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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第60話 知らないままの財布

 六月二十七日の夜。


 家に帰った時には、外はもう暗くなっていた。


 駅前の明るい道を選んで歩いた。


 人通りの多い道を選んだ。


 足元に落ちているものを、できるだけ見ないようにして歩いた。それでも、財布は見つからなかった。


 見つけなかった。


 その違いがどこにあるのか、昌志にはまだ分からない。


 玄関を開けると、母の声がした。


「おかえり。今日は遅かったね」


「うん。ちょっと寄り道してた」


「ご飯、もう少ししたらできるから」


「分かった」


 昌志は靴を脱ぎ、二階へ上がった。


 部屋に入る。


 鞄を机の横に置く。


 中には、今日手に入れた二万円がある。


 スクラッチくじで当たった金。


 黒い本に書かれていた通りの金。


 嬉しくないわけではない。


 けれど、素直に喜べる感じでもなかった。


 加藤あいに見られた。


 一緒に昼を食べた。


 買い物にも少し付き合った。


 そして、財布は見つけなかった。


 見つけずに済んだ。


 それをどう考えればいいのか、昌志には分からない。昌志は椅子に座り、鞄の奥から黒い本を取り出した。


 表紙は、いつもと同じように黒い。


 ページを開く。


 六月二十七日の文章が、すでに変わっていた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――六月二十七日、昼。


 駅前の売り場で、

 スクラッチくじを一枚買った。


 削ると、

 二万円が当たった。


 加藤あいは、

 それを近くで見ていた。


 当たったことで、

 昌志は、

 加藤あいと昼を過ごした。


 加藤あいは、

 瑞美と親友のことを少し話した。


 昌志は、

 親友が近づいたものについて、

 もう一度考えた。


 ――六月二十七日、夕方。


 帰り道で、

 落とし物の財布は見つけなかった。


 財布は、

 昌志の手には届かなかった。


 持ち主に疑われることもなかった。


 けれど、

 財布が戻ったのかどうかを、

 昌志は知らない。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、最後の行で目を止めた。


 財布が戻ったのかどうかを、昌志は知らない。


 黒い本は、そう書いている。


 見つけなかった。


 だから疑われなかった。


 それは事実だ。


 けれど、財布が戻ったかどうかは知らない。それも事実だった。


 選ばなかったことまで、黒い本はこうして残す。昌志はページを見下ろしたまま、しばらく動かなかった。


 スクラッチくじは当たった。


 二万円は手に入った。


 加藤あいと昼を過ごした。


 それは悪いことではないはずだ。


 でも、財布の一文が残る。


 知らない。


 知らないままでいる。


 その言葉が、胸の奥に引っかかった。


 もし財布を見つけていたら、どうしていたのか。


 届ければ疑われる。


 届けなければ財布は戻らない。


 黒い本には、そう書かれていた。


 だから、昌志は見つけないようにした。


 帰り道を選んだ。


 人通りの多い道を選んだ。


 足元を見ないようにした。


 それで本当に避けたことになるのか。


 それとも、ただ逃げただけなのか。


 分からない。


 分からないまま、黒い本は結果だけを書いている。


 財布は、昌志の手には届かなかった。


 持ち主に疑われることもなかった。


 けれど、財布が戻ったのかどうかを、昌志は知らない。


 昌志は黒い本を閉じた。

 しばらく、そのまま机の上を見ていた。


 二万円。


 財布。


 加藤あい。


 瑞美。


 圭佑。


 いろいろなものが、頭の中で混ざる。


 今日の幸運は分かりやすかった。


 スクラッチくじを買えば、二万円が当たる。


 実際に当たった。それだけなら、ただのいい出来事で済んだはずだ。


 でも、黒い本はもう一つの文章も残していた。


 昌志は椅子にもたれた。


 天井を見上げる。


 火事の中に入ったことを思い出す。


 赤ん坊を助けた。


 あの時は、迷っている余裕などなかった。


 けれど、財布は違う。


 命ではない。


 火事でもない。


 それなのに、胸の奥に嫌なものが残っている。黒い本は、そういうものまで文章にする。


 助けたことも。


 避けたことも。


 知らないままにしたことも。


 全部、出来事として残していく。


 *


 夕食を終え、風呂に入っても、気分は落ち着かなかった。部屋に戻ると、昌志は机の上の黒い本を見た。


 まだ、次の文章は出ていない。


 日付が変わるまでは、何も分からない。


 それは何度も確かめてきたことだった。


 時計を見る。


 午後十一時四十七分。


 まだ少し早い。


 昌志はスマホを手に取った。


 画面の中には、瑞美の名前がある。


 圭佑の名前もある。


 美月の名前もある。


 黒い本を持つ前なら、誰かと連絡が取れることを、ここまで深く考えたりはしなかった。


 でも今は、誰かとつながることが、少し怖い。つながれば、黒い本の文章に出るかもしれない。誰かの気持ちまで、知らされるかもしれない。


 昌志はスマホを伏せた。


 時計の針が進む。


 午後十一時五十九分。


 部屋の中は静かだった。


 家族はもう寝ている。


 遠くで車の音がした。


 スマホの画面が、午前零時を表示する。


 昌志はすぐには黒い本を開かなかった。


 少しだけ待った。


 午前零時を少し過ぎたころ。


 昌志は黒い本を開いた。


 次のページを見る。


 そこには、何もなかった。


 白い余白だけがあった。


 時間もない。


 場所もない。


 誰かを助ける文章もない。


 何かを選ぶ文章もない。


 昌志は、しばらくページを見つめていた。


 何もない。


 黒い本に何も書かれない日。


 そういう日もあるのかもしれない。


 それとも、まだ浮かんでいないだけなのかもしれない。


 分からない。 ただ、今のページには何もなかった。


 昌志は黒い本を閉じた。


 何もない。


 誰かを選ばなくていい。


 どちらかを切り捨てなくていい。


 そういう日が、一日くらいあってもいい。


 昌志は明かりを消し、ベッドに入った。


 目を閉じても、すぐには眠れなかった。


 それでも、黒い本のページに何もなかったことが、今日だけは救いのように思えた。

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