第62話 聞かなかった話
六月二十八日。
午後になってから、昌志は家を出た。
昼のテレビを見てから、部屋に戻った。
けれど、じっとしていることができなかった。黒い本には何も書かれていなかった。だから今日は何もない。そう思っていた。
それなのに、リビングのテレビから流れた火事の映像が、ずっと頭に残っている。
あなたは、いいことをしたんです。
どうか出てきてください。
顔を見て、お礼を言わせてください。
その言葉が、何度も頭の奥で繰り返された。昌志は、それを振り払うように外へ出た。
行き先は、いつもの本屋だった。
特に買いたい本があるわけではない。
ただ、本屋に行けば、時間は潰せる。
本棚を見ていれば、少しは別のことを考えられる。単純にそう思った。
駅前に近い道を歩く。
人は多すぎず、少なすぎない。
休みの日の午後らしい空気だった。
昌志は本屋の前で足を止めた。
自動ドアが開く。
中に入ると、紙とインクの匂いがした。
その匂いは嫌いではない。
むしろ、少し落ち着く。
昌志は新刊の棚へ向かった。
平積みにされた本。
帯のついた小説。
話題の本。
知らない作家の名前。
そういうものを一つずつ眺めていると、少しだけ頭の中が静かになった。
「岐阜さん?」
声をかけられて、昌志は顔を上げた。
少し離れた棚の前に、瑞美遥が立っていた。手には本を一冊持っている。
私服姿だった。
遥は少し困ったように、それでも笑顔を作っていた。
「偶然ですね」
「……瑞美」
「はい」
昌志は少しだけ驚いた。
昨日は加藤あいに会った。
今日は遥に会った。
偶然。
そう思おうとした。
ただ、最近はその言葉を素直に信じにくくなっている。
「本、見に来たの?」
「はい。新刊を少し」
「そっか」
「岐阜さんもですか?」
「まあ。時間潰し」
「時間潰しに本屋ですか」
「変?」
「いえ。悪くないと思います」
遥は手元の本を少し持ち直した。
昌志は、彼女が何を持っているのかを見る。
小説だった。
表紙は落ち着いた色で、派手ではない。
「それ、面白そう?」
「まだ分かりません。前に読んだ作家の新刊なので、少し気になって」
「好きな作家?」
「好きというより、読みやすいです。文章が静かで、無理に驚かせようとしないので」
「そういうのが好きなんだ」
「岐阜さんは?」
「俺は……変な話が好きかな」
「変な話?」
「昔の事件とか、不思議な話とか。本当にあったのか分からないようなやつ」
言ってから、昌志は少しだけ黙った。
美月にも同じようなことを言った。
黒い本を持っている自分が言うには、変な話だと思った。遥は少し考えるような顔をした。
「岐阜さんらしい気もします」
「どの辺が?」
「気になることを、そのままにしておけなさそうなので」
昌志は返事に詰まった。
その通りかもしれない。
違うかもしれない。
今の自分は、知りたいことが増えるほど、聞けないことも増えている。
「そんなことないよ」
「そうですか」
遥は、それ以上は追及しなかった。
二人はしばらく新刊の棚を見た。
昌志は何冊か手に取り、戻した。
遥も同じように、少し迷ってから一冊を棚に戻した。
会話は途切れた。
けれど、気まずい沈黙ではなかった。
ただ、遥は何か言いたそうに見えた。
口を開きかけて、閉じる。
少し視線を迷わせる。
そして、別の棚へ目を向ける。
昌志はそれに気づいた。
気づいたが、聞かなかった。
遥が何を言いたいのか。
それは、たぶん聞かない方がいいことだ。
そう思った。
「少し、外で話しますか?」
遥が言った。
「ここだと、長く話すのも迷惑ですし」
「うん」
昌志は頷いた。
*
二人は本屋を出て、近くの公園へ向かった。
前にも使ったことのある公園だった。駅前から少し離れていて、人通りは多くない。
ベンチはいくつか空いていた。
遥は、自動販売機でお茶を買った。
昌志も同じように飲み物を買う。
その横顔を見て、昌志は少しだけ不思議な気分になった。
小柄で華奢な体に、清潔感のある短い髪。落ち着いた服装もあって、年齢より少し幼く見える。
けれど、本屋で棚を見ていた時の遥は違った。
少し色素の薄い瞳が、古い本の背表紙を追うたび、静かに輝いていた。
控えめなのに、好きなものの前ではちゃんと熱がある。
昌志は、そういうところが遥らしいのかもしれないと思った。。
二人は少し間を空けて、ベンチに座った。
「岐阜さんは、紙の本の方が好きですか?」
遥が聞いた。
「どっちでも読むけど、紙の方が読んでる感じはする」
「分かります」
「瑞美は?」
「紙の方が好きです。途中まで読んだ位置が見えるので」
「几帳面だな」
「そうでしょうか」
「そうだと思う」
昌志が言うと、遥は少しだけ目を伏せた。
「最近、よく言われます」
「誰に?」
「……いろいろな人に」
遥はそう言って、少し笑った。
その笑い方が、どこか困っているように見えた。昌志はまた、聞きそうになった。
最近、よく言われる。
誰に。
圭佑にか。
加藤あいにか。
それとも、自分のことか。
聞こうと思えば聞ける。
けれど、聞かなかった。
代わりに、昌志は別の話をした。
「瑞美って、どんな本が好きなの?」
「静かな話が好きです」
「静かな話」
「大きな事件が起きるというより、少しずつ人の気持ちが変わっていく話です」
「難しそう」
「難しい話もあります。でも、そういう変化を丁寧に書いてあると、読んでいて落ち着きます」
「俺とは逆かも」
「岐阜さんは、事件や不思議な話ですからね」
「そういうのは、答えがあるのかないのか分からないから気になる」
「答えがないものもあります」
「それが嫌なんだけど、気になる」
「分かる気がします」
遥はお茶を一口飲んだ。
風が少し吹く。
木の葉が揺れた。
しばらく、二人は本の話をした。
好きな作家。
読みやすい文章。
途中でやめてしまった本。
表紙で手に取るかどうか。
買う前に何ページくらい読むか。
そんな話だった。
黒い本のことも、火事のことも、圭佑のことも出てこない。
ただの本の話。
普通の会話。
それが、少しだけ不思議だった。
遥は時々、昌志の方を見る。
何かを言いたそうにする。
けれど、言わない。
昌志も聞かない。
聞けば、今の普通の会話が終わってしまうような気がした。
「そういえば」
昌志は、ふと思い出したように言った。
自然に。
できるだけ自然に。
「圭佑と、よく連絡取ってるんだって?」
遥の手が、ほんの少し止まった。
お茶のペットボトルを持ったまま、遥は昌志を見た。
「相沢さんと、ですか」
「うん」
「……はい。少し」
肯定はした。
けれど、詳しくは言わなかった。
やっぱり。
昌志はそう思った。
遥は圭佑と連絡を取っている。
美月の話は間違っていなかった。
「圭佑、楽しそうらしいよ」
「そうなんですか?」
「美月ちゃんが言ってた。スマホ見て嬉しそうだって」
遥は少しだけ視線を逸らした。
「美月さんが?」
「うん」
「そうですか」
遥の返事は短かった。
昌志は、圭佑とどんな話をしているのか聞こうと思った。
何を話しているのか。
どれくらい連絡を取っているのか。
なぜ電話番号を渡したのか。
聞きたいことはいくつもあった。
けれど、その質問は口に出る前に止まった。
知らないふりをすると決めた。
本人たちのことに、踏み込まない。
そう決めた。
それでも、少しだけ聞いた。
「どんな話してるの?」
遥は少し考えた。
そして、丁寧に言葉を選ぶように答えた。
「学校の話や、本の話です」
「本?」
「はい。相沢さんも、少し読むと聞いたので」
「圭佑が」
「意外ですか?」
「少し」
「私も、少し意外でした」
遥は小さく笑った。
それから、また少しだけ表情を整えた。
「それ以外は、プライベートな話なので」
「プライベート」
「はい。相沢さんとの話ですから」
はぐらかされた。
昌志には分かった。
けれど、強く聞き返すことはできなかった。遥がそう言うなら、それ以上踏み込むのは不自然だ。
それに、恋愛の話だと思えば、聞かない方がいい。
圭佑と遥の話。
二人の話。
そこに昌志が踏み込む理由はない。
「そっか」
昌志は頷いた。
「仲良くやってるなら、よかった」
遥が、少しだけ目を見開いた。
「仲良く、ですか」
「違うの?」
「……いえ」
遥は少し困ったように笑った。
「そう見えるなら、それでいいと思います」
「何それ」
「そのままの意味です」
また、何かを隠したような言い方だった。
昌志は気づいた。
でも、聞かなかった。
聞かない方がいいと思った。
「圭佑、悪いやつじゃないよ」
昌志は言った。
遥は静かに頷いた。
「分かっています」
「騒がしいけど」
「それも、少し分かってきました」
遥がそう言うと、昌志は少しだけ笑った。
「だろ。慣れると、あれはあれで分かりやすい」
「分かりやすい、ですか」
「うん。隠し事とか向いてない」
「それは……少し、分かる気がします」
遥も、ほんの少しだけ笑った。
その笑い方は控えめだったが、さっきまでよりは自然に見えた。
「ならいい」
昌志は立ち上がった。
「もう行くのですか?」
「うん。コンビニ寄って帰る」
「そうですか」
「瑞美は?」
「私は、もう少し本屋に戻ります」
「買うか迷ってた本?」
「はい。たぶん買います」
「そっか」
二人は公園の出口まで一緒に歩いた。
そこで道が分かれる。
遥は本屋の方へ。
昌志はコンビニの方へ。
「岐阜さん」
遥が呼び止めた。
昌志は振り返る。
遥は、また何か言いたそうだった。
けれど、少しだけ唇を引き結び、結局別の言葉を選んだ。
「気をつけて帰ってください」
「うん」
「それと……相沢さんのことは、あまりからかわないであげてください」
「からかわないよ」
「そうですか」
遥は少しだけほっとしたように見えた。
昌志は頷き、その場を離れた。
歩きながら、胸の奥が少し重くなる。
遥は何か言いたそうだった。
圭佑のことか。
自分のことか。
黒い本のことではないはずだ。
そう思いたい。
昌志はコンビニに寄り、飲み物を買った。
店を出る時、ふとガラスに映った自分の顔が見えた。
疲れた顔をしていた。
何もない日のはずだった。
黒い本には何も書かれていなかった。
それなのに、何もないわけではなかった。




