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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第63話 つきたくない嘘

 六月二十八日の夕方。


 家に帰ると、リビングからテレビの音が聞こえていた。


 また、あの火事の話だった。


 昌志は足を止めた。


 画面には、昼に見たのと同じ家族が映っている。


 母親が赤ん坊を抱いている。


 父親が頭を下げている。


 レポーターの声が、やけに大きく聞こえた。


『助けた若い男性は、結局まだ名乗り出ていません』


 昌志は喉の奥が詰まるのを感じた。


 ソファには司が座っていた。


 母はいない。


 台所にも人の気配はなかった。


 司はテレビをじっと見ている。


 昌志はリモコンを探した。


「これ、変えよう」


 できるだけ普通に言った。


「ニュースばっかり見ても、つまんないだろ」


 司は振り返らなかった。


 テレビを見たまま、ぽつりと言った。


「でも、この人、立派なことしたんだよね?」


 昌志の手が止まった。


「何が?」


「赤ちゃんを助けた人」


 司は画面を見ている。


「火事の中に入って、助けたんでしょ」


「そうらしいな」


「すごいよね?」


「……まあ」


「でも、何で出てこないんだろうね」


 司がようやく昌志の方を見た。


 その目が、まっすぐだった。


 昌志は、喉の奥が乾くのを感じた。


「知らない」


「お礼言いたいって言ってるのに」


「色々あるんだろ」


「色々って?」


「知らないよ」


 少し強い声になった。


 司は黙った。


 昌志はすぐに視線を逸らした。


「俺、こういう話あんまり興味ないから」


「興味ないの?」


「うん」


「赤ちゃん助かったのに?」


「助かったならいいだろ」


 言ってから、昌志は自分の声が冷たく聞こえた。


 司の表情が少し変わる。


 傷ついたわけではない。


 ただ、何かを確かめるような顔だった。


「兄ちゃん」


「何」


「本当に興味ないの?」


「ない」


 昌志は短く答えた。


 嘘だった。


 興味がないわけがない。


 赤ん坊が助かったことは、よかったと思っている。あの家族が感謝していることも、分かっている。


 だからこそ、テレビの前に立っているだけで息苦しくなる。


 でも、興味があるとは言えなかった。興味があると言えば、司に何かを気づかれるかもしれない。


 テレビの向こうの家族にも。


 司にも。


 自分自身にも。


 何かが崩れてしまう気がした。


 だから、ここは嘘をつくしかなかった。


 これ以上ここにいたくなかった。


 テレビの音。


 司の視線。


 出てきてくださいという言葉。


 全部が、胸の奥を圧迫してくる。


「部屋に行く」


 昌志はそれだけ言って、リビングを出た。


 背中に司の視線を感じた。


 呼び止められるかと思った。


 けれど、司は何も言わなかった。


 階段を上がる。


 部屋に入る。


 扉を閉める。


 昌志はその場でしばらく立っていた。


 興味ない。


 自分で言った言葉が、耳に残っている。


 赤ん坊が助かって、興味がないわけがない。


 それでも、そう言うしかなかった。


 昌志は机の椅子に座り、黒い本を見た。


 今日は何も書かれていなかった。


 それなのに、遥に会った。


 火事のニュースをまた見た。


 司に聞かれた。


 そして、自分は嘘をついた。


 何もない日など、どこにもなかった。


 *     *


 夜。


 家の中が静かになってから、昌志は机に向かった。


 黒い本は、机の上に置いてある。


 日付が変わるまでは、まだ少し時間があった。昌志は、今日のことを思い返していた。


 遥と本屋で会った。


 公園で本の話をした。


 圭佑と連絡を取っていることを聞いた。


 でも、詳しいことは聞けなかった。


 遥は、何かを言いたそうだった。


 それも聞かなかった。


 家に帰れば、司が火事のニュースを見ていた。


 立派なことをしたのに、何で出てこないんだろうね。


 その言葉が、まだ胸の奥に残っている。


 時計を見る。


 午後十一時五十九分。


 昌志は黒い本に手を置いた。


 午前零時を少し過ぎる。


 それから、ゆっくりページを開いた。


 新しい文字が浮かんでいた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――六月二十九日、夕方。


 駅前で、

 遥の小さな飾りが落ちる。


 昌志が手を伸ばせば、

 少しだけ痛みが残る。


 昌志が拾えば、

 遥はすぐに見つける。


 昌志が拾わなければ、

 遥はしばらくそれを探す。


 ――六月二十九日、夕方。


 帰り道で、

 知らない子供に声をかけられる。


 昌志が立ち止まれば、

 少しだけ帰りが遅くなる。


 昌志が立ち止まらなければ、

 子供は別の人に声をかける。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、文章を読み終えてから、しばらく黙っていた。


 遥。


 黒い本には、そう書かれていた。


 彼女でも、女子高生でもない。


 遥。


 名前がそのまま出ている。


 時間は夕方。


 場所は駅前。


 細かい時刻までは分からない。


 それでも、誰のことなのかははっきりしていた。


 遥の小さな飾りが落ちる。


 昌志が手を伸ばせば、少しだけ痛みが残る。


 昌志が拾えば、遥はすぐに見つける。


 昌志が拾わなければ、遥はしばらくそれを探す。


 火事よりも、ずっと小さい出来事だった。


 財布よりも、たぶん軽い。


 けれど、遥の名前が出ている。


 それだけで、昌志は無視できないと思った。


 もう一つは、知らない子供。


 立ち止まれば、少しだけ帰りが遅くなる。


 立ち止まらなければ、子供は別の人に声をかける。


 悪い話ではない。助けられたら助けたい。


 けれど、どちらを選ぶかと聞かれれば、最初の方だった。


 遥の名前がある。


 それだけで、答えはほとんど決まっていた。


 昌志は黒い本を閉じた。


 何もない日は、続かなかった。


 次のページには、また選択肢がある。


 小さな飾り。


 知らない子供。


 軽い出来事に見える。


 でも、黒い本に書かれている以上、何もないわけではない。


 昌志は椅子にもたれた。


 明日は、駅前に行くことになる。


 そう思うと、少しだけ息が重くなった。

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