第64話 夕方を選ぶ
六月二十九日の朝。
目を覚ました時から、昌志は昨夜の黒い本の文章を思い出していた。
どちらも、夕方の出来事だった。
駅前で、遥の小さな飾りが落ちる。
昌志が手を伸ばせば、少しだけ痛みが残る。
昌志が拾えば、遥はすぐに見つける。
昌志が拾わなければ、遥はしばらくそれを探す。
もう一つは、帰り道で知らない子供に声をかけられるというものだった。
立ち止まれば、少しだけ帰りが遅くなる。
立ち止まらなければ、子供は別の人に声をかける。
どちらも、火事ほど重くはない。
財布ほど嫌な感じもしない。
ただ、片方には遥の名前が出ていた。
それだけで、昌志の中ではほとんど決まっていた。
遥の方へ行く。
それ以外を選ぶ理由は、あまりなかった。
朝食の間、母はいつも通りだった。
司は少しだけ静かだった。
昨日のテレビのことを思い出しているのかもしれない。それとも、昌志が勝手にそう感じているだけかもしれない。
司は何も言わなかった。
昌志も何も言わなかった。
リビングにテレビはついていない。
それだけで、少し息がしやすかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母の声を背に、昌志は家を出た。
鞄の中には黒い本が入っている。普通の教科書やノートと一緒に、あの黒い本がある。
それがもう、当たり前のようになっている。そう思うと、昌志は少しだけ嫌な気分になった。
学校へ向かう道は、いつもと同じだった。
同じ制服の生徒。
同じ道。
同じ朝。
それなのに、昌志の頭の中だけが落ち着かない。
夕方。
駅前。
遥。
小さな飾り。
その言葉が、何度も浮かんでは消えた。
* *
教室に入ると、圭佑はすでに席にいた。
「おはよう、昌志」
「おはよう」
圭佑はいつものように声をかけてきた。
けれど、昌志には少しだけ違って見えた。
美月が言っていた。
最近、圭佑が少し楽しそうだと。
スマホを見て嬉しそうにしていると。
瑞美と電話していたと。
昨日、遥も圭佑と連絡を取っていることを認めた。
詳しいことは話さなかった。
プライベートな話だと言った。
つまり、そういうことなのだろう。
昌志は席に鞄を置きながら、できるだけ軽く言った。
「瑞美と、仲良くやってるのか?」
圭佑の動きが一瞬止まった。
それから、何でもないような顔を作る。
「何だよ、急に」
「昨日、ちょっと瑞美に会ったから」
「瑞美さんに?」
「本屋で。偶然」
「そ、そうか」
圭佑は少しだけ目を逸らした。
それが逆に分かりやすい。
昌志は、そこを突っ込まないことにした。
「連絡取ってるって聞いた」
「まあ……少しな」
「そっか」
「別に、大げさな話じゃないぞ」
「別に冷やかしてない」
「本当か?」
「本当」
昌志がそう言うと、圭佑は少しだけ警戒を解いたようだった。
ただ、完全には安心していない。
何かを探るように、昌志の顔を見ている。
「瑞美、真面目だよな」
「そうだな」
「几帳面だし」
「それも、そうだな」
「圭佑とは逆っぽい」
「おい」
圭佑が少しだけ眉を寄せる。
昌志は小さく笑った。
「でも、悪い意味じゃない」
「どういう意味だよ」
「合わせて、ちょうどいいんじゃないかってこと」
圭佑は返事に詰まった。
昌志はそれ以上言わなかった。
圭佑と遥のことを、本当に知っているわけではない。
ただ、美月が心配していたから、瑞美はいい人だと話した。
昨日、遥と話して、やっぱりその印象は変わらなかった。
真面目で、几帳面で、軽い気持ちで誰かと関わるような人ではない。
だから、圭佑と関わっているなら、それはたぶん悪いことではない。
そう思うことにした。
「そういえば」
昌志は、話を変えるように言った。
「この前、加藤さんとも話した。瑞美のこと」
圭佑が目を丸くした。
「加藤さんって、瑞美さんの友達の?」
「うん」
「いつの間に」
「スクラッチくじ買いに行った時に、偶然会って」
「スクラッチ?」
「ああ、二万円当たった」
「は?」
圭佑の声が少し大きくなった。
近くの席の生徒がちらっと見る。
圭佑は慌てて声を落とした。
「お前、二万円当たったのかよ」
「一枚だけ買ったら当たった」
「一枚だけで?」
「うん」
圭佑は笑いかけて、途中で表情を止めた。
「何だそれ。運良すぎだろ」
「たまたま」
「たまたま、か」
圭佑はそう言ったが、声には少しだけ引っかかりが残っていた。
「たまたまで二万円当たるか?」
「当たったから」
「……まあ、そうだけどな」
圭佑は呆れたような顔をした。
けれど、その目は完全には笑っていなかった。
「それで、加藤さんと?」
「その場にいて、見られた。そのまま昼を奢らされて、少し買い物に付き合わされた」
「お前、最近すごいな」
「何が」
「交友関係が色々増えてる」
「そういうつもりじゃない」
「加藤さん、どんな感じだった?」
「相変わらず軽い人だった」
「軽い人」
「でも、楽しい人だった」
圭佑は少しだけ笑った。
「それは分かる気がする」
「圭佑も話したことあるだろ」
「ある。あの人、空気を軽くするのうまいよな」
「うん」
昌志は頷いた。
加藤あいは、軽い。
でも、ただ軽いだけではない気がする。瑞美の話も、面白がりながら、踏み込みすぎなかった。その距離感が、少し楽だった。
圭佑は腕を組んで、少し考えるような顔をした。
「でも、悪い人ではなさそうだよな」
「そこは俺もそう思う」
圭佑はそう言ってから、少しだけ表情を緩めた。
「まあ、よかったんじゃないか」
「何が」
「話せる相手が増えるのは、悪いことじゃないだろ」
昌志は返事をしなかった。
話せる相手。
その言葉が、少しだけ引っかかった。
話せる相手が増えている。
でも、本当に話したいことは話せない。
黒い本のこと。
火事のこと。
どうして赤ん坊の居場所を知っていたのか。
どうしてバールを持っていたのか。
どうして逃げたのか。
その全部は、誰にも言えない。
「昌志?」
「何でもない」
昌志は短く答えた。
圭佑は何か言いたそうだったが、ちょうど予鈴が鳴った。
会話はそこで切れた。
*
授業はいつも通り進んだ。
教師の声。
黒板の文字。
ノートを取る音。
窓の外の光。
普通の学校の時間だった。
けれど、休み時間になるたびに、火事の話題がどこかから聞こえてきた。
「あの火事のやつ、まだ名乗り出てないらしいな」
「赤ちゃん助けた高校生だろ?」
「ニュースで家族が呼びかけてたやつ」
「普通、出てくるよな。めちゃくちゃ感謝されるじゃん」
「でも、騒がれるの嫌なんじゃない?」
「いや、でも命の恩人だぞ」
昌志は席に座ったまま、ノートを見ているふりをした。
耳には入ってくる。
聞きたくなくても、聞こえる。
高校生くらいの若い男性。
名乗らず去った人物。
赤ん坊を助けた人。
学校の中では、もう少し違う形で話題になっていた。
英雄。
謎の高校生。
何で出てこないのか分からない人。
そんな言葉が、軽く飛び交っている。
昌志は、鉛筆を持つ指に力を入れた。
自分のことだ。
でも、自分のことではないように話されている。
それが不思議で、怖かった。
「相沢ならどう思う?」
近くの男子が、圭佑に話を振った。
昌志の肩が、ほんの少し強張る。
圭佑は椅子の背にもたれたまま、軽い調子で返した。
「何が?」
「その火事の高校生。何で名乗り出ないと思う?」
「さあな」
「相沢なら出る?」
「俺なら?」
「だって、赤ちゃん助けたらすごいじゃん。テレビ出られるぞ」
「テレビ出たいか?」
「いや、まあ、それは人によるけど」
圭佑は少しだけ息を吐いた。
その視線が、一瞬だけ昌志の方へ向いた。
すぐに戻る。
「助けたからって、顔を出したいとは限らないだろ」
「そうか?」
「騒がれるのが嫌なやつもいるだろうし」
「でも家族はお礼言いたいって」
「それも分かるけどさ」
圭佑は、いつもより少しだけ低い声で言った。
「助けた方にも、色々あるんじゃないの」
「色々って?」
「怖かったとか、思い出したくないとか。自分が何をしたのか、まだよく分かってないとか」
「そんなもんか?」
「知らねえけど」
圭佑は少しだけ肩をすくめた。
「少なくとも、名乗り出ないからって変なやつ扱いするのは違うだろ」
男子は「まあな」と曖昧に頷いた。
別の生徒が、また別の話を始める。
火事の話題は、少しずつ別の方へ流れていった。
昌志はノートを見つめたままだった。
圭佑の言葉が、胸の奥に残っている。
助けた方にも、色々ある。
騒がれるのが嫌なやつもいる。
名乗り出ないからって変なやつ扱いするのは違う。
それは、昌志をかばう言葉のように聞こえた。
でも、圭佑は何も知らないはずだ。
だから偶然だ。
そう思いたい。
それでも、一瞬こちらを見た圭佑の目が、頭から離れなかった。
*
昼休みも、午後の授業も、昌志はどこか上の空だった。
夕方のことを考える。
駅前。
遥。
小さな飾り。
それが何なのかは分からない。
髪留めかもしれない。
ストラップかもしれない。
鞄につけている小さなものかもしれない。
手を伸ばせば、少しだけ痛みが残る。
その痛みがどんなものなのかも分からない。
人混みで踏まれるのか。
何かに手をぶつけるのか。
落ちた場所が悪いのか。
分からない。
けれど、拾えば遥はすぐに見つける。
拾わなければ、遥はしばらくそれを探す。
それだけなら、拾った方がいい。
そう思った。
昌志は、自分が最近、遥に関わることが増えているのを感じていた。
本屋で会ったこと。
圭佑との連絡を聞いたこと。
そして、今日の駅前。
黒い本は、遥の名前を出した。
それがどういう意味を持つのかは分からない。
ただ、無視する気にはなれなかった。
放課後になった。
教室の中が一気にざわつく。
部活へ向かう生徒。
帰る生徒。
友達と話し込む生徒。
昌志は鞄を持って立ち上がった。
「昌志」
圭佑が声をかけてくる。
「今日、寄り道するのか?」
「うん」
「駅前?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
「本屋か、適当に」
嘘ではない。
駅前に行く。
本屋へ寄るかもしれない。
ただ、本当の目的は別にある。
遥の小さな飾り。
黒い本に書かれた夕方。
「俺も行こうか?」
圭佑が軽く言った。
軽く聞こえるように言ったのだと思う。
昌志は首を振った。
「今日はいい」
「そうか」
「うん」
圭佑は少しだけ昌志を見た。
何かを言いたそうだった。
けれど、言わなかった。
「変なことすんなよ」
「しない」
「本当か?」
「本当」
いつかも似たようなやり取りをした気がした。
火事の日。
圭佑はそう言った。
変なことすんなよ。
昌志は、しないと答えた。
結局、その夜に火事の中へ入った。
圭佑はそれを知らないはずだ。
知らないはずなのに、同じ言葉が重く響いた。
「じゃあ、また明日」
「おう」
圭佑は手を上げた。
昌志も軽く返す。
教室を出る。
廊下を歩く。
昇降口へ向かう。
靴を履き替え、校門を出た。
夕方の光が、校舎の壁を薄く染めている。
駅前へ向かう道は、いつもより少し長く感じた。
黒い本には、細かい時間までは書かれていなかった。
ただ、夕方。
駅前。
遥の小さな飾り。
それだけだ。
昌志は鞄の肩紐を握り直した。
火事ほどではない。
命がかかっているわけでもない。
それでも、黒い本に名前が出ている。
それが、遥。
なら、行くしかない。
昌志は、駅前へ向かって歩き出した。




