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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第59話 真っ黒い本と二万円

 六月二十七日の朝。


 休日の朝から家にいると、どうにも落ち着かなかった。


 黒い本には、今日のことが二つ書かれている。


 一つは、昼。


 駅前の売り場でスクラッチくじを一枚買うこと。削れば、必ず二万円が当たる。


 分かりやすい幸運だった。


 もう一つは、夕方。帰り道で、落とし物の財布を見つけること。


 昌志は、鞄の中から黒い本を出し、もう一度ページを開いた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――六月二十七日、昼。


 駅前の売り場で、

 スクラッチくじを一枚買う。


 削れば、

 二万円が当たる。


 買わなければ、

 そのくじは別の誰かの手に渡る。


 ――六月二十七日、夕方。


 帰り道で、

 落とし物の財布を見つける。


 届ければ、

 持ち主に疑われる。


 届けなければ、

 財布は戻らない。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 嫌な文章だった。


 二万円の方は、ただの幸運に見える。


 けれど、財布の方は違う。


 届ければ、持ち主に疑われる。


 届けなければ、財布は戻らない。


 どちらも気分が悪い。


 選ぶつもりはない。

 それでも、頭から消えなかった。


 財布。

 持ち主。


 疑われる。


 昌志はその言葉を振り払うように、黒い本を閉じた。それから鞄に入れる。


 前に買った普通の文庫本も一緒に入れた。

 昼まではまだ時間がある。


 家でじっとしていると、黒い本のことばかり考えてしまいそうだった。


 司のこと。


 火事のこと。


 圭佑と瑞美のこと。


 美月が安心したこと。


 考え始めると、どれも頭の中で絡まっていく。だったら、外に出た方がいい。午前中は、どこかで時間を潰せばいい。


「ちょっと出てくる」


 母にそう言って、昌志は家を出た。


 外の空気は、まだ少し涼しかった。


 日差しは多少ある。けれど、真昼ほど強くはない。


 昌志は駅前へ向かう途中にある、小さな公園に来た。広すぎない公園だ。


 小さな遊具と、ベンチと、木陰がいくつかある。休日だから、親子連れも少しいた。


 それでも、駅前ほど騒がしくはない。


 昌志は木陰のベンチに座った。


 鞄から文庫本を取り出す。


 ページを開く。


 文字を追う。


 けれど、内容はほとんど頭に入ってこなかった。昼になれば、スクラッチくじを買う。


 当たる、二万円が。


 それだけなら、ただの幸運だ。


 けれど、その後には財布の文章がある。


 夕方。

 帰り道。


 落とし物。


 疑われる。


 昌志は小さく息を吐いた。


 文庫本を閉じる。そして、鞄の中の黒い本に手を伸ばした。


 確認したところで、文章は変わらない。


 分かっている。


 それでも、見ずにはいられなかった。


 黒い表紙を開く。


 昨日の夜に浮かんだ文章は、そのままだった。昌志は、ページを見下ろしたまま暫く動かなかった。


 突然、声が降ってきた。


「真っ黒い本なんか読んでて、面白いんですか?」


 昌志は反射的に本を閉じた。


 顔を上げる。


 そこに、加藤あいが立っていた。


 制服ではない。


 私服姿だった。


 明るい色の服に、肩から小さなバッグをかけている。相変わらず、唐突だった。


「……加藤さん」


「はい、加藤さんです」


 あいは笑いながら、昌志の隣ではなく、少し斜め前に立った。


「何読んでたんですか? 表紙、真っ黒でしたけど」


「ただの本」


「ただの本は、そんなに慌てて閉じないと思います」


「気のせい」


「気のせいにするには、動きが速かったですよ」


 昌志は黒い本を鞄にしまった。あいはその動きを目で追ったが、それ以上は覗こうとはしなかった。


「休日に公園で読書ですか。岐阜さん、思ったより優雅ですね」


「時間を潰してるだけ」


「時間を潰すために、真っ黒い本を読むんですか?」


「だから、ただの本だって」


「はいはい。そういうことにしておきます」


 あいは軽く言って、隣のベンチの端に腰を下ろした。


 距離は近すぎない。けれど、話しかけるには十分な位置だった。


「加藤さんは、何してるの?」


「私ですか? ちょっと買い物です。あと、暇つぶし」


「一人で?」


「一人ですよ。みつみんは今日は用事ありです」


「瑞美」


「そうです。みつみんです」


 あいは少し楽しそうに言った。


 瑞美の名前が出たことで、昌志の中に昨日の会話が浮かんだ。


 美月。


 圭佑。


 瑞美。


 電話。


 スマホを見て嬉しそうにしていた兄。


 昌志は少し迷った。


 聞くつもりはなかった。圭佑本人にも聞かないと決めた。けれど、あいは瑞美の友人だ。


 あのファミレスにもいた。

 何か知っているかもしれない。


 もちろん、探りすぎれば不自然になる。


 昌志は、できるだけ何でもないように言った。


「そういえば、瑞美って、圭佑と連絡取ってるんだな?」


 あいの目が少しだけ丸くなった。


「へえ」


「何?」


「いえ。岐阜さんの口からそれが出るんだと思って」


「昨日、美月ちゃんから少し聞いた」


「美月ちゃん?」


「圭佑の妹」


「ああ、助けられた人ですね」


 あいはすぐに納得したように頷いた。


「それで?」


「圭佑が最近楽しそうで、瑞美と電話してたって」


「ほう」


 あいは口元を少し押さえた。

 笑いをこらえているように見える。


「何?」


「いやあ。それはびっくりですね」


「加藤さんも知らなかったの?」


「みつみんが相沢さんと連絡取ってるのは知ってましたよ。でも、そういう風に見えてるんだなあと思って」


「そういう風?」


「だって、妹さんから見たら、彼女できたのかなって感じなんですよね?」


「たぶん」


「それは面白いなあ」


 あいは小さく笑った。


「みつみん、もう『瑞美さん』呼びされてるんですか。距離詰まってるじゃないですか」


「いや、まだ名前じゃなくて名字呼びだろ?」


「細かいですね。そこ、大事ですか?」


「瑞美は名字だし」


「はいはい。岐阜さんも几帳面ですね」


「俺は別に」


「みつみんと似てるかもしれませんよ」


 あいはそう言ってから、少しだけ昌志を見た。その視線が、妙に鋭かった。


「私は、みつみんは岐阜さんのことを気にしてるのかなって思ってましたけど」


 昌志は一瞬だけ黙った。


「俺?」


「はい」


「何で?」


「何でって、前に会った時、みつみん、岐阜さんのことけっこう気にしてましたし」


「それは、前に本屋で何度か会ったことがあるからだけだと思う」


「そうですかね?」


「そうだと思う」


「じゃあ、相沢さんだったんですかね」


 あいは軽い調子で言った。


「恋って、意外なものですからね?」


「恋って決まったわけじゃないだろ」


「でも、岐阜さんはそう思ってるんですよね?」


「俺は別に」


「別に?」


「美月ちゃんが心配してたから、瑞美はいい人だとは言った」


「なるほど」


「真面目で、几帳面で、軽い気持ちで誰かと関わるような人じゃないって」


「正しいです」


 あいはすぐに頷いた。


「みつみんは真面目です。几帳面です。めんどくさいくらい」


「友達だろ?」


「友達だから本当のことを言うんです」


 あいは笑った。


「だから、相沢さんが本気なら大変ですね。みつみん、簡単には流されませんよ」


「圭佑が本気かどうかは知らない」


「でも、嬉しそうなんですよね?」


「美月ちゃんから見ると」


「じゃあ、ちょっと浮かれてるんですね」


 あいは楽しそうに言った。


 昌志は否定しなかった。


 実際、美月はそう言っていた。


 圭佑は楽しそうだった。


 スマホを見て嬉しそうにしていた。


 それが瑞美との連絡だとすれば、黒い本の文章ともつながる。


 親友は、望んでいたものに少し近づいた。


 圭佑が望んでいたもの。


 瑞美との連絡先。


 そう考えれば、話は分かりやすい。


 それにしても、と昌志はあいを見た。


 明るくて、よくしゃべって、前向きに人との距離を詰めてくる加藤あい。一方で、瑞美は知的で控えめで、細かいところまで気にする。


 二人は、ずいぶん違う。


「加藤さんと瑞美って、けっこうタイプ違うよな」


 昌志がそう言うと、あいは少し楽しそうに目を細めた。


「よく言われます。中学からずっと同じ学校なんですけどね」


「ずっと?」


「はい。女子校仲間です」


「それにしては、雰囲気が全然違う」


「みつみんは真面目ですからね。細かいし、几帳面だし、すぐ考え込みますし」


「本当に友達か?」


「ですから、友達なので本当のことを言うんです」


 あいは悪びれずに笑った。


「でも、優しいんですよ。私のことも、何だかんだでよく気にしてくれますし」


「へえ」


「あと、小さくて可愛いです」


「それ、本人に言っていいの?」


「駄目です。怒られます」


「分かってるんだな」


「怒るところも面白いんですけどね」


「最低だな」


「仲がいいと言ってください」


 あいは明るく笑った。からかっているようで、瑞美のことを雑に扱っているわけではない。


 むしろ、分かっているからこそ遠慮なく言えるのかもしれない。昌志は、少しだけ二人の関係が分かった気がした。


「で、岐阜さんは何待ちなんですか?」


 あいが急に話を変えた。


「何待ちって」


「時間潰してるって言ってたじゃないですか。誰かと待ち合わせですか?」


「いや」


「じゃあ、何か用事?」


「昼になったら、駅前に行く」


「お昼ご飯ですか?」


「買い物?」


「スクラッチくじ買おうかと……」


 言ってから、昌志は少しだけ後悔した。


 あいの目が輝いたからだ。


「スクラッチ?」


「うん」


「え、面白そう。私も行きます」


「何で?」


「暇だからです」


「買い物は?」


「後でいいです」


「一人で行くから」


「いいじゃないですか。一枚買うだけでしょ?」


「まあ」


「じゃあ、見届けます。当たったら拍手します」


「当たらないかもしれないけど」


「そういう時は、当たる気がするって言うんですよ」


 昌志は返事に困った。


 当たる。

 黒い本にはそう書かれている。


 だが、それを言えるはずがない。


 昌志は時計を見た。

 昼までは、もう少しだった。


「勝手にすれば」


「はい。勝手にします」


 あいはにこっと笑った。


 *


 駅前の売り場は、昼前の人通りの中にあった。


 小さな窓口。

 宝くじののぼり。


 通り過ぎる人たち。


 昌志は、黒い本の文章を頭の中で繰り返していた。駅前の売り場で、スクラッチくじを一枚買う。


 削れば、二万円が当たる。


 買わなければ、そのくじは別の誰かの手に渡る。


 一枚、それだけだ。


 余計に買う必要はない。


「どれ買うんですか?」


 あいが横から覗き込む。


「これ」


 昌志は、目についたスクラッチくじを一枚だけ買った。


 売り場の人がくじを渡す。昌志はそれを受け取り、近くの邪魔にならない場所へ移動した。


「本当に一枚だけなんですね」


「一枚でいい」


「潔い」


 あいは少し楽しそうに見ている。


 昌志は硬貨を取り出した。


 くじの銀色の部分を削る。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 数字が見える。

 最初は何も思わなかった。


 けれど、最後まで削った瞬間、あいが先に声を上げた。


「え、待って。これ、当たってません?」


 昌志はくじを見下ろした。


 当たり。


 二万円。


 黒い本の通りだった。


 分かっていた。分かっていたはずなのに、実際に数字を見ると、胸の奥が少しだけ跳ねた。


「……当たってる」


「すごっ」


 あいは本当に驚いた顔をした。


「岐阜さん、持ってますね」


「たまたま」


「たまたまで二万円当たります?」


「当たる時は当たるんじゃない」


「冷静ですね。私だったらもっと騒ぎます」


「ここで騒ぐなよ」


「騒ぎませんよ。えらいので」


 あいは声を落としながらも、目をきらきらさせていた。


 昌志は換金の手続きを済ませた。


 手元に二万円が来る。


 封筒に入った現金は、妙に重く感じた。


 二万円。


 大金というほどではない。けれど、高校生が休日に偶然手に入れる金額としては、十分すぎる。


 昌志は封筒を鞄にしまった。


「じゃあ、お祝いですね」


 あいが言った。


「何のお祝い?」


「二万円当選祝い」


「……一人で帰る」


「えー。私、見届け人ですよ?」


「だから何?」


「見届け人には報酬が必要です」


「勝手についてきただけだろ」


「ごちそうさまです」


「……まだ何も言ってない」


「でも、当たった人がここにいます」


 あいはにこにこしている。


 昌志はため息をついた。


 強引だ。ただ、嫌な強引さではなかった。


 それに、夕方の文章がある。


 帰り道で、落とし物の財布を見つける。


 届ければ、持ち主に疑われる。


 届けなければ、財布は戻らない。


 今すぐ一人で帰るより、しばらく駅前にいた方がいい。夕方の帰り道を避けられるかもしれない。


 そう考えてしまった時点で、昌志は少しだけ自分が嫌になった。


「……少しだけなら」


「やった」


「高いものは駄目」


「分かってます。庶民派なので」


「自分で言うな」


 あいは楽しそうに笑った。


 *


 二人は駅前の店に入った。


 昼食には少し遅い時間になっていたが、まだ人は多かった。


 昌志は軽いものを頼んだ。

 あいも同じようなものを頼む。


 席に着くと、あいはさっそく言った。


「いやあ、二万円ってすごいですね」


「何回言うんだよ」


「だって目の前で当たったんですよ。言いますよ」


「加藤さんも買えばよかったのに」


「私は見届け人なので」


「便利な立場だな」


「便利に生きてます」


 あいは悪びれずに言った。

 その軽さに、昌志は少しだけ気が抜けた。


 圭佑とも、瑞美とも、美月とも違う。


 あいは近づき方が軽い。けれど、黒い本を見ても覗き込もうとはしなかった。


 からかうが、追及しない。

 その距離感は、少しだけ楽だった。


「でも、みつみんと相沢さんかあ。やっぱり面白いですね」


「まだ決まったわけじゃない」


「相沢さん、勢いありますし。みつみんは慎重ですし。案外、合うかもしれませんよ」


「そういうものか?」


「そういうものです。たぶん」


「またたぶんかよ」


 昌志は少しだけ笑った。


 話しているうちに、時間は過ぎていく。


 昼のスクラッチは終わった。


 二万円は当たった。

 けれど、財布の文章はまだ残っている。


 昌志は時々時計を見た。


 午後三時。


 午後四時。


 夕方が近づいてくる。


 今帰れば、帰り道で財布を見つけるのかもしれない。それなら、帰らなければいい。


 そう考えてしまった自分が、また少し嫌だった。


「岐阜さん」


 あいが顔を覗き込んできた。


「さっきから時計見てますけど、何かあります?」


「別に?」


「別にって顔じゃないですね」


「帰る時間を考えてただけ」


「じゃあ、もう少し付き合ってください」


「何に」


「買い物です。最初からその予定でした」


「俺、関係ないだろ」


「荷物持ちがいります」


「やらない」


「冗談です」


 あいは笑った。


 昌志は少し迷った。


 夕方の帰り道を避けるだけなら、駅前にもう少しいればいい。加藤あいの買い物に付き合う理由はない。


 でも、一人で駅前をうろつくよりは自然だった。


「少しだけなら」


「今日はそればっかりですね」


「少しだけだからな」


「はいはい」


 *


 あいの買い物は、本当に大したものではなかった。


 雑貨屋に寄る。

 文房具を見る。


 小さなメモ帳を手に取って、戻す。


 別の店で髪留めを見る。


 買うのかと思えば、やっぱり買わない。


「買わないのかよ」


「見るのが楽しいんです」


「時間かかるやつだ」


「女子の買い物とはそういうものです」


「主語が大きい」


「細かいですね」


 あいは笑いながら、別の棚へ移動した。


 昌志は少し離れて立つ。店の外を見ると、空は夕方の色に近づいていた。


 帰り道で、落とし物の財布を見つける。


 黒い本の文章が頭をよぎる。


 今は駅前の店の中にいる。


 帰り道にはいない。


 それで避けられるのか。


 そんな単純な話なのか。


 分からない。けれど、少なくとも今は財布を見つけていない。


 そのことに、昌志は少しだけ安堵していた。そして、繰り返し安堵している自分が、嫌だった。


「岐阜さん、これどう思います?」


 あいが小さなメモ帳を二つ持って戻ってきた。


「どっちでもいい」


「一番だめな答えの見本です」


「じゃあ、こっち」


「理由は?」


「色が落ち着いてる」


「なるほど。じゃあ、こっちにします」


「適当だな」


「人の意見を尊重したんです」


 あいはそう言って、そのメモ帳を買った。


 店を出ると、空はさらに暗くなっていた。


 夕方と夜の境目。


 人通りはまだ多い。


 駅前は明るい。


 昌志はその明るさの中を歩きながら、今日一日が妙に長かったと思った。


 公園。


 黒い本。


 加藤あい。


 瑞美と圭佑の話。


 スクラッチくじ。


 二万円。


 そして、見つけなかった財布。


「今日はありがとうございました」


 あいが言った。


「何が?」


「ご飯。ごちそうさまでした」


「安いやつだけどな」


「当選者のご飯は縁起がいいので」


「何だそれ?」


「今作りました」


 あいは笑った。


 それから、ふと思いついたようにスマホを取り出した。


「そうだ。岐阜さん、連絡先教えてください」


「何で?」


「今日一緒に二万円当てた仲じゃないですか」


「一緒には当ててない」


「見届けました」


「そればっかりだな」


「あと、また真っ黒い本を読んでたら声をかけるために」


「やめろ」


「冗談です」


 あいはにこにこしていた。


 昌志は少し迷った。加藤あいと連絡先を交換する理由はない。それに、今日の出来事は黒い本に書かれていたものではない。


 少なくとも、加藤あいと会うことは書かれていなかった。


「必要になったら、瑞美経由で聞けばいいだろ」


「えー。みつみん経由ですか」


「友達なんだろ?」


「友達ですけど。岐阜さん、意外と堅いですね」


「普通だと思う」


「じゃあ、今日は諦めます」


「今日は?」


「次があるかもしれませんから」


「ないと思う」


「そういうことを言う人ほど、また会うんですよ」


 あいは軽く手を振った。


「じゃあ、私はこっちなので」


「うん」


「今日はありがとうございました。二万円の人」


「その呼び方やめろ」


「考えておきます」


 あいは笑って、駅の方へ歩いていった。


 昌志はその背中を見送った。


 加藤あい。


 瑞美の友人。


 明るくて、前向きで、けれど妙に鋭い。


 今日、偶然会った。偶然、一緒にスクラッチくじを買いに行った。


 偶然、二万円が当たるところを見られた。


 偶然、夕方まで一緒にいた。


 偶然。


 本当にそうなのかは分からない。ただ、黒い本には加藤あいのことは書かれていなかった。


 少なくとも、今日の文章には。


 昌志は鞄の中の黒い本を思い出す。


 昼の文章は終わった。


 スクラッチくじは当たった。


 夕方の文章は、選ばなかった。


 財布は見つけなかった。


 それでいいのか、分からない。


 分からないまま、昌志は家へ向かって歩き出した。


 駅前の明るい道を選んだ。


 人通りの多い道を選んだ。


 足元に落ちているものを、できるだけ見ないようにしながら。


 それでも、財布は見つからなかった。


 見つけなかった。


 その違いがどこにあるのか、昌志にはまだ分からなかった。

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