第61話 あなたはいいことをした
六月二十八日の朝。
まだ、休みは一日残っていた。
昌志は昼前まで部屋にいた。
勉強道具を開いてはいる。
けれど、ほとんど進んでいない。
黒い本には何も出ていなかった。
だから、今日は何もない。
そう考えようとしていた。
それなのに、何もないはずの日の方が落ち着かない。
黒い本が沈黙している。
それが、普通のことなのかどうか分からない。今日は何も書かれていないから、やはり何も起きないのか。
それとも、黒い本が書かなくても何かは起きるのか。
考えても分からない。
昌志は机の上の黒い本を見た。
開かない。
開いても、何も書かれていない。
それは分かっている。
それでも、そこにあるだけで気になった。
昼になり、昌志は一階へ下りた。
リビングではテレビがついていた。
母が台所とリビングを行き来している。
司もソファの端に座っていた。
昌志はテーブルの近くに座る。
テレビからは、昼の情報番組の声が流れていた。
最初は、天気の話だった。
次に、近所の店の紹介。
その後、画面が切り替わった。
赤いテロップ。
古い住宅街の映像。
焦げた木材。
黒くなった窓枠。
昌志の手が止まった。
『先日、隣町三丁目で起きた住宅火災です』
アナウンサーの声が、妙にはっきり聞こえた。
昌志は息を止めた。
映っているのは、あの家だった。
夜に見た時とは違う。
昼の光の中で見ると、焼けた跡がよりはっきり分かる。
窓。
昌志が割った窓。
その周りも映っていた。
『この火災では、家の中に取り残されていた生後間もない赤ちゃんが、高校生くらいの若い男性によって救出されました』
母が台所から戻ってくる。
「ああ、この火事の話、まだやってるんだ」
昌志は何も言わなかった。
司も黙っていた。
テレビの中で、映像が変わる。
若い夫婦。
母親らしい女性が、赤ん坊を抱いている。
その横に、父親らしい男性が立っていた。
さらに、年配の女性もいる。
近所の人なのか、親族なのかは分からない。
赤ん坊は小さな帽子をかぶり、母親の腕の中で眠っていた。
『こちらは、救出された赤ちゃんのご家族です。現在、赤ちゃんの命に別状はなく、ご家族は救出した男性に直接感謝を伝えたいと話しています』
母親がマイクを向けられていた。
目元が赤い。
声も少し震えている。
『助けてくださった方、本当に、ありがとうございます』
その言葉だけで、昌志の喉が詰まった。
『誰なのかも分からないまま、行ってしまわれたと聞いています。でも、あなたがいなかったら、この子は助かりませんでした』
母親は、腕の中の赤ん坊を少し強く抱いた。
『責めるつもりなんてありません。聞きたいことも、もちろんありますけど、それよりも先に、お礼を言いたいんです』
昌志は、指先が冷たくなるのを感じた。
聞きたいこと。
その言葉が引っかかる。
どうしてあの場所にいたのか。
どうして赤ん坊が中にいると分かったのか。
どうしてバールを持っていたのか。
どうして名乗らず逃げたのか。
全部、答えられない。
父親がマイクを向けられる。
『あなたは、いいことをしたんです。わたしたち家族を救ってくれたんです』
その言葉が、画面の向こうからまっすぐ飛んできた。
『だから、もしこれを見ていたら、どうか出てきてください。顔を見て、お礼を言わせてください。お願いします』
父親が頭を下げる。
母親も頭を下げる。
赤ん坊を抱いたまま。
周りにいた人たちも、同じように頭を下げた。
昌志は、見ていられなかった。
画面の中の全員が、自分を探している。
感謝している。
お礼を言いたいと言っている。
責めるつもりはないと言っている。
それなのに、昌志には逃げ道を塞がれているように見えた。
『命を救った若い男性は、なぜ名乗らずに立ち去ったのでしょうか』
レポーターの声が続く。
『あなたは、とても素晴らしいことをしたんです。ご家族は、こんなにも感謝しています。どうか、見ているなら、一度だけでも声を届けてあげてほしいと思います』
昌志はリモコンを手に取った。
考えるより先に、電源ボタンを押していた。
画面が消える。
リビングが急に静かになった。
母が驚いた顔でこちらを見る。
「え、どうして切ったの?」
昌志はリモコンを置いた。
「こういうの、苦手だから」
「苦手って……いい話じゃない」
「しつこい感じがして」
「しつこいって。赤ちゃんを助けてもらったんだから、お礼くらい言いたいでしょう」
「そうだね」
昌志は短く答えた。
声が少し硬くなった。
その時、司がソファの端から口を開いた。
「でも、この人もちょっと変だよね」
昌志の肩が、わずかに強張った。
「何が?」
「いや、赤ちゃん助けたのはすごいけどさ。名乗らずに行っちゃうって、ちょっと変じゃない?」
「別に、いいだろ」
「よくはないでしょ。家族からしたら、誰なのか分からないままなんだよ?」
「名乗りたくない事情があったのかもしれないだろ」
「そんな事情ある?」
「あるかもしれないだろ」
思ったより強い声が出た。
司が、少し驚いた顔で昌志を見る。
「お兄ちゃん、何でそんな怒るの?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん」
「怒ってないって」
「二人とも」
母が間に入るように声を出した。
「いい話なんだから、関係ない二人が喧嘩しないの」
「私は別に喧嘩してないし」
「してたでしょ」
母が司を軽くたしなめる。
それから昌志の方を見た。
「昌志も、そんなにむきにならなくていいでしょ」
「別に、むきになってない」
そう答えた瞬間、自分でも嘘だと思った。
司の言葉は、ただの感想だ。
普通に考えれば、そう思う人もいる。
赤ん坊を助けて、名乗らずに立ち去る。
それは確かに、少し変なのかもしれない。
でも、昌志にはその言葉が刺さった。
変。
名乗らずに行った人。
理由の分からない人。
司は知らない。
知らないから言える。
けれど、知らないはずの言葉が、昌志の中心を突いてくる。
母はまだ納得していないようだった。
「お兄ちゃん、何か変だよ。具合悪い?」
「別に」
「昌志、本当に大丈夫?」
「うん。ちょっと、ニュース見たくなかっただけ」
「そう」
母はそれ以上は聞かなかった。
昌志は視線を落とした。
司がこちらを見ている気配があった。
もしかしたら、司は少しだけ引っかかっているのかもしれない。
あの夜、昌志が家を出たこと。
戻ってきた時の様子。
それを、どこかで見ていたのかもしれない。もちろん、はっきり何かを知っているわけではないはずだ。
ただ、司は時々、妙に勘が鋭い。
今のニュースと、昌志の反応。
その二つを見て、何か変だと思ったとしてもおかしくはなかった。
高校生くらいの若い男性。
名乗らず去った人。
あなたはいいことをした。
出てきてください。
その言葉を、司も聞いていた。
昌志は席を立った。
「部屋戻る」
「ご飯は?」
「あとで食べる」
「昌志」
「あとで」
それだけ言って、リビングを出た。
階段を上がる足音が、いつもより大きく聞こえた。
部屋に入り、扉を閉める。
昌志はそのままベッドに座った。
胸の奥がざわついている。
感謝。
お礼。
命の恩人。
いいことをした。
普通なら、嬉しい言葉なのだろう。
けれど、昌志には怖かった。
出てきてください。
その言葉は、黒い本の文章に似ていた。
選ばせる言葉。
逃げ道を狭める言葉。
善意の形をしているのに、昌志を追い詰めてくる言葉。
名乗ることはできない。
説明できない。
バールも、下見も、時間も、赤ん坊の部屋も。
全部、黒い本につながる。
だから、出ていけない。
でも、出ていかなければ、あの人たちは探し続けるのかもしれない。
感謝したいという気持ちを残したまま。
昌志は顔を両手で覆った。
何もない日だと思った。
黒い本に何も書かれていない日だと思った。それなのに、何もないわけではなかった。黒い本が書かなくても、出来事は続いている。
助けた命の先に、人がいる。
家族がいる。
感謝がある。
その全部が、画面の向こうから昌志を呼んでいた。
あなたはいいことをしたんです。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
名乗り出るつもりは、まったくなかった。
出ていっても、何も説明できない。黒い本のことも、どうして赤ん坊がいると分かったのかも、何一つ話せない。
それでも。
赤ん坊が助かったこと。
あの家族が、泣きながら感謝していたこと。そのことだけは、怖いくらいに、嬉しかった。
昌志は、しばらく顔を上げられなかった。




