「それなら分かるけど、家族があれだけ言ってるならさ」
そこで、別の男子が笑いながら言った。
「もしかして、火事場泥棒だったりしてな」
昌志の指が止まった。
「は?」
誰かが笑った。
「いや、知らんけど。助けたついでに何か持ってったから出てこれないとか」
「さすがにそれはないだろ」
「でも、名乗り出ない理由って何かあるわけじゃん」
「漫画じゃないんだから」
「分かんねえぞ。世の中、変なやついるし」
何も知らないから、言えるのだ。
昌志はそう思った。
火事の中がどれだけ熱かったのか。
煙で前が見えないこと。
赤ん坊の泣き声がどこから聞こえたのか。
どうしてそこへ行ったのか。
どうして名乗らずに逃げたのか。
何も知らない。
知らないから、好き勝手に言える。
火事場泥棒。
その言葉が、思ったより深く刺さった。
昌志は何も盗んでいない。
ただ、バールを持っていた。
ただ、窓を割った。
ただ、赤ん坊のいる場所を知っていた。
それを説明しろと言われたら、できない。
だから、何も言えない。
「相沢はどう思う?」
また、誰かが圭佑に話を振った。
圭佑は机に肘をついたまま、面倒そうに顔を上げた。
「何が」
「あの高校生。何で出てこないと思う?」
「知らねえよ」
「冷たいな」
「分かるわけないだろ。本人じゃないんだから」
圭佑はそう言って、少しだけ昌志の方を見た。
ほんの一瞬だった。
昌志は視線を落とした。
「火事場泥棒は?」
「馬鹿じゃねえの」
圭佑の声が少しだけ低くなった。
男子が笑う。
「冗談だって」
「冗談でも、助けたやつに言うことじゃないだろ」
「相沢、真面目かよ」
「真面目とかじゃなくて、普通に嫌だろ」
圭佑はそれだけ言って、話を切った。
男子たちは少し気まずそうにしながらも、別の話題へ移っていく。
昌志は何も言わなかった。
圭佑の言葉は、ありがたいようで、少し苦しかった。
助けたやつ。
圭佑はそう言った。
それは昌志のことではない。
圭佑は知らない。
知らないはずだ。
それでも、かばわれたような気がした。
同時に、知らないままかばわせていることが、少し嫌だった。
昼休みを挟んでも、火事の話題は完全には消えなかった。ただ、午後になる頃には、少しずつ薄くなっていった。
誰かが新しい動画の話を始める。
小テストの範囲の話になる。
部活の予定を確認する声がする。
火事の高校生は、少しずつ教室の話題から外れていく。
昌志は、それにほっとした。
ほっとした自分に、少しだけ嫌な気分にもなった。
忘れてほしい。
でも、忘れられるのも違う気がする。
赤ん坊は助かった。
家族はお礼を言いたがっている。
それを知っている。
それでも、自分は名乗り出ない。
名乗り出られない。
だから、忘れてほしいと思ってしまう。
午後の授業は、思ったより集中できた。
黒い本のことを、少しだけ忘れられた。
遥のことも。
圭佑のことも。
火事のことも。
完全に消えたわけではない。
けれど、板書を写して、問題を解いて、教師に当てられて答える。
そういう普通のことをしている間だけは、自分がまだ普通の高校生のように思えた。
夕方になった。
放課後のチャイムが鳴る。
教室が一気にざわつく。
昌志はノートを閉じ、鞄に教科書をしまった。今日は、どこかへ行けとは書かれていない。
誰かを探せとも書かれていない。
何かを拾えとも書かれていない。
そのことが、妙にありがたかった。
「昌志」
圭佑が声をかけてきた。
「今日、帰るのか?」
「うん」
「寄り道なし?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「何もないと思う」
言ってから、少し変な言い方だったと思った。
圭佑は眉を上げた。
「何もないって何だよ?」
「いや、普通に帰るってこと」
「そっか」
圭佑は少しだけ昌志を見た。
「なら、一緒に途中まで帰るか?」
昌志は少し迷った。
でも、今日は一人で帰りたい気もした。
黒い本に何も書かれていない日。
普通に学校へ行って、普通に授業を受けて、普通に帰る日。その普通を、一人で確かめたかった。
「今日はいい」
「そうか」
「うん」
圭佑はそれ以上、無理には誘わなかった。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
昌志は鞄を持って教室を出た。
廊下を歩く。
昇降口で靴を履き替える。
校門を出る。
夕方の空は、薄く明るかった。
何もなかった一日。
そう言っていいのかは分からない。
火事の噂はまだ残っていた。
圭佑は何かを隠しているようだった。
遥の名前は、まだ胸の奥に残っていた。
それでも、黒い本に新しい選択肢はなかった。
今日は、誰かを助けるために走らなくていい。
誰かを見捨てたかもしれないと考えなくてもいい。
それだけで、少しだけ体が軽かった。
昌志は、まっすぐ家へ向かって歩き出した。
六月最後の日は、何もないまま夕方になった。
少なくとも、黒い本は何も言わなかった。




