表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
68/120

第62話 聞かなかった話

 六月二十八日。


 午後になってから、昌志は家を出た。


 昼のテレビを見てから、部屋に戻った。


 けれど、じっとしていることができなかった。黒い本には何も書かれていなかった。だから今日は何もない。そう思っていた。


 それなのに、リビングのテレビから流れた火事の映像が、ずっと頭に残っている。


 あなたは、いいことをしたんです。


 どうか出てきてください。


 顔を見て、お礼を言わせてください。


 その言葉が、何度も頭の奥で繰り返された。昌志は、それを振り払うように外へ出た。


 行き先は、いつもの本屋だった。


 特に買いたい本があるわけではない。


 ただ、本屋に行けば、時間は潰せる。


 本棚を見ていれば、少しは別のことを考えられる。単純にそう思った。


 駅前に近い道を歩く。


 人は多すぎず、少なすぎない。


 休みの日の午後らしい空気だった。


 昌志は本屋の前で足を止めた。


 自動ドアが開く。


 中に入ると、紙とインクの匂いがした。


 その匂いは嫌いではない。


 むしろ、少し落ち着く。


 昌志は新刊の棚へ向かった。


 平積みにされた本。


 帯のついた小説。


 話題の本。


 知らない作家の名前。


 そういうものを一つずつ眺めていると、少しだけ頭の中が静かになった。


「岐阜さん?」


 声をかけられて、昌志は顔を上げた。


 少し離れた棚の前に、瑞美遥が立っていた。手には本を一冊持っている。


 私服姿だった。


 遥は少し困ったように、それでも笑顔を作っていた。


「偶然ですね」


「……瑞美」


「はい」


 昌志は少しだけ驚いた。


 昨日は加藤あいに会った。


 今日は遥に会った。


 偶然。


 そう思おうとした。


 ただ、最近はその言葉を素直に信じにくくなっている。


「本、見に来たの?」


「はい。新刊を少し」


「そっか」


「岐阜さんもですか?」


「まあ。時間潰し」


「時間潰しに本屋ですか」


「変?」


「いえ。悪くないと思います」


 遥は手元の本を少し持ち直した。


 昌志は、彼女が何を持っているのかを見る。


 小説だった。


 表紙は落ち着いた色で、派手ではない。


「それ、面白そう?」


「まだ分かりません。前に読んだ作家の新刊なので、少し気になって」


「好きな作家?」


「好きというより、読みやすいです。文章が静かで、無理に驚かせようとしないので」


「そういうのが好きなんだ」


「岐阜さんは?」


「俺は……変な話が好きかな」


「変な話?」


「昔の事件とか、不思議な話とか。本当にあったのか分からないようなやつ」


 言ってから、昌志は少しだけ黙った。


 美月にも同じようなことを言った。


 黒い本を持っている自分が言うには、変な話だと思った。遥は少し考えるような顔をした。


「岐阜さんらしい気もします」


「どの辺が?」


「気になることを、そのままにしておけなさそうなので」


 昌志は返事に詰まった。


 その通りかもしれない。


 違うかもしれない。


 今の自分は、知りたいことが増えるほど、聞けないことも増えている。


「そんなことないよ」


「そうですか」


 遥は、それ以上は追及しなかった。


 二人はしばらく新刊の棚を見た。


 昌志は何冊か手に取り、戻した。


 遥も同じように、少し迷ってから一冊を棚に戻した。


 会話は途切れた。


 けれど、気まずい沈黙ではなかった。


 ただ、遥は何か言いたそうに見えた。


 口を開きかけて、閉じる。


 少し視線を迷わせる。


 そして、別の棚へ目を向ける。


 昌志はそれに気づいた。


 気づいたが、聞かなかった。


 遥が何を言いたいのか。


 それは、たぶん聞かない方がいいことだ。


 そう思った。


「少し、外で話しますか?」


 遥が言った。


「ここだと、長く話すのも迷惑ですし」


「うん」


 昌志は頷いた。


 *


 二人は本屋を出て、近くの公園へ向かった。


 前にも使ったことのある公園だった。駅前から少し離れていて、人通りは多くない。


 ベンチはいくつか空いていた。


 遥は、自動販売機でお茶を買った。


 昌志も同じように飲み物を買う。


 その横顔を見て、昌志は少しだけ不思議な気分になった。


 小柄で華奢な体に、清潔感のある短い髪。落ち着いた服装もあって、年齢より少し幼く見える。


 けれど、本屋で棚を見ていた時の遥は違った。


 少し色素の薄い瞳が、古い本の背表紙を追うたび、静かに輝いていた。


 控えめなのに、好きなものの前ではちゃんと熱がある。


 昌志は、そういうところが遥らしいのかもしれないと思った。。


 二人は少し間を空けて、ベンチに座った。


「岐阜さんは、紙の本の方が好きですか?」


 遥が聞いた。


「どっちでも読むけど、紙の方が読んでる感じはする」


「分かります」


「瑞美は?」


「紙の方が好きです。途中まで読んだ位置が見えるので」


「几帳面だな」


「そうでしょうか」


「そうだと思う」


 昌志が言うと、遥は少しだけ目を伏せた。


「最近、よく言われます」


「誰に?」


「……いろいろな人に」


 遥はそう言って、少し笑った。


 その笑い方が、どこか困っているように見えた。昌志はまた、聞きそうになった。


 最近、よく言われる。


 誰に。


 圭佑にか。


 加藤あいにか。


 それとも、自分のことか。


 聞こうと思えば聞ける。


 けれど、聞かなかった。


 代わりに、昌志は別の話をした。


「瑞美って、どんな本が好きなの?」


「静かな話が好きです」


「静かな話」


「大きな事件が起きるというより、少しずつ人の気持ちが変わっていく話です」


「難しそう」


「難しい話もあります。でも、そういう変化を丁寧に書いてあると、読んでいて落ち着きます」


「俺とは逆かも」


「岐阜さんは、事件や不思議な話ですからね」


「そういうのは、答えがあるのかないのか分からないから気になる」


「答えがないものもあります」


「それが嫌なんだけど、気になる」


「分かる気がします」


 遥はお茶を一口飲んだ。


 風が少し吹く。


 木の葉が揺れた。


 しばらく、二人は本の話をした。


 好きな作家。


 読みやすい文章。


 途中でやめてしまった本。


 表紙で手に取るかどうか。


 買う前に何ページくらい読むか。


 そんな話だった。


 黒い本のことも、火事のことも、圭佑のことも出てこない。


 ただの本の話。


 普通の会話。


 それが、少しだけ不思議だった。


 遥は時々、昌志の方を見る。


 何かを言いたそうにする。


 けれど、言わない。


 昌志も聞かない。


 聞けば、今の普通の会話が終わってしまうような気がした。


「そういえば」


 昌志は、ふと思い出したように言った。


 自然に。


 できるだけ自然に。


「圭佑と、よく連絡取ってるんだって?」


 遥の手が、ほんの少し止まった。


 お茶のペットボトルを持ったまま、遥は昌志を見た。


「相沢さんと、ですか」


「うん」


「……はい。少し」


 肯定はした。


 けれど、詳しくは言わなかった。


 やっぱり。


 昌志はそう思った。


 遥は圭佑と連絡を取っている。


 美月の話は間違っていなかった。


「圭佑、楽しそうらしいよ」


「そうなんですか?」


「美月ちゃんが言ってた。スマホ見て嬉しそうだって」


 遥は少しだけ視線を逸らした。


「美月さんが?」


「うん」


「そうですか」


 遥の返事は短かった。


 昌志は、圭佑とどんな話をしているのか聞こうと思った。


 何を話しているのか。


 どれくらい連絡を取っているのか。


 なぜ電話番号を渡したのか。


 聞きたいことはいくつもあった。


 けれど、その質問は口に出る前に止まった。


 知らないふりをすると決めた。


 本人たちのことに、踏み込まない。


 そう決めた。


 それでも、少しだけ聞いた。


「どんな話してるの?」


 遥は少し考えた。


 そして、丁寧に言葉を選ぶように答えた。


「学校の話や、本の話です」


「本?」


「はい。相沢さんも、少し読むと聞いたので」


「圭佑が」


「意外ですか?」


「少し」


「私も、少し意外でした」


 遥は小さく笑った。


 それから、また少しだけ表情を整えた。


「それ以外は、プライベートな話なので」


「プライベート」


「はい。相沢さんとの話ですから」


 はぐらかされた。


 昌志には分かった。


 けれど、強く聞き返すことはできなかった。遥がそう言うなら、それ以上踏み込むのは不自然だ。


 それに、恋愛の話だと思えば、聞かない方がいい。


 圭佑と遥の話。


 二人の話。


 そこに昌志が踏み込む理由はない。


「そっか」


 昌志は頷いた。


「仲良くやってるなら、よかった」


 遥が、少しだけ目を見開いた。


「仲良く、ですか」


「違うの?」


「……いえ」


 遥は少し困ったように笑った。


「そう見えるなら、それでいいと思います」


「何それ」


「そのままの意味です」


 また、何かを隠したような言い方だった。


 昌志は気づいた。


 でも、聞かなかった。


 聞かない方がいいと思った。


「圭佑、悪いやつじゃないよ」


 昌志は言った。


 遥は静かに頷いた。


「分かっています」


「騒がしいけど」


「それも、少し分かってきました」


 遥がそう言うと、昌志は少しだけ笑った。


「だろ。慣れると、あれはあれで分かりやすい」


「分かりやすい、ですか」


「うん。隠し事とか向いてない」


「それは……少し、分かる気がします」


 遥も、ほんの少しだけ笑った。


 その笑い方は控えめだったが、さっきまでよりは自然に見えた。


「ならいい」


 昌志は立ち上がった。


「もう行くのですか?」


「うん。コンビニ寄って帰る」


「そうですか」


「瑞美は?」


「私は、もう少し本屋に戻ります」


「買うか迷ってた本?」


「はい。たぶん買います」


「そっか」


 二人は公園の出口まで一緒に歩いた。


 そこで道が分かれる。


 遥は本屋の方へ。


 昌志はコンビニの方へ。


「岐阜さん」


 遥が呼び止めた。


 昌志は振り返る。


 遥は、また何か言いたそうだった。


 けれど、少しだけ唇を引き結び、結局別の言葉を選んだ。


「気をつけて帰ってください」


「うん」


「それと……相沢さんのことは、あまりからかわないであげてください」


「からかわないよ」


「そうですか」


 遥は少しだけほっとしたように見えた。


 昌志は頷き、その場を離れた。


 歩きながら、胸の奥が少し重くなる。


 遥は何か言いたそうだった。


 圭佑のことか。


 自分のことか。


 黒い本のことではないはずだ。


 そう思いたい。


 昌志はコンビニに寄り、飲み物を買った。


 店を出る時、ふとガラスに映った自分の顔が見えた。


 疲れた顔をしていた。


 何もない日のはずだった。


 黒い本には何も書かれていなかった。


 それなのに、何もないわけではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ