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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第66話 胸の奥に残った名前

 六月二十九日の夜。


 家に帰ってからも、昌志の頭の中には、駅前でのことが残っていた。


 小さな銀色の髪留め。


 手に残った少しの痛み。


 ようの膝に貼った絆創膏。


 そして、初めて呼ばれた名前。


 昌志さん。


 その声が、何度も思い出される。


 別に、浮かれているつもりはなかった。


 何か特別なことがあったと考えているわけでもない。ただ、耳の奥に残っているだけだ。


 そう思っていた。


 夕食の席で、司がこちらを見た。


「お兄ちゃん」


「何」


「何かいいことあったの?」


 昌志は箸を止めた。


「何で?」


「何となく」


「何となくって何だよ」


「ちょっと顔が変」


「兄の顔を変って言うな」


「じゃあ、にやけてる」


「にやけてない」


「にやけてるよ。気持ち悪い」


「何でだよ」


 昌志は思わず言い返した。


「別に何もない」


「何もないのににやにやしてる方が、余計気持ち悪いでしょ」


「してないって言ってるだろ」


「してるって言ってるでしょ」


 司は当然のように言い返してくる。


 昌志は反論しようとして、言葉に詰まった。自分では、そんな顔をしているつもりはなかった。


 けれど、帰ってから何度も思い出していることはある。


 昌志さん。


 その声が頭をよぎった瞬間、司がさらに目を細めた。


「ほら、今また変な顔した」


「してない」


「した」


「してない」


「はいはい、二人とも」


 母が笑いながら止めに入った。


「食事中に喧嘩しないの」


「喧嘩じゃない。司が変なこと言うから」


「変な顔してるお兄ちゃんが悪いんでしょ」


「してない」


 父は茶碗を持ったまま、少し苦笑していた。


「まあ、静かすぎるよりはいいだろ」


「お父さん、甘い」


「そうか?」


「お兄ちゃんが気持ち悪い顔してるのに?」


「だからしてないって」


 昌志が言うと、母がまた笑った。


 いつもの夕食。


 いつもの言い合い。


 黒い本も、火事のニュースも、駅前で起きたことも、ここにはない。


 少なくとも、表面上は。


 昌志は味噌汁を口に運びながら、自分の手を見た。指の付け根に貼った絆創膏は、少し曲がっている。


 遥に見られたら、また何か言われそうな貼り方だった。


 そのことを考えた瞬間、司がまたこちらを見る。


「お兄ちゃん、やっぱり何かあったでしょ」


「ない」


「絶対ある」


「ないって」


 昌志は短く答え、視線を逸らした。


 何もなかった。


 そう言えば嘘になる。


 でも、何かあったと説明することもできない。


 駅前で、遥の髪留めを拾った。


 名前で呼ばれるようになった。


 それだけのことだ。


 それだけのことなのに、なぜか胸の奥に残っている。


 夕食を終えたあと、昌志は自分の部屋へ戻った。


 *      *



 机に向かう前に、ふと思い出してスマホを手に取る。


 圭佑に電話をかけた。


 数回の呼び出し音のあと、圭佑が出る。


『どうした、昌志』


「今日、駅前で遥に会った」


『瑞美さんに?』


「うん。髪留めを落として困ってたから、拾った」


『髪留め?』


「小さい銀色のやつ。母親が昔使ってたものらしい」


『そうか。怪我とかは?』


「膝を少し擦ってた。大したことはなさそうだったけど」


『本当に大丈夫だったのか?』


「たぶん。絆創膏も貼ってたし」


『そうか』


「一応、彼女なんだろ。連絡してやれば?」


『……ああ』


 圭佑の返事が、少しだけ遅れた。


「あと、髪留めつけてたからかもしれないけど、前より少し髪が伸びた気がした」


『髪?』


「うん。まあ、気のせいかもしれないけど」


『……そうか』


「何だよ」


『いや。何でもない』


「変な反応するなよ」


『してない』


「ならいいけど」


『分かった。瑞美さんには、こっちから連絡してみる』


「うん」


『教えてくれてありがとな』


「別に」


 通話を切る。


 昌志はしばらくスマホの画面を見ていた。


 深い意味があったわけではない。遥が少し怪我をしていたから、圭佑に知らせただけだ。


 圭佑の彼女ということになっているのだから、連絡しておいた方がいいと思った。


 それだけだ。


 昌志はそう考えながら、机の前に座った。

 机の前に座ってからも、しばらく手の絆創膏を見ていた。


 曲がった絆創膏。


 小さな痛み。


 遥の声。


 昌志さん。


 それらを振り払うように、昌志は黒い本を開いた。


 その日の選ぶべき文章は、もう消えていた。


 代わりに、六月二十九日の出来事が、自叙伝のような文章に変わっている。


 黒い本には、こうあった。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――六月二十九日、夕方。


 駅前で、

 遥の小さな飾りが落ちた。


 昌志は、

 駅前広場で、

 それを探した。


 人の流れの中で、

 小さな銀色の髪留めを見つけた。


 手を伸ばしたことで、

 昌志の手には、

 少しだけ痛みが残った。


 けれど、

 飾りは拾い上げられた。


 遥は、

 それを探していた。


 膝には、

 小さな擦り傷ができていた。


 昌志は、

 遥を広場の端まで連れていき、

 絆創膏を渡した。


 遥は、

 その髪留めが、

 母が若い頃に使っていたものだと話した。


 見つかったことで、

 遥はほっとした。


 また助けられたと、

 遥は言った。


 困っている時に、

 見つけてくれる人なんですね。


 遥は、

 そう言った。


 大切なものだから、

 お礼をしたいと、

 遥は言った。


 昌志は、

 物も金もいらないと言った。


 代わりに、

 名前で呼んでほしいと頼んだ。


 その日から、

 遥は昌志を、

 昌志さんと呼ぶことになった。


 昌志も、

 瑞美ではなく、

 遥と呼ぶことにした。


 その言葉と、

 初めて呼ばれた名前は、

 昌志の胸の奥に残った。


 ――六月二十九日、夕方。


 帰り道で、

 知らない子供に声をかけられることはなかった。


 子供は、

 昌志ではない誰かに声をかけた。


 昌志は、

 その子供が何に困っていたのかを知らない。


 けれど、

 その子供は、

 別の誰かと一緒に歩いていった。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、最後まで読んでから、しばらく黙っていた。


 遥。


 黒い本は、最後までその名前で書いている。


 彼女ではない。


 女子高生でもない。


 誰かでもない。


 遥。


 それが少しだけ気になった。


 火事の後、黒い本の文章は、少し前よりはっきりしている気がする。


 名前が出る。


 場所もある程度分かる。


 けれど、細かい時間までは分からない。


 書かれることと、書かれないことがある。


 そして、今日の黒い本には、選ばなかった方の出来事も残っていた。


 知らない子供。


 声をかけられることはなかった。


 子供は、昌志ではない誰かに声をかけた。


 昌志は、その子供が何に困っていたのかを知らない。


 たぶん、大きなことではなかったのだと思う。


 別の誰かと一緒に歩いていったと書かれているのだから、悪い結果にはならなかったのだろう。


 それでも、少しだけ胸に引っかかった。


 自分が選ばなかった出来事も、どこかで起きている。


 黒い本は、それも当然のように書き残す。


 昌志は、指先でページの端に触れた。


 紙はいつも通りだった。


 けれど、そこに書かれている文章だけが、少しずつ自分の生活へ入り込んできている気がする。


 遥の髪留め。


 手に残った小さな痛み。


 そして、名前を呼ばれたこと。


 胸の奥に残った。


 黒い本がそんな書き方をしたことに、昌志は少しだけ引っかかった。


 言えなかったことではない。


 隠したことでもない。


 それでも、残った。


 遥の言葉が。


 遥の少しだけ笑った顔が。


 髪留めに触れた指が。


 母が若い頃に使っていたものだと話した声が。


 昌志さん。


 初めてそう呼ばれた声が。


 胸の奥に、残っている。


「……何なんだよ」


 昌志は小さく呟いた。


 黒い本の文章を閉じようとして、もう一度だけ見てしまう。


 その日から、遥は昌志を、昌志さんと呼ぶことになった。


 昌志も、瑞美ではなく、遥と呼ぶことにした。


 ただ、それだけの文章だ。


 それなのに、目がそこに戻る。


 黒い本は、何も教えてくれない。


 それが良いことなのか。


 悪いことなのか。


 遥との距離が近づいたことに、何か意味があるのか。


 それとも、ただ今日あったことを残しているだけなのか。


 昌志には分からない。


 *   *


 夜の十二時になった。


 昌志は、六月二十九日のページを閉じた。


 少し迷ってから、次のページを開く。


 もう日付は、六月三十日になっている。


 けれど、ページには何も浮かび上がってこなかった。


 選択肢もない。


 誰かの名前もない。


 ただ、白い紙だけがそこにある。


 何も書かれていない。


 それは、本来なら安心していいことのはずだった。けれど、昌志はすぐには安心できなかった。


 一昨日も、何もない日だと思った。


 それでも、本屋で遥に会った。


 火事のニュースを見た。


 司に聞かれた。


 黒い本に書かれていなくても、何も起きないとは限らない。昌志はしばらく白いページを見つめてから、黒い本を閉じた。


 表紙は黒いままだった。


 何も言わない。


 何も教えてくれない。


 ただ、あったことだけを残している。


 昌志は黒い本を机の上に置いた。


 今日はもう、開かないことにした。

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