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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第65話 困っている時に見つけてくれる人

 六月二十九日の放課後。


 放課後、昌志は駅前にいた。


 黒い本には、駅前と書かれていた。


 ただ、それ以上の場所までは分からない。


 駅前広場なのか。


 駅ビルの入口なのか。


 改札へ向かう通路なのか。


 そこまでは書かれていなかった。


 夕方。


 駅前。


 ようの小さな飾りが落ちる。


 昌志が手を伸ばせば、少しだけ痛みが残る。


 昌志が拾えば、遥はすぐに見つける。


 昌志が拾わなければ、遥はしばらくそれを探す。


 それだけだった。


 昌志は駅前広場の端に立ち、周囲を見回した。闇雲に駅前を探しても、見つかるはずがない。


 一言で駅前といっても広い。


 改札前もあれば、駅ビルの入口もある。バス乗り場も、広場も、少し離れた店の前も、全部駅前と言えてしまう。


 けれど、遥が学校帰りに駅へ向かうなら、通る場所はある程度限られる。女子校から駅へ出る道を考えれば、いちばん自然なのはこの広場だった。


 改札へ向かう人の流れが集まり、待ち合わせをする人も多い。落とし物をするなら、たぶんこのあたりだ。


 確信があるわけではない。それでも、何の手がかりもなく歩き回るよりはましだった。


 昌志は駅前広場を中心に探すことにした。


 改札へ向かう人。


 塾へ行く高校生。


 買い物帰りの人。


 自転車を押す中学生。


 人の流れは、時間のせいか、いつもより少し多い、但しそこまで多いわけではない。


 ただ、この中で、小さな飾りを探す。


 難しくはないが、少し無理がある気がした。


 小さな飾り。


 そんなもの、落ちていたところで気づけるのだろうか。


 髪留めなのか。


 ストラップなのか。


 鞄につける飾りなのか。


 黒い本は、そこまでは書いていない。


 ただ、遥のものだということだけは分かる。それなら、見つけないわけにはいかなかった。


 昌志は人の流れを避けながら、広場をゆっくり歩いた。


 地面ばかり見ていると不自然だ。


 それでも、視線はどうしても足元へ落ちる。


 タイルの隙間。


 ベンチの下。


 柱の近く。


 誰かの靴の間。


 何を探しているのか、自分でもよく分からないまま、昌志は歩き続けた。


 そうしていると、足元で何かが小さく光った。


 人の靴と靴の間。タイルの隙間に、小さな金具が引っかかっている。


 昌志は反射的にしゃがみ込んだ。


 細い銀色の髪留めだった。


 飾りは小さい。


 透明な石のようなものが一つだけついている。


 派手ではない。


 けれど、持ち主がきちんと選んだものだと分かるくらいには、丁寧なものだった。


「……これか?」


 昌志は手を伸ばした。


 その瞬間、人の流れが横から崩れた。


 誰かの鞄が腕にぶつかる。


 避けようとした手が、タイルの角に擦れた。


 指の付け根に、鋭くはないが嫌な痛みが走る。


「すみません」


 通り過ぎた人が小さく謝った。


 昌志は返事をする前に、髪留めをつまみ上げた。


 手の甲に小さな擦り傷ができている。


 血がにじむほどではない。


 けれど、確かに痛みは残った。


 黒い本の文章通りだった。


 手を伸ばせば、少しだけ痛みが残る。


 昌志は小さく息を吐いた。


 その直後、少し離れたところで、聞き覚えのある声がした。


「すみません」


 顔を上げる。


 瑞美遥が、人の流れの端で膝をついていた。


 鞄が肩からずれている。


 片手を地面につき、もう片方の手で足元を探している。


「瑞美?」


 声をかけると、遥が顔を上げた。


「岐阜さん」


「何してるんだ」


「髪留めを落としました」


 やっぱりか。


 昌志は手の中の髪留めを見た。


 遥は昌志の手元に気づいて、少し目を見開いた。


「それです」


 声が、いつもより少しだけ早かった。


 昌志が差し出すと、遥は両手でそれを受け取った。指先で確かめるように髪留めに触れる。


 透明な小さな飾りの部分を見て、金具が曲がっていないことを確かめて、それからようやく息を吐いた。


「……よかった」


 小さな声だった。


 けれど、その声には、隠しきれない安堵が混じっていた。


 遥の表情が、少しずつほどけていく。


 困ったように固まっていた目元が緩み、唇がかすかに上がった。


 派手な笑顔ではない。


 それでも、昌志には、遥が本当にほっとしているのが分かった。


「ありがとうございます」


「その前に立てるか?」


「はい」


 遥は立ち上がろうとした。


 けれど、膝に力を入れた瞬間、小さく顔をしかめた。


 昌志は手を伸ばした。


「無理するな」


「無理はしていません」


「してる顔だろ」


「顔に出ていますか」


「出てる」


 遥は少しだけ不満そうにした。


 それでも、差し出された手を見て、迷った末に指先を重ねた。


 昌志は遥の手を引いて立たせた。


 手は思ったより冷たかった。


 遥はすぐに手を離したが、少しだけバランスを崩した。


「膝、擦ってる」


「少しです」


「少しでも血が出てる」


「確認が早いですね」


「見れば分かるだろ」


 遥の膝には、小さな擦り傷があった。


 人の流れの中でしゃがんで探しているうちに、ぶつかられたのかもしれない。


 そのままここに立たせておくのは危ない。


「そこのベンチ行こう。ここだと邪魔になる」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃないから座るんだろ」


 遥は少しだけ黙った。


 それから、諦めたように頷いた。


「……分かりました」


 ■駅前広場の端


 広場の端にあるベンチに移動した。


 遥は鞄を膝の上に置き、落とした髪留めを大事そうに持っていた。


 昌志は鞄から絆創膏を取り出した。最近、黒い本のせいで余計なものを持ち歩く癖がついている。


 絆創膏も、その中の一つだった。


 用意していたつもりはない。


 ただ、何かあった時のために入れていただけだ。


「使う?」


 遥は絆創膏を見て、少し困ったような顔をした。


「準備がいいんですね」


「たまたま」


「たまたまで絆創膏を持ち歩くんですか」


「最近、いろいろあるから」


 言ってから、少しまずいと思った。


 遥がじっとこちらを見る。


「いろいろ、ですか」


「転んだり、物落としたり」


「岐阜さんが?」


「俺とか、周りとか」


 ごまかした。


 遥はそれ以上聞かなかった。


 その代わり、素直に絆創膏を受け取った。


「ありがとうございます」


「貼れるか?」


「貼れます」


 遥は鞄からハンカチを出し、膝の傷を軽く押さえた。それから、昌志が渡した絆創膏を丁寧に貼る。


 その動作が、いかにも遥らしかった。


 雑に貼ればいいだけなのに、端をきちんと合わせている。


「そこまできっちり貼るんだな」


「曲がっていると気になります」


「傷より?」


「傷も気になります」


「そうか」


 昌志は少し笑った。


 遥は貼り終えると、今度は昌志の手を見た。


「岐阜さんも、怪我をしています」


「これくらい平気」


「少し血が出ています」


「出てるってほどじゃない」


「出ています」


 遥の声は静かだった。


 けれど、少しだけ強い。


 昌志は自分の手を見る。


 確かに、指の付け根が少し赤くなっていた。


 細い傷が一本ある。


 痛みは小さい。


 でも、さっきからじんじんしていた。


「絆創膏、もう一枚ありますか」


「あるけど」


「貼ってください」


「俺も?」


「はい」


「大げさだろ」


「大げさではありません」


 遥はまっすぐ言った。


 昌志は少し困ったが、もう一枚絆創膏を出した。


 自分の手に貼る。


 片手で貼るのは少しやりにくい。


 遥がそれを見て、手を伸ばしかけた。


 けれど、すぐに止めた。


「手伝いますか」


「大丈夫」


「そうですか」


 遥はそれ以上、無理には言わなかった。


 昌志は少し曲がった絆創膏を見て、まあいいかと思った。


 遥はその曲がった絆創膏を見て、少しだけ気になっている顔をした。


「何?」


「いえ」


「曲がってる?」


「少し」


「いいだろ、これくらい」


「はい。岐阜さんの手なので」


「言い方」


 遥はほんの少しだけ笑った。


 その表情を見て、昌志は少しだけ気が抜けた。


 遥は髪留めを手に取った。汚れがないか、曲がっていないかを確かめるように見ている。


「それ大事なやつ?」


 昌志が聞くと、遥はすぐには答えなかった。


 髪留めを指先でなぞる。


 その触れ方が、ただの小物に触れているようには見えなかった。


「はい」


 遥は小さく頷いた。


「母が若い頃に使っていたものです」


「お母さんの?」


「今は私がもらっています。古いものなので、普段はあまり使わないんですけど」


「今日つけてたんだ」


「はい。少し迷いました」


 遥は髪留めを見つめたまま言った。


「でも、使わないまましまっておくのも違う気がして」


「そっか」


「だから、落とした時は少し焦りました」


 少し。


 そう言ったが、たぶん少しではなかったのだろう。


 人の多い場所で膝をついて探していた。


 それだけで、遥にとってどれだけ大事なものだったか分かる。


「見つかってよかったな」


「はい。本当に」


 遥は、髪留めを髪の横にもう一度つけた。


 少し伸びてきた髪を耳のあたりで留めると、小さな銀色の飾りが控えめに光った。


 派手ではない。


 けれど、遥にはよく似合っていた。


「変ですか」


「いや」


「なら、なぜ見ているんですか」


「似合ってると思っただけ」


 言ってから、昌志は少ししまったと思った。


 遥は一瞬だけ黙った。


 そして、真面目な顔のまま目を逸らした。


「……そうですか」


「悪い。変な意味じゃなくて」


「分かっています」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんかよ」


 遥は髪留めに触れた。


「また、助けられましたね」


「またってほどじゃないだろ」


「財布の時も、今日もです」


「たまたまだって」


「たまたまでも、助けてくれたことには変わりません」


 遥の声は静かだった。


 昌志は返す言葉に困った。


 自分では、黒い本の記述に引っ張られてここに来ただけだ。


 駅前。


 小さな飾り。


 遥。


 それを見に来た。


 それだけだ。


 でも遥から見れば、困っている時に昌志が現れたことになる。


「岐阜さんは」


 遥が言った。


「何?」


「困っている時に、見つけてくれる人なんですね」


 胸の奥が少し詰まった。


 いや、違う。


 そう言いそうになった。


 自分は、たまたま黒い本を読んでいたから来ただけだ。何も知らなければ、ここには来なかったかもしれない。


 髪留めにも気づかなかったかもしれない。


 でも、その言葉は出てこなかった。


「そんな大したものじゃない」


「私がそう思っただけです」


「そういうの、困るんだけど」


「では、困ってください」


「強いな」


「普通です」


 遥は少しだけ笑った。


 ほんの少しだった。


 それでも、昌志はその表情を見て、今日は来てよかったのかもしれないと思ってしまった。


 黒い本に従っただけなのに。

 それでも、そう思ってしまった。


 遥は、もう一度髪留めに触れた。


 その指先は、さっきより少し慎重だった。


「岐阜さん」


「何?」


「やっぱり、お礼をさせてください」


「お礼?」


「はい」


 遥は真面目な顔で頷いた。


「これは、とても大切なものだったので」


「母親のやつだって言ってたな」


「はい。母が若い頃に使っていたものです。今は私がもらっています」


 遥は髪留めを押さえるようにして、少しだけ目を伏せた。


「だから、拾ってもらえて、本当に助かりました」


「別に、俺は大したことしてない」


「そういうわけにはいきません」


「いや、いいって。お礼とか、いらないから」


「いりませんと言われても困ります」


「何で?」


「何度も助けられて、まだ何も返せていません」


 その言い方が、いかにも遥らしかった。


 真面目で、几帳面で、借りをそのままにしておけない。


 昌志は少しだけ笑いそうになった。


「相変わらず真面目だな」


「相変わらず、ですか」


「几帳面だし」


「それは、よく言われます」


 遥は少しだけ困ったように笑った。


「でも、岐阜さんには、本当に助けてもらってばかりなので」


「……じゃ、その岐阜さんっていうの、やめない?」


 昌志が言うと、遥は瞬きをした。


「え?」


「いや、別に怒ってるわけじゃないけど」


 昌志は少しだけ視線を逸らした。


「正直、岐阜さんって呼ばれるの、あんまり好きじゃないんだ」


「苗字が、ですか」


「うん。地名みたいだろ」


「地名みたい、ですか」


「なんか、どこかにありそうな山の名前みたいじゃないか。岐阜山とか」


「岐阜山、ですか」


 遥は少しだけ考えた。


 それから、ほんの小さく笑った。


「……確かに、少しありそうですね」


「だろ。だから、あんまり好きじゃないんだ」


「そうだったんですね」


「まあ、今さらなんだけど」


 昌志は少しだけ肩をすくめた。


「だから、もしよかったら、名前で呼んでくれないか」


「名前、ですか」


「昌志でいい」


 言ってから、少しだけ照れくさくなった。


 けれど、もう言ってしまった。


「お礼って言うなら、それでいい」


 遥は、すぐには答えなかった。


 視線を少し横へずらし、髪留めに触れたまま、小さく息を吐く。


「少し、恥ずかしいですね」


「嫌ならいい」


「嫌ではありません」


 遥はすぐに言った。


 それから、少しだけ声を整えるように間を置いた。


「では……岐阜さん」


「昌志」


 昌志が訂正すると、遥はぴたりと固まった。


「あ……」


「今ので練習失敗な」


「すみません」


「謝るほどじゃないけど」


 遥は少しだけ頬を赤くした。


 それから、もう一度、慎重に口を開いた。


「……昌志さん」


 呼ばれた瞬間、昌志の方が少しだけ黙った。


 思っていたより、近く聞こえた。


「……うん」


「これで、お礼になるんですか」


「なる」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんですか」


「たぶん」


 遥は少しだけ困ったように笑った。


 その表情を見て、昌志も少し笑った。


「まあ、彼氏がいるやつにこんなこと頼んだら、圭佑に怒られるかもしれないけど」


 軽く言ったつもりだった。


 けれど、遥の表情が一瞬だけ止まった。


 ほんの短い間。


 昌志が気づくかどうかの、ぎりぎりの間だった。


「……大丈夫です」


 遥は、そう答えた。


「大丈夫なのか?」


「はい。大丈夫です」


「ならいいけど」


 遥は髪留めから手を離した。


 その顔はいつも通り真面目だった。


 けれど、ほんの少しだけ耳が赤いようにも見えた。


「では、昌志さん」


「何?」


「私のことは、どう呼びますか」


「遥」


 昌志は、少しだけ間を置いてから答えた。


「俺も、たまにそう呼んでるし。その方が自然だろ」


 今度は、遥の方が少しだけ黙った。


「……はい」


 小さな返事だった。


 でも、嫌がっているようには見えなかった。


 昌志は、胸の奥にまた別のものが残るのを感じた。


 髪留めを拾ったこと。


 手に残った小さな痛み。


 そして、名前を呼ばれたこと。


 黒い本には、どこまで書かれるのだろう。


 そんなことを、ふと思った。


 ■駅前通り


 遥の膝は、大した怪我ではなかった。


 ただ、人の多い場所をそのまま歩かせるのも少し気になった。昌志は、駅の改札近くまで送ることにした。


「一人で大丈夫です」


「分かってる。でも、ついでだから」


「ついでですか」


「駅まで行くだけだし」


「では、ついでに送られます」


「言い方」


 並んで歩く。


 夕方の駅前通りには、映画館の大きなポスターが貼られていた。


 昌志は、その前で少し足を止めた。


「あ、これ新作やるんだ」


「知っている映画ですか」


「シリーズもの。前のやつ、結構好きだった」


「そうなんですね」


「特にこのヒロインが好きでさ」


 昌志はポスターの端に映る女性を指した。


 長い髪の女性だった。


 凛とした顔で、剣のようなものを持っている。


 強そうで、でもどこか寂しそうな表情をしている。


「かっこいいんだよ。見た目もだけど、途中で誰かを助けるために無茶するところとか」


「やはり、長い髪の人が好きなんですか」


「え?」


「違いましたか」


「いや、そこ?」


「見た目も好きだと言ったので」


「まあ、似合ってるとは思うけど」


 遥はポスターをじっと見た。


 それから、自分の短い髪に少しだけ触れた。


「長い髪は、手入れが大変そうです」


「遥は短い方が楽そうだな」


「はい。楽です」


「似合ってるし」


 言ってから、また余計なことを言った気がした。


 遥は、今度はすぐに返さなかった。


「……そうですか」


「さっきも言ったけど、変な意味じゃないからな」


「分かっています」


「本当に?」


「たぶん」


「またたぶんかよ」


 遥は少しだけ口元を緩めた。


 けれど、その指はまだ髪に触れていた。


 昌志はそれに気づかなかった。


 黒い本のことを考えていたからだ。


 今日の文章は、どんな形で残るのだろう。


 遥の小さな飾りが落ちる。


 昌志が手を伸ばせば、少しだけ痛みが残る。


 昌志が拾えば、遥はすぐに見つける。


 昌志が拾わなければ、遥はしばらくそれを探す。


 昌志の手には、絆創膏が貼られている。


 遥の膝にも、絆創膏が貼られている。


 少しだけ痛みは残った。


 でも、髪留めは戻った。


 それなら、これは良い方を選べたことになるのか。


 それとも、また何かを選んだつもりになっているだけなのか。


 分からなかった。


「昌志さん」


「何?」


「今日は、本当にありがとうございました」


「大したことはしてない」


「それでも、助かりました」


 遥は髪留めにそっと触れた。


「これをなくしたら、たぶんしばらく探していたと思います」


 黒い本の通りだ。


 そう思った。


 けれど、もちろん口には出さない。


「見つかってよかった」


 昌志は、それだけ言った。


 遥は静かに頷いた。


「はい」


 駅の改札が近づく。


 人の流れが増える。


 遥はそこで足を止めた。


「私はここで大丈夫です」


「分かった」


「昌志さんも、気をつけて帰ってください」


「うん」


 遥は一度頭を下げた。


 それから、改札の方へ歩いていく。


 短い髪に、小さな銀色の飾りが見えた。


 人の流れの中で、その光はすぐに見えなくなった。


 昌志はしばらく、その方向を見ていた。


 手には、まだ少しだけ痛みが残っている。


 けれど、不思議と嫌な痛みではなかった。


 黒い本に書かれていた通り、痛みは残った。


 でも、遥の髪留めは見つかった。


 遥は、ほっとした顔をしていた。


 そして、初めて自分のことを名前で呼んだ。


 昌志さん。


 その声が、まだ耳に残っている。


「……何なんだよ」


 昌志は小さく呟き、改札前から離れた。


 今日はもう、帰ろう。


 そう思いながら、昌志は駅前を歩き出した。

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